小特集:人間生活、意味、記号

寄稿 記号を生きる 信原幸弘(東京大学名誉教授、心の哲学)

1 多彩な記号が生を潤す

 現代の私たちの暮らしには、記号が満ち溢れている。量だけではなく、種類も豊富だ。言語、イラスト、図、グラフ、等々。写真や動画なども、広い意味で記号に含めてよいだろうから、本当に記号は多彩だ。もちろん、記号でない事物もたくさんある。石ころや樹木、机や椅子は、記号ではない。しかし、いまの私たちは、記号でないものより、記号であるもののほうに多く接しているのではないかと思われるほど、圧倒的な記号の洪水のなかにいる。
 私たちはなぜこれほどまで大量で多彩な記号のなかに生きているのだろうか。考えてみれば、人類の歴史は、多彩な記号を生み出し、その使用量を増加させてきた歴史だと言ってよいかもしれない。新たな記号を生み出すたびに、新たな活動の様式が生まれ、私たちの生が豊饒になる。多彩な記号とその莫大な使用は、生の豊かさを追い求める私たちの欲望に動機づけられていると考えられよう。
 しかも、現代では、記号を処理する機械まで誕生している。これまでは、状況に応じた記号の生成や記号の変形は、人間にのみ可能であった。もちろん、動物のなかにも、ごく簡単な記号処理を行うものもいるが、人間ほど高度で複雑な処理をするものはいない。しかし、コンピュータはまだ人間と同じくらいとまでは言えないにしても、かなり人間に近いレベルで記号を処理できるし、処理のスピードにおいては、人間をはるかに上回る。
 カーツワイル(『ポスト・ヒューマン誕生』)は、コンピュータが人間の知能を超える「シンギュラリティ」が2045年にやってくると予言する。本当にそんなに早くやってくるのか、そもそもシンギュラリティなどやってくるのかという疑問があるとはいえ、ひょっとしたらやってくるかもしれないと思わせるくらい、AIの発展には瞠目すべきものがある。
 記号を処理する機械を得たことで、私たちの暮らしや社会は、それ以前とは一線を画する新たな段階に移っている。それはまさに情報化時代とよばれるにふさわしいものであり、記号の横溢はそれまでとはケタ違いだ。人々はスマホとともに起き、スマホとともに寝る。
 しかし、私たちが処理する記号は、私たちが眼で見、耳で聞くものだけではない。私たちの心のなかで働く記号もある。それは「心的表象」とよばれる。眼の前にバナナが見えるとき、このバナナの知覚は眼前のバナナを表している。したがって、それは眼前のバナナの表象を含んでいる。地球はまるいと考えるとき、この思考は地球がまるいことを表している。したがって、それは地球がまるいことの表象を含んでいる。心の各状態はこのような心的表象を含む状態であり、それゆえ「志向性」(何かを表す働き)をもつ。
 私たちは眼で見、耳で聞く「外的記号」だけでなく、心的表象すなわち心のなかの「内的記号」も処理しながら生きている(物理主義が正しいとすれば、内的記号は脳・身体の活動だ)。外部だけでなく、内部でも、記号が溢れているのである。しかし、コンピュータがもっぱらデジタル記号を処理するのと違って、心が処理する心的表象はデジタルだけとは限らない。思考はおそらくデジタルな心的表象(つまり内言)を含むだろうが、知覚や情動はそうではないだろう。眼前にバナナが見えるとき、名状しがたい微妙な色彩や形状が見えているが、そのような色彩や形状を表す心的表象はデジタルではなく、アナログであろう。知覚の表象内容は概念的か非概念的かという論争があるが、非概念説が正しいとすれば、知覚に含まれる心的表象はアナログ的だということになろう(信原「捉えがたき明晰さ」)。
 現代の私たちは大量で多彩な外的記号に囲まれ、心のなかでも内的記号が渦巻いている。このような記号の豊饒な海に生きることが、私たちの生を豊かにしている。しかし、私たちは記号とともに生きるだけではなく、記号でない事物とともにも生きている。記号と非記号はどのような関係にあるのだろうか。記号の意味を考察することによって、この問題を考えてみよう。

2 意味とは機能だ

 記号はそれぞれ一定の意味をもち、それゆえ一定の仕方で使用されるとふつう考えられる。「ろうそく」という言葉はろうそくを意味し、それゆえ眼の前にろうそくがあるときに、「ろうそくだ」という発話がなされる。「ろうそく」がバナナを意味するなら、バナナがあるときに、「ろうそくだ」と言われるだろう。
 このような言葉の意味と使用の関係を逆転させたのが、ウィトゲンシュタイン(『哲学探究』)である。彼は、言葉の意味とは言語ゲームにおける使用だと言う。「ろうそく」という言葉は、私たちがふだん言葉を用いて行う活動において一定の仕方で用いられる。ケーキに立てられたろうそくに火がつけられれば、「ろうそくに火がついた」と語り、「ろうそくの火を消して」と言われれば、ろうそくの火を吹き消す。それは「バナナ」という言葉の使用とは異なる。この使用の違いが「ろうそく」と「バナナ」の意味の違いだ。意味が違うから、使用が異なるのではなく、使用が異なるから、意味が違うのである。
 言葉でないものを巻き込みつつ、言葉を用いて行われる活動を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」とよぶ。言葉の意味とはようするに、言語ゲームにおける言葉の使用なのである。
 言語ゲームにおける言葉の使用は、言語ゲームにおける言葉の働き(機能)だと言い換えてもよいだろう。言葉はその言葉にふさわしい状況のもとで発され、その発出によってしかるべき結果を生み出す。ケーキをまえにして「ろうそくを取ってきて」という発話がなされると、それを聞いた人がろうそくを取ってくるという結果が生じる。このようにして言葉は言語ゲームにおいて一定の働き(機能)を担う。この働き(機能)が言葉の使用にほかならない。言葉の意味を言葉の機能として捉える見方は「機能主義的意味論」とよばれるが、それは結局、言葉の意味をその使用だとする「意味の使用説」と同じ見方である。
 ところで、記号だけではなく、記号でないものについても、しばしば意味が問題にされる(ミリカン『意味と目的の世界』)。将棋である手が指されたとき、その手はどういう意味かが問われ、数手後に相手の飛車をとろうという意味だと答えられる。今度の戦争は世界経済にとってどんな意味をもつかが問われ、世界経済を破壊的に再構築するだろうという大きな意味をもつと答えられる。
 記号でない事物について意味が語られるとき、それはその事物がその状況のもとでどんな結果(効果)をもたらすかを述べているのだと言えよう。したがって、この場合も、意味は働き(機能)である。将棋の手や戦争の意味は、その手や戦争が将棋の対局や世界経済においてどんな働きをするかということにほかならない。
 記号の意味も、非記号の意味も、働き(機能)である。しかし、その働きには重要な違いがある。記号は記号でないものを「代理する」働きをもつのにたいし、非記号はそのような代理機能をもたない。「ろうそく」という言葉は実物のろうそくの代理をする。ろうそくに火をつけようとするとき、実物のろうそくを見て火をつけるのと同じように、誰かに「ろうそく」と言われて、火をつける。実物のろうそくに反応するのと同じように、「ろうそく」という言葉に反応するのである。このとき、「ろうそく」という言葉は、実物のろうそくを代理していると言えよう。
 記号はその働きのなかに代理の機能を含む点で、非記号から区別される。将棋の一手は何かを代理しているわけではない。それはただ、それが指された局面において一定の結果(効果)をもたらすだけだ。記号は言語ゲームにおいて代理機能を含むような働きをもつがゆえに何かを表象するが、この表象の働き(つまり志向性)によって非記号から区別される。
 記号の意味とは記号と非記号が織りなす言語ゲームにおける働きであるから、記号が意味をもつためには、非記号との接続が不可欠である。このことは記号が代理機能を含む点に端的に現れている。記号は記号でない原物の代理であることによってはじめて意味をもつ。逆に言えば、記号が記号と繋がっているだけでは、意味をもたない。どれほど膨大な記号の群れであれ、それらがただその内部で繋がり合うだけでは、記号は意味をもちえないのである。
 人工知能では「記号接地問題」とよばれる問題がある。これはコンピュータが処理する記号を記号でない外界の事物にどう接続するかという問題である。従来のコンピュータはただ記号を別の記号に変形するだけで、記号をそうでないものに関連づけることをしなかった。その関連づけは人間が行い、そのような人間の解釈を介してはじめて、コンピュータの扱う記号は意味をもちえた。したがって、人間の介在なしに意味をもつためには、コンピュータ自身によって記号が外界の事物に接地させられなければならない。外界の事物をカメラで撮影して、その映像をコンピュータで処理して記号化する研究や、コンピュータが生み出した記号に従ってロボットアームを動かして外界の事物を操作する研究が進んでいるが、そのような研究が成就してはじめて、コンピュータの扱う記号が人間の解釈なしに意味をもつようになろう。

3 大地からの離脱

 記号は非記号の大地に接することで意味をもつ。しかし、記号にとって非記号の大地は、じつは束縛なのではないだろうか。記号は非記号の大地に係留されているために、自由に大空を舞うことができないのではないだろうか。情報は自由になりたがっているとハラリ(『ホモ・デウス』)は言う。記号は大地から離れて記号だけの天空に飛翔したがっているのではないだろうか。
 絵画は表象性の呪縛を脱して、純粋に色と形の配置になろうとする一部の動きがある。音楽もまた、何かを表す働きを捨てて、ひたすら音の流動・交響になろうとする動きがある。記号も意味を捨てることで、圧倒的な自由を手に入れられるのではないだろうか。
 形式的体系は意味ぬきの記号から成る体系である。そこでは、構文論だけあって、意味論も、語用論もない。つまり、記号どうしの連結関係を定める規則しかなく、記号と非記号の接続関係を定める規則はない。しかも、意味論や語用論からの制約がないので、構文論はきわめて自由に設定できる。したがって、じつに多様な形式的体系が構成可能である。公理系は形式的体系の代表的なものであり、記号操作に終始するコンピュータは形式的体系を扱う装置である。形式的体系は意味論や語用論の呪縛を離れて、構文論にのみ基づく自由な記号の天空であるようにみえる。
 私たちの想像は、記号でないものからの離脱の第一歩であろう。源氏物語の世界を想像するとき、その想像は知覚と違って、現実の非記号的な事物と接続関係をもたない。そこでは、源氏物語の世界を表す心的表象があるだけで、その心的表象は現実の事物と接していない。つまり、現実に光源氏が存在して、その光源氏と接続しているわけではないのである。
 しかし、それでも、想像における心的表象が意味をもつ(つまり想像世界を表象する)のは、その心的表象が間接的に現実の非記号的なものと接続しているからである。子供たちが行う「家族ごっこ」は、架空の家族の活動を表象しているが、それは家族ごっこが現実の家族活動を行う「振り」だからである。つまり、現実の非記号的な家族活動と「振り」という関係で接することによって、家族ごっこは架空の家族活動を表象することができるのである。源氏物語の世界の想像も、その世界を「知覚する振り」をすることで、現実の非記号的な人間世界と間接的に接しており、それゆえ架空の源氏物語の世界を表象できるのである(ライル『心の概念』)。
 しかし、想像からさらに進んで、ヴァーチャルリアリティに完全に浸りきるという状態になったら、どうであろうか。現実に生きるというよりも、メタバースに生きるという状態になれば、現実の非記号的な事物との接続は完全に失われるのではないだろうか。しかし、じっさいは、そうなってもなお、メタバースを体験する脳・身体は現実の生身の脳・身体であるから、メタバースを構成する記号(デジタル映像)は生身の脳・身体と接続している。もちろん、脳活動の一部は心的表象(つまり記号)であるが、脳・身体の活動のなかには記号でないものもあり、メタバースを構成する記号はそのような非記号と接続していると考えられよう。
 ただし、恐ろしい映像を含むメタバースに接して恐怖を感じるとき、心臓が高鳴り、胃腸が締め付けられるような状態になるが、そのような内臓活動は記号的なものと考えるべきだろう。情動の一つの有力な見方からすれば、情動は脳活動だけではなく、身体活動からも成る。情動においては、脳活動と身体活動が互いに連携し合って一体となって活動しており、この活動が状況の価値的なあり方(たとえば、危険)を表している。そうだとすれば、「お」という文字が「おそろしい」という言葉の一部であるように、身体活動は情動が含む心的表象の一部だということになろう。
 しかし、それでも、メタバースを体験する生身の脳・身体の活動のなかには、記号でないものもあるだろう。恐怖を感じて、眼を閉じるとき、それは恐怖の一部というより、恐怖の結果であろう。そうだとすれば、それは記号の一部ではなく、まったく記号的でないものになろう。
 こう見てくると、記号が非記号から完全に離脱するのは、むずかしいようにみえる。しかし、マインドアップローディングが可能になったとしたら、どうであろうか。私の脳・身体を完全にデジタル記号でシミュレートして、コンピュータに移送する(アップロードする)。私はコンピュータのなかでデジタル記号の集まりとして存在する(この集まりが私のデジタル脳・身体である)。そしてそれによって私の心が実現される。このようなデジタル自己となった私がメタバースに接続されるとすれば、メタバースの記号は結局、記号とのみ接することになろう。
 たしかにこのようにして純粋に記号だけの空間を構築することは、原理的には可能であるように思われる。そのような純粋記号空間では、私も記号の集まりとして存在することになり、記号は非記号の束縛から完全に解き放たれて、広大な天空を自由に乱舞することが可能となろう。しかし、そのような自由な乱舞は、記号にとって本当に望ましいのだろうか。それは必ずしも明らかではないように思われる。
 生命工学によって生命が完全に自由に操作できるようになれば、それは一見、生命にとって望ましいようにみえるかもしれない。しかし、本当にそうかどうかは、けっして明らかではない。生命は自由に操作できない制約があるからこそ、生命として輝くのかもしれない。字数制限が俳句や短歌のよさを成立させるように、制約は束縛ではなく、生命の輝きを可能にする自然の恵みかもしれないのである。
 非記号との接続も、記号が望ましいあり方をするための基底的な条件であるかもしれない。意味から解き放たれるのではなく、意味をもつことこそ、やはり記号にとって望ましいあり方ではないだろうか。非記号から切り離された記号の自由は、コンピュータに移住したデジタル記号の集合体としての私を、いずれ解体し消滅させるだろう。記号の自由は、私という記号の集合体を維持する「義務」を含んでいないように思われる。
 メタバースの進展によって、記号はますます非記号の大地から離脱していくかもしれないが、それが本当に私たちの生にとって望ましいことなのかどうかは、じっくりと考えてみる必要があるだろう。

参考文献
ウィトゲンシュタイン、ルートウィッヒ『哲学探究』鬼界彰夫訳、講談社、2020年
カーツワイル、レイ『ポスト・ヒューマン誕生:コンピュータが人類の知性を超えるとき』井上健ほか訳、NHK出版、2007年
信原幸弘「捉えがたき明晰さ:知覚内容の非概念性」『思想』第949号、2003年5月号、142頁~160頁
ハラリ、ユヴァル・ノア『ホモ・デウス: テクノロジーとサピエンスの未来』柴田裕之訳、河出書房新社、2018年
ミリカン、ルース・G『意味と目的の世界:生物学の哲学から (ジャン・ニコ講義セレクション)』信原幸弘訳、勁草書房、2007年
ライル、ギルバート『心の概念』坂本百大ほか訳、みすず書房、1987年

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年6月30日 発行