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池田剛介×岡本源太対談「芸術のプロトタイプとプロジェクトの社会──現代芸術の現在」

報告:岡本源太

2021年12月23日、池田剛介氏(美術作家・アートスペース「浄土複合」ディレクター)と僕、岡本源太(岡山大学・美学)とのオンライン対談「芸術のプロトタイプとプロジェクトの社会──現代芸術の現在」が岡山大学文学部イベントとして開催された。その二年前の平倉圭氏(横浜国立大学・芸術学)との対談「かたちは思考する、ゆえに……芸術学の現在」が現在進行形の芸術研究について反省するものであったとすれば、今回の対談は芸術制作の現在進行形について考察するものであったと言えよう。

考察の手懸かりになったのは、現代フランスの哲学者エリー・デューリングの提起した「プロトタイプ」という概念であり、2002年の論考「プロジェクトからプロトタイプへ(あるいは、いかに作品にせずにすますか)」をはじめとする、彼の一連の芸術批評である。デューリングは、未完のプロジェクトを果てしなく遂行し続ける現代芸術──プロセス・アートからリレーショナル・アートにいたる──が実はロマン主義美学の残滓を引き摺っていることを指摘し、それに代わって、そのプロセスやパフォーマンスのなかで具体的に働いている数々の試作物、プロトタイプに注目したのであった。今回の対談では、彼のプロトタイプ概念に触発されつつ、ただし彼自身が好んで取り上げるコンセプチュアル・アートや実験芸術の事例とはまた違った作品──とくにクリストと赤瀬川原平の「梱包」作品──に言及しながら、完成作でもなければワーク・イン・プログレスでもないような今日的な芸術のありようを探っていった。

この対談はすでに活字化されており、デューリングの論考「プロジェクトからプロトタイプへ(あるいは、いかに作品にせずにすますか)」およびインタビュー「プロトタイプ」とあわせて、『Jodo Journal』第3号(2022年)に掲載されている(https://jodofukugoh.com/news/2022/03/14/632/)。仔細についてはそちらを読んでいただければ幸いである。対談は、いわば「失敗の創造性」をめぐる話題で終わった。プロトタイプとしての芸術はあくまで試作品であり、叩き台にして実験であるから、たとえ失敗作であろうとも新しい洞察をもたらし、新たな可能性を生みだしていく。とはいえ、そうした失敗を怖れぬ実験は、ごく小規模で半ば閉ざされたガレージのなかで、外部からは謎めいている梱包され箱詰めされたオブジェにおいて、なされることになる。芸術の歴史をたどっていて興味深いのは、そうしたものこそが時代と地域を飛び越えてアナクロニックな共鳴を響かせていくところだろう。対談を終えてみてあらためて脳裏に浮かんだのは、「芸術の歴史とは予言の歴史である」という、ヴァルター・ベンヤミンの言葉であった。

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(岡本源太)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年6月30日 発行