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「表象」と「上演」──森元庸介『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』がひらく問題圏

報告:横山義志

「異邦人の眼ざしが静かな水面をかき乱す、私たちが知り尽くしていると

思い込んでいた認識論的カテゴリーのなめらかな鏡面を。」

(ピエール・ルジャンドル)


私が所属している日仏演劇協会では、2022年1月21日、表象文化論学会員の森元庸介氏(東京大学大学院総合文化研究科准教授)をお招きし、「西洋はいかにして演劇を許し、芸術を愛するようになったか──決疑論と美学の誕生」と題して、ご著書『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』(Yosuke Morimoto, La légalité de l'art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, préface de Pierre Legendre, Paris, Cerf, 2020)についてご講演いただいた。本書では、西洋近代美学の土台が道徳神学、とりわけ決疑論における観劇の可否をめぐる議論によって形づくられたことを示す刺激的な論考が展開されている。その内容の一端を日本語でご紹介いただく貴重な機会となり、70名以上の方々にご参加いただいた。講演の内容とフランス演劇史研究上の意義に関してはすでに『日仏演劇協会会報』復刊10号【リンク】に詳しい報告を載せていただいたが、本書では「表象」という概念をめぐる重要な考察も展開されているので、この場をお借りして、表象文化論の研究者に向けて、改めていくつか補足しておきたい。

まずは、本書の内容を少しご紹介しておこう。決疑論が西洋近代美学の土台を形成する際に中心的な役割を果たしたのは、演劇を許容してよいのか否かという問題だった。古代ローマの教父たちは、演劇を観に行くこと、上演することを激しく断罪した。それが中世から近代にかけて、条件付きで許容されるようになっていく。それを可能にしたのは、決疑論における演劇と俳優をめぐる長年にわたる記述の積み重ねだった。決疑論というのは、キリスト教の枠組みのなかで、個々の具体的な行いが良いものか悪いものかを判断するための学問である。この分野の書物は膨大にあるが、一九世紀以来ほとんど再版されておらず、研究もあまり進んでいない。一見断絶のない解釈の積み重ねのなかで起きる微細で緩慢な変化が、やがて演劇への新たな態度を生み、ついにはキリスト教のあり方自体にも問い直しを迫るものになっていく。そして演劇を許容する理論的枠組みが形成されると、それが芸術全般を受容する際の枠組みにもなっていく。この経緯を知ると、「芸術」の名のもとで何が許容され、何が排除されているのかも見えてくる。近年、フランス旧体制下における演劇批判については優れた研究がなされてきたが、演劇寛容論が生まれた経緯を解明する試みはほとんどなされてこなかった。神学のうちに「ヨーロッパ文化の舞台裏」(ルジャンドル)を見る、極めて刺激的な論考である。

この過程では、「表象(羅:repraesentatio)」という概念が重要な位置を占めている。決疑論を通じて、「表象そのもの(repraesentatio ipsa)」は「表象されたことがら(res repraesentata)」から切り離しうるもの、「思念そのもの(cogitatio ipsa)」のうちで完結しうるもの、それに同意を与えずに眺めることが可能なものとみなされるようになった。「表象」がこのように「無関心性」という態度によって受容しうるものであるということが、近代芸術論の基盤となっていくのである。この考察を通じて、私が演劇を考える際に「表象」という言葉を使うことについて感じていた違和感の理由が少し見えてきた。これについては講演会報告の末尾をご覧いただきたいが、一つだけ補足しておけば、とりわけトーキーの誕生以来、演劇がむしろ現前を重視するジャンルへと変容してきたことがこの違和感の背景にあるのだろう。

だがそもそも、なぜ「表象(repraesentatio)」という語が演劇の「上演」を指して使われたのだろうか。というのは、古典古代のラテン語において「演じる」「上演する」を意味するのはludere「遊ぶ」やagere「行う」であり、repraesentareという動詞が用いられることはなかったからである。演出家やプロデューサーという職種が成立する以前には、上演の主体は多くの場合俳優だったので、「演じる」と「上演する」はほぼ同義語だった。この意味で、これは私が専門とする演技論史を考えるうえでも重要な問題である。

森元氏によれば、これらの決疑論で用いられている「表象」概念はヘルマヌス・アレマヌス(1272没)によるイブン・ルシュド(アヴェロエス)『アリストテレス『詩学』中註解』(1174)の羅訳(1256)に多くを負っている。このテクストはトマス・アクィナスが唯一参照できた『詩学』だった。「再現(模倣)すること[μιμεῖσθαι]は、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である。[…]すべての者が再現されたものをよろこぶことも、人間にそなわった自然な傾向である」(松本仁助・岡道男訳)という『詩学』の一節において、ヘルマヌスは「再現(模倣)すること[μιμεῖσθαι]」を「類似(させること)[assimilatio]」と「表象[repraesentatio]」の二語を使って訳している(他の羅訳者は「模倣[imitatio]」を用いている)。これはミーメーシスがもつ「模倣すること」と「(鑑賞すべき)模倣されたもの」という二つの側面、いわば制作学(詩学)的側面と感性学(美学)的側面に対応している。つまり、トマス・アクィナス以降の神学の文脈において「表象[repraesentatio]」とは、人間という理性的存在が自然に追求する知的快楽を満たす対象なのである*1

*1 La légalité de l'art, op. cit., pp. 248-260. これはイブン=ルシュドの原典ではそれぞれتشبيه (tashbīh), محاكاة (muḥākā)に相当するという(p. 255, n. 1)。

こうしてアリストテレス『詩学』が、すでに13世紀から、劇詩論のみならず上演をめぐる考察にも大きく影を落としていることが見えてきた。だが、「表象」と「上演」をめぐって、まだ私には十分に見えていない圏域があることもわかってきた。以下の問いのうちにはすでに研究が進んでいるものもあるだろうが、ここに記して、識者の教えを請いたい。

1)「上演」の意味でのrepraesentatioの起源

そもそもなぜ演劇の上演にrepraesentatio / repraesentareという言葉が使われるようになったのか。森元氏も指摘しているように、これらの語は古代から演劇の上演を語る際に使われていた。だが管見の限り、古代においては「芝居を演じる」「役を演じる」といった用例は見当たらず、俳優を主語とする用例は、少なくともテルトゥリアヌス『見世物について』(197-202頃)やセネカ『書簡集』(65頃)まで遡ることができるが、帝政期以前には見られない。この紀元1〜2世紀頃に何が起きたのか*2。そこにはキリスト教の影響があったのか*3

*2 Tertullianus, De spectaculis, XVII, 2 (cf. id., Apologeticum, XV, 3) ; La légalité de l’art, op. cit., p. 167; Seneca, Epistulae, XI, 7. スエトニウス『ローマ皇帝伝』(119〜122頃)には“repraesentare spectaculum” (Caligula, LVIII, 1), “(vocem) repraesentaturum” (Nero, XXI, 1)という用例があり、ここでのrepraesentareは「直ちに実行する」という古典的な意味で解釈することができるが、文脈上それぞれ「(カリグラが)舞台上演を実施する」「(ネロが)舞台に出演する」ということを意味していて、これらが新たな用法との橋渡しをした可能性も考えられる。これらはカリグラやネロの過剰な見世物好きが語られる場面であり、テルトゥリアヌスの文脈とも合致する。これがネロに仕えたセネカの用例と合わせて解釈され、「演じる」を意味する用法の確立を後押しした可能性はある。Cf. Hegesippus (ed. Ussani), III, 1, 1, in sv. « Repraesento », Thesaurus Linguae Latinae, Berlin, De Gruyter, 2022.
*3 ガダマーによれば、「ローマ人に親しまれていたこの[repraesentatioという]語は、キリスト教の化肉(Inkarnation)と聖体(corpus mysticum)の考えに照らされてまったく新しい意味をもつようになった。repraesentatioはそこでは、もはや模写や画像による描写、あるいは代金の支払いという意味の商用語としての〈履行〉のことではなく、いまや代行を意味することになる。[…]repraesentareとは、現前化させること[Gegenwärtigseinlassen]である。」(ハンス=ゲオルク・ガダマー『真理と方法 I』轡田収他訳、法政大学出版局、一九八六年、二八二頁、註九; Hans-Georg Gadamer, Gesammelte Werke, Bd. 1, Hermeneutik : Wahrheit und Methode 1, Tübingen, Mohr, 1986, p. 146, n. 250.)

2)「上演」概念と聖餐論争の関係

ミサにおける聖体拝領/聖餐をめぐってrepraesentareという語が使われることがあり、これが演劇の上演になぞらえられることもある。だが一方で、この儀礼は決して演劇になってしまってはならないものでもあった*4。この文脈と近代以降の演劇論における「上演/表象」概念はどのような関係にあるのか。

*4 村井華代「「これはわたしの体である」─聖餐の〈脱演劇的〉記号論」『西洋比較演劇研究紀要7』二〇〇八年、一九~四〇頁参照。

3)「演じる」の意味でのrepraesentare

近代ヨーロッパの演技論において、「演じる」の意味でrepraesentareの派生語(仏:représenter, 伊:rappresentare, 英:to represent…) が用いられることがあるが*5、「演じる」を表す仏:jouer / déclamer, 英:to play / to actなど他の主要な動詞とどのような関係にあるのか。

*5 フランス語のreprésenterは、たとえばルイ一三世「俳優の職業に関する宣言」(一六四一)など、法や制度論的文脈で用いられることは多いが、実践的な演技論のなかではあまり用いられない。一方イタリア語においては、ルイージ・リッコボーニが自らの演技論をDell'arte Rappresentativa(一七二八)と名づけているように、repraesentatioの派生語がより重要な位置を占めているように思われる。ここには仏伊における演劇と教会の距離のちがいも影響しているのだろうか。

テルトゥリアヌスの激烈な演劇批判においては、俳優は「極限にまで粉飾された卑猥」を、「女性の扮装をして、自らの性と慎みとを根絶し、舞台上にいながら家の中以上に赤面することなく描写する[repraesentat]」とされている*6。ここで俳優は、過去に存在していたものを「再-現前化」するのではなく、むしろ表象行為を通じて表象の対象を創造している*7このre-はもともと反復ではなく強意の接頭辞だったと考えることもできる*8つまりrepraesentareとは、praesens「現前する」という形容詞の「今ここ」性が強調され、「まさにここに」あるいは「今すぐに」あらしめる、という行為を表していたのである。テルトゥリアヌスのいうrepraesentareとは、現前する身体が、自らに刻み込まれた技術を通じて、現前しない身体を生々しく立ち上がらせることに他ならない*9。この生々しさは、アリストテレス/イブン=ルシュド/トマス・アクィナスを経由してだいぶ脱色されてしまったわけだが、今日の演劇において「表象」を論じるには、これをどう位置づけるべきか、改めて考える必要があるだろう。

*6 *2を参照。
*7 Cf. ガダマー前掲書二〇五頁; Gadamer, op. cit., pp. 146-147.
*8 Cf. sv. « Représenter », Alain Rey (dir.), Le Robert Dictionnaire historique de la langue française, Paris, Le Robert, 2004. praesentareという語はrepraesentareよりも新しく、帝政期以降にしか見られない。repraesentareとpraesentareがほぼ同義語として扱われる例も少なくない(sv. “Repraesento”, Thesaurus Linguae Latinae, 2022)。
*9 Cf. Quintilianus, Institutio Oratoria, VI, 1, 31 ; VI, 2, 29 ; VIII, 3, 61 ; XI, 3, 156.

実をいえば、西洋演技論史の通史的なものを執筆しているところで、一応目を通しておかなければと思って本書を開いてみたのだが、あまりに大きな盲点があったことに気づかされ、大幅な計画変更を余儀なくされた。演技論に関しては、以前は神学の影響は少ないと考えていたが(実際、直接神学が参照されることはまずない)、本書のおかげで、中世の神学が古代演技論と近代演技論のあいだをつなぐ環の一つであったことが見えてきた。「表象」という概念自体の生成過程と含意とを見つめなおすためにも、ぜひ多くの方々に本書をご一読いただければと思う。

                                                      (横山義志)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年6月30日 発行