PRE・face

100年前の悲嘆と希望──フロイトの無常論に寄せて

香川檀

第一次世界大戦のさなか、フロイトは「はかなさ」と題した小文をある文集に寄稿している。原題は“Vergänglichkeit”といい、「うつろい消滅してしまうこと」「死にゆく運命にあること」など、日本語に移しにくい語で、邦訳では仏教用語を借用して「無常」と訳されている[1]。で、その内容はというと、大戦勃発の1年前の夏、「寡黙な友人と若い詩人」(おそらくルー・アンドレアス=ザロメとライナー・マリア・リルケ)とともに、花咲き乱れる美しい野山を散策したときの回想と考察である。詩人は憂鬱そうで、それというのも、眼前の美しい自然も冬になれば失われてしまい、また人間の美しさも、人間が創造した美しくて高貴なものも、かならず消え去ってしまう運命にあるからだという。フロイトはこれに反論して、美しいものの移ろいやすさを理由にそれを無価値とするのは誤りで、むしろ享受できる時間に限りがあるからこそ価値は高まる、つまり時間的な希少性が付与されるのだ、と答えたという。経済学でいう量的な希少価値の概念が、時間的な希少価値におきかえられている。

フロイトはこの文章を1915年に著しており、うち続く大戦の戦禍によって文化や芸術が破壊されていることに危機感を抱いている。いましばらく、彼の嘆きに耳を傾けてみよう。

 私がこの詩人とこんなことを語り合ったのは、第一次大戦の一年前のことだった。 
一年後戦争が勃発してこの世から美しいものをいくつも奪った。戦争が行われた土
地土地の風景美や戦争が擦過した地方の芸術作品を破壊したばかりではない。戦争
はまた、われわれの文化の所産にたいするわれわれの誇り、無数の思想家や芸術家
にたいするわれわれの尊敬、民族や種族の差異を決定的に克服しようとするわれわ
れの希望をも破壊した。(…略…)戦争はわれわれが愛した多くのものを奪い、わ
れわれが恒久的と考えていた多くのものが脆くも崩れ去ることをわれわれに示した。
(高橋義孝訳)

ここでフロイトがもっぱら哀しみ惜しんでいるのは、美しい景観や文化財と、それが体現する文化価値の喪失である。失われていく大量の人命について何の言及もないのは、この文章を書く直前にこれとは別の「戦争と死」と題した論考を書いているからだろうか。あるいはまた、この小文を寄稿した論集がドイツ語圏の愛国主義的な目的のために編まれたものであるらしく、反戦的な論調は控えたのかもしれない。ともあれこのテクストは、次のような古くて新しい問いについて考えるうえでの、ひとつの手がかりとなると思える。世のうつろい、価値あるものの消失、そしてそれらを享受する人間の限りある生命。この現実を前にして、わたしたちはいかにしてよく生き、与えられた生を十全にまっとうし、人生を楽しむことができるだろうか。

フロイトの考察によれば、美というものがすべからく崩壊の道をたどるという想念から、二つの心的反応がありうるという。ひとつは、先の詩人のように、すべてが空しいと感じて厭世的気分に浸ってしまう態度。もうひとつは、美は破壊の届かないところに存在するので価値は永続する、として喪失を否認し現実に目をつぶろうとする態度。この二つの心的態度のいずれをも否定してフロイトが主張するのが、先に引いた時間的な希少価値、すなわち「終わりがあるからこそ貴重」という考え方である。この期限付きの享受ゆえの高揚感はしかし、穿った見方をすれば、平和なうちに楽しんでおこうという刹那主義に向かいかねない。失われたら、また別の美を見出せばよいのだと。

このテクストの末尾に、フロイトは、翌々年に著すことになる有名な論文「喪とメランコリー」を先取りする、リビドー理論にもとづく喪のメカニズムを述べているくだりがある。失われた対象にしがみついていたリビドーが、一定期間の喪によって消尽したのちには解き放たれ、悲哀が「自然と消滅」してしまうと述べている。(以下の引用ではTrauerを「悲哀」と訳しているが、「喪」と読替えてもいい。)

 悲哀が一切の失われたものを諦めてしまう時は、同時に自己自身の精力も費い果
たしてしまう時でもある。そうすると、われわれのリビドーはふたたび自由の身と
なり、われわれがまだ若くて、生命力に富んでいるかぎりは、失われたものと価値
の同じの、あるいはそれ以上に価値の高い新しいものへ向かってゆこうとするもの
なのである。こんどの戦争がもたらしたかずかずの損失もこんな具合に償われるで
あろうと思う。(高橋義孝訳)

これに続いて彼は、戦争が破壊した一切のものを、いずれはよりいっそう堅固なかたちで再建するだろうと、ほとんど唐突に結んで筆を置くのである。失われたものとは別の対象にリビドーが向かうことと、より堅固な再建という楽観的な見通しとは、よく考えると論理的にはつながりにくい。前述したように、フロイトはこの小文を書いたあと1917年に、「喪(悲哀)」と「メランコリー」という対概念へと展開を見せるが、対象を諦めきれずに自我と同一化してしまうメランコリーのほうが、現代の記憶論などで活発に議論されているのは、「喪」におけるこのなんともドライな面が否定的な印象を与えるからではないだろうか。

ドイツの精神分析理論家クリスティーネ・キルヒホフは、それでも「喪」の作業のほうから目を逸らさず、諦められた対象はその人の内面のなかで「どこに行ってしまうのか」と問うている[2]。喪失の哀しみが癒えたのちも、繰り返して哀悼し、失ったものを「良きもの」として想起し続けることが重要なのではないか、と。そしてキルヒホフは、「儚さ」に伴う対象喪失のドラマに、フロイトが言う時間の希少性のほかにも、重要な時間性のファクターがあることを指摘する。それが、「事後性」という、フロイトにとっても早くから重要なキー概念であったものだ。現在の現象についての理解と経験には(トラウマ的な)過去が影響を及ぼしており、逆に過去は現在の現象をとおしてはじめて事後的に理解される、という有名な精神分析の命題である。キルヒホフによれば、過去に失ったことを現在になってはじめて認識し、喪失を承認することがありうる。そしてそれは、過去や現在の喪失を未来になってはじめて認識する、という未来時制にもつながるという。こうして、喪失の承認という現在点において、過去と未来が絡まりあうのである。彼女はこの時間構造を、ドイツ語の「未来形第Ⅱ」と呼ばれる、未来完了形に重ねあわせる。この時制では、「そうなっていただろうEs wird so gewesen sein」は、「かつてそうなっていただろう」という過去の推測と、「未来もそうなってしまうだろう」という未来完了の二つの意味をおびている[3]。しかし、喪失の絶え間ない反復に甘んじるのではなく、キルヒホフはここから、現在の経験に対する理解を(精神分析によって)変更し、未来を好転させることができるという可能性を示唆している。おそらく解除反応のことを指しているものと想像するが、知識の乏しい筆者には、あくまで分析理論のうえの展望というふうにしか理解できなかった。

むしろ興味深かったのは、キルヒホフが論考の結びに、現代の芸術による表現行為の意義について語っている部分である。破壊のポテンシャルがいよいよ増幅する現代世界において、もうすでに洪水に呑み込まれてしまっているにもかかわらず、人はそのことから目を逸らそうとしている。だから芸術の仕事とは、この「喪失の否認」をあかるみに出して、さらなる喪失の徴候をクリティカルに予見することだ、と言うのである。

このように見てくると、フロイトの「儚さ」についてのテクストは、議論の叩き台として今もきわめてアクチュアリティをおびている。すでに失われてしまったもの、現に失いつつあるもの、そしてこれからも失われていくであろうものを思って憂鬱に浸るのは、昔も今も変わらない。ただ、100年前のフロイトは悲嘆にくれつつも、「同じ価値かそれ以上に価値の高い新しいもの」を別に見出すことで戦争の損失が償われるだろうと希望を抱いた。だが、現代となっては、それとは異なる見方も必要だろう。求められるのは、もう取り返しのつかないところまであと一歩だ、ということを意識し続けること。そして芸術は、それぞれに与えられた固有の力によって、「喪失の徴候」を予見し、わずかでも違う未来を、折り返された時間性のなかに垣間見させることなのだ。



[1] 人文書院『フロイト著作集3──文化・芸術論』1969年所収、「無常ということ」(高橋義孝訳)また、岩波書店『フロイト全集14』2010年所収、「無常」(本田直樹訳)も参照。

[2] Christine Kirchhoff, „Seltenheitswert in der Zeit“ : Vergänglichkeit und Nachträglichkeit in der Psychoanalyse, in Paragrana: Internationale Zeitschrift für Historischen Diskursen der Gegenwart, Interdisziplinäres Zentrum für Historische Anthropologie, Freie Universität Berlin, Verlag Walter de Gruyter, Bd.27, 2019, Heft2, 37-50.

[3] ジョルジョ・アガンベンはこうした過去と未来との絡まりを、「そうなっていただろう過去」つまり「未来のなかの過去」という特別な時間構造であるとし、「先立未来 futuro anteriore」と呼んでいる(『事物のしるし』岡田温司/岡本源太訳、筑摩書房、2011年、163-164頁)。また、田中純『イメージの記憶かげ──危機のしるし』東京大学出版界、2022年、第4章「物質論的人文知としての考古学」も参照した。

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年6月30日 発行