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オンライン講演会「宗左近の詩と土地の名前」

報告:小澤京子

日時:2022年2月25日(金)17:30-19:00

オンライン(Zoom)開催

講演者: 大川内夏樹(九州共立大学)

主催:和洋女子大学教育振興支援助成「文学と芸術を通じた地域社会参画型表現教育プログラム(SEREAL)」(代表:小澤京子)、科研費(若手)「田山花袋の平面描写論を中心とするジャンル・流派横断的文学理論研究」(研究代表:小堀洋平)


この講演会が開催された経緯と趣旨は、次のようなものである。主催の和洋女子大学「文学と芸術を通じた地域社会参画型表現教育プログラム(SEREAL)」では、活動の一環として、「市川文学散歩」という学生主体のプロジェクトを実施してきた。大学の諸座基地市川の登場する古今の文学作品を渉猟して、テクストになかに埋め込まれた土地の記憶を掘り起こし、現在の光景のなかにその面影を探そうというものだ。この活動との関連で持ち上がったのが、市川ゆかりの文学者でもある宗左近の研究者・大川内夏樹氏を迎え、学生、市民、研究者のいずれにも開かれた講演会を行うという本企画である。詩人であり、ロラン・バルトの訳者としても知られる宗左近(1919-2006年)は、1978年に千葉県市川市に居を構え、それから逝去するまでの30年弱をこの地で暮らしている。

宗左近の詩には、固有名、とりわけ土地の名前がしばしば登場する――それも固有の仕方で。大川内は、発表を「土地の名前が呼び起こすイメージ」、「土地の名前と記憶」、「〈詩〉としての土地の名前」、「「中句」と土地の名前」の4部に分節しつつ、宗のテクストを紹介し、そこで「土地の名前」のもつ機能を解き明かしてゆく。そして、喪失、非存在もしくは否定性、そして存在しないものを存在せしめるものとしての詩、というテーマが伏在していることが明かされる。

宗の生まれ故郷、北九州の地名を詠み込んだ「帆柱山」(『愛』1969年所収)では、「帆柱」という土地の名に含まれる語から「海」のイメージが広げられた後、実際にはこの地が山であり、そこには「帆柱の見えるわけがなく」、しかし「ない帆がはたはたとはためき光ってい」ると続く。この「無いものが存在する」というモティーフは、大川内によれば、宗の詩に初期から見られるテーマ系である。それは市川をうたった詩(「市川」、『続縄文』1980年)においても同様である。宗は「市川」という地名を川に見立て、「小魚の死体」をイメージした後に、「市川なんか本当は流れていない」と断じ、さらに続けて「市の立った川」や「恋のお代やから国府台(こうのだい)」といった具合に、土地の名前やその響きから地口めいた連想を繰り広げてゆく。そこでは常に、土地の名前(あるいは名前のなかに含まれる語)が連想させるイメージとその場所の実態とのずれ、つまり「地名の否定性」ともいうべきものが詠われていることを、大川内は指摘する。

ここで、大川内が宗の詩と類似するものとして挙げるのが、プルースト『失われた時を求めて 第一篇 スワン家のほうへ』の「土地の名、名」に登場する、地名の音や綴り、形態からつぎつぎと視覚的なイメージを喚起してゆく一節である。宗はバルト『表徴の帝国』の翻訳も手掛けているが(邦訳1974年刊行)、そのなかに収められた一章「駅」には、このプルーストの「土地の名」に言及した部分がある。宗はバルトのテクストを経由して、プルーストに触れた可能性もあるという。

第2部「土地の名前と記憶」では、戦死した友たちの名と没した地を列挙した「鏡の雲」(『縄文』1978年)が取り上げられる。大川内は、この詩において、死という出来事に土地の名前が残ること、死者が(その固有名のみならず)土地の名前によって表象されていると説く。ここでは、土地の名前はある出来事を想起するときの容れ物、「箱」のような役割を果たしている。宗の詩における「土地の名前」は、プルースト『失われた時…』で無意志的記憶を解放するあの「マドレーヌのかけら」と、同種の機能を持つというのである。

宗は自身の一行詩を、俳句以前であり現代詩以前、そして両者の中間の存在であるとして、「中句」と名づけた。その中句によって構成された詩集『響灘』(1999年)では、故郷の北九州に実在する地名と造語とが入り混じる。大川内はこれを、「自身の過去を振り返るための形式であると同時に、詩の言語において、シュルレアリスム由来のデペイズマンにより造語を生み出す」試みではないかとする。じっさい、宗はいくつかの評論で、シュルレアリスムのデペイズマンに関心を示し、さらに非在の世界を求めることを根拠に、芭蕉の俳句との近縁性をも指摘していた。ブルトンや芭蕉(についての宗の解釈)と同様に、宗にとって詩とは、「無い」ことを宣言するもの、そのことによって、存在しないものを存在せしめるためのものであった。そして、「土地の名前」とはすなわち、そのようなものとしての「詩」に他ならなかったと大川内は結論づける。

ここからは、報告者による感想や考察となる(この講演会は思考をおおいに刺激してくれるものであった)。氏の発表が浮かび上がらせてくれたのは、「土地の名前」をめぐる想起のメカニズムが、間テクスト的に呼応し共鳴し合うさまである。日本文学史における「歌枕」は、土地の名前と記憶がインターテクスチュアルに継承されていく一例であるが、宗もまた、プルーストやバルトらのフランス文学や芸術理論も含め、様々なテクストを織り合わせながら、自身の詩と詩作法(=ポエティーク)を編み出したといえるのではないだろうか。

報告者が面白いと思ったのは、地名を用いた宗の言語遊戯である。大川内も指摘する通り、それは『失われた時…』で、地名が語り手の裡にさまざまに変形されたイメージを喚起することと、よく似ている。(氏の発表で言及されたのとは別の部分を)プルーストから引用してみる。

しかしこれらの名前は、そういった町について私の持っていたイメージを永遠に吸収したけれども、そうするにあたってそのイメージを変形してしまい、それがふたたび私のうちにあらわれる場合にも、名前固有の法則に従わせてしまった*1

*1 マルセル・プルースト『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へ II』鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年、429ページ。

もっとも、プルーストの「土地の名前」からの言語遊戯が、音の響きと視覚的形態から喚起される、いわば一種の共感覚的なものであるのに対して、宗による地名由来の言葉遊びは、「言葉の意味」に着目するもの、あるいは「音韻から導かれる地口」といった性質のもののようにも思われる。大川内によれば、宗が意識的にプルーストを踏まえたかは分からないものの、彼の蔵書のなかには『失われた時…』もあったという。直接の影響や翻案関係は置くとして、プルーストと宗の違いは何に由来するのか、フランス語と日本語という言語そのものの相違なのか、それとも何か宗のみの固有性・独創性があるのか、さらに知りたいと思った。

また、日本、とりわけ東京の駅に空虚(vide)を見いだすバルト(「駅」、『表徴の帝国』)との異同も気になった。バルトのいう空虚(vide)と、宗が言語遊戯の果てに見出す「無い」こと(帆柱山には帆柱がない、市川には市川が流れていない…)は、もちろん異なっているはずだ。そこには、翻訳を手掛けた原著からの影響と変奏の関係があるのだろうか、それともまったく別のことがらなのだろうか。

宗においては、「土地の名前」は常に横滑りしてゆくという印象を受けた。あるいは、別の何かが横滑りして「土地の名前」と結びつく。言語遊戯、存在しないこと、死者の名前あるいは記憶、詩作そのもの、といった具合に。宗自身もアンドレ・ブルトンに深い関心を示していたそうだが、彼の小説『ナジャ』では、一度は忘却された土地やモニュメントの記憶が、「私」とナジャに亡霊的に回帰し、また街中のさまざまなサインが、ナジャにおける憑依と錯乱を引き起こす。それはフロイトの説明する心的機構とよく似た、埋もれた記憶の垂直的な浮上といえるだろう。それに対して、宗における「土地の名前」とそれが喚起させる記憶は、テクスト空間のなかを次々と別のものに結びつきながら、水平に滑走しゆくように思われる。

最後に、日本文学の通時的な系譜――たとえば「枕詞」と土地の記憶の間テクスト的な伝達――であれ、あるいはフランス文学・文学理論との共時的な比較であれ、より大きな見取り図のなかに、宗左近によるテクストと「土地の名前」と記憶というテーマ系を置き直してみると、さらに豊穣で、他分野の研究者たちにとっても示唆的な議論に発展するのではないか――そのような交流の可能性も感じさせる講演会であった。

(小澤京子)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年6月30日 発行