【選考委員】

  • 阿部賢一
  • 佐藤元状
  • 平芳裕子
  • 宮﨑裕助

【選考委員会】
2023年5月13日(土) オンラインミーティング

【選考過程】
2023年1月30日から3月3日にかけて、表象文化論学会ホームページおよび会員メーリングリストをつうじて会員から候補作の推薦を募り、以下の著作が推薦された(著者名50音順)。

学会候補作】

  • 久保 豊『夕焼雲の彼方に 木下惠介とクィアな感性』
  • 原 塁『武満徹のピアノ音楽』アルテスパブリッシング
  • 渡邊英理『中上健次論』インスクリプト

【奨励候補作】

  • 久保 豊『夕焼雲の彼方に 木下惠介とクィアな感性』ナカニシヤ出版
  • 崎濱紗奈『伊波普猷の政治と哲学 日琉同祖論再読』法政大学出版局
  • 原 塁『武満徹のピアノ音楽』アルテスパブリッシング

【特別候補作】

推薦なし

選考作業は、各選考委員が候補作それぞれについて意見を述べ、全員の討議によって各を決定してゆくという手順で進行した。慎重かつ厳正な審議の末、学会に渡邊英理氏の著作を、奨励に久保豊氏の著作をそれぞれ選出することが決定された。


受賞者挨拶(2023年7月8日)

【学会賞】渡邊英理『中上健次論』インスクリプト

このたびは、拙著『中上健次論』を栄誉ある表象文化論学会賞に選んでいただき、ありがとうございます。けして短くはない著作を読んでくださり、審査をしてくださった先生方に心から感謝申しあげます。一級の読み手である先生方に読んでいただき、光栄に思います。また、拙著を推薦してくださった先生方にも心から御礼申しあげます。

『中上健次論』は、博士論文をもとにしたものではありますが、大幅な加筆を経てほぼ原形をとどめず、書き下ろしに近い形で書かれたと言ってよい本です。インスクリプトの丸山哲郎さんからのオーダーは、「人文書」として中上健次論を書いてほしい、というものでした。人文書として、というのは、むろん作家論や作品論ではないということですが、さらに言えば、いわゆる文学論でもない、わたしは、それを思想文学として中上健次を読む、中上健次を文学として読むと同時に思想として読みとく、という意味で受け止めました。

それはまた人文学領域で横断的に読まれうる言葉を書くという意味です。個別の学問領域が積み重ねてきたハイコンテクストな文脈は手放さずに、同時に、一冊の書物として書かれた言葉が閉じられていないこと、他領域にも開かれていること、そういった横断性をもつ、開かれた言葉を書くことだと考えました。

そうしたものを書こうとした時に、目指そうとする実践を行っているひとつの、そして重要な参照項となったのが、表象文化論という領域でなされてきた仕事でした。

今回の受賞で大きな喜びを感じていることのひとつは、この学会賞の「歴史」に、中上健次の名前を連ねることができた、ということです。ゴダール、ディドロ、ブルーノ・シュルツ、ドゥルーズ、レオニドフ、溝口健二、アドルノ、ベンヤミン、クルーゲ、ロレンス、スティーグリッツ、メルロ=ポンティ、グレアム・グリーン、シェイクスピア、ジャン・ユスターシュ、ジャック・デリダ、レヴィナス、など、錚々たる面々が並ぶリストの最後尾に、中上健次の名前を加えることができました。これは、作家の名前を冠した、モノグラフに類した仕事をした書き手にとって、ひとつの醍醐味を味あわせてくれるような出来事です。

この本は長い時間をかけて書き、作った本です。博論の審査をしてくださった先生方にも、なかなか本をお届けできず心苦しい思いをしていたのですが、この受賞をお知らせできたことも喜びとするところです。審査をしてくださった小森陽一先生、石田英敬先生、山田広昭先生、本橋哲也先生、新城郁夫先生に心から御礼申しあげます。また、初の単著というのは、人生で一回しかない出来事ですが、その本をインスクリプトでだすことができたのは幸せなことでした。長きにわたって伴走してくださった編集者、丸山さんに感謝申しあげます。綺麗な花束もありがとうございました。そして、共同通信の平川翔さん、文學界の長谷川恭平さん、田口大貴さんには、本がでてすぐに執筆や連載などのお声がけをいただきました。拙著を高く評してくださり、書き手として歓待してくださったサポーターとも言える方々、そして、お世話になった先生方、畏友・三原芳秋さんはじめ、古くからの友人知人たちの集まる駒場キャンパスで、喜びを分かち合えることをうれしく思います。

文学を通じて世界を考えるというのが、わたしの仕事のベースにあります。文学を基点に、過去や現在、歴史や現代社会を思考しようとする、クリティカルな構えを今後も追究していければ、と思います。この賞の名に恥じぬよう、精進していきたいです。

ありがとうございました。

01撮影・平川翔(共同通信).jpg撮影・平川翔(共同通信)


【奨励賞】久保豊『夕焼雲の彼方に 木下惠介とクィアな感性』ナカニシヤ出版

この度は、第14回表象文化論学会奨励賞をいただき、大変嬉しく思います。選考委員の先生方、また拙著を手にとってくださった皆さまに心より御礼申し上げます。

『夕焼雲の彼方に──木下惠介とクィアな感性』(ナカニシヤ出版、2022年)は、京都大学大学院人間・環境学研究科へ提出した博士論文が元になっています。主指導教員の松田英男先生、副指導教員である木下千花先生と田邊玲子先生をはじめ、大学院、早稲田大学演劇博物館、木下恵介記念館などで出会った沢山の人々との対話を通じて、拙著を完成させることができました。特に、この本の企画を立ててくださったナカニシヤ出版の由浅啓吾さん、デザイナーの畑ユリエさん、そして叔父としての木下惠介との思い出をたくさん聞かせてくださった原田忍さん・成島安子さんへの恩返しになれば嬉しいです。

拙著は「表象文化論学会」という場がなければ今の形にはなっていなかったかもしれません。振り返れば、私が2015年に初めて表象文化論学会で発表した際に選んだ木下映画の名前もまた『夕やけ雲』であり、あの発表の質疑応答で意図せず自分のセクシュアリティについてカミングアウトをしてしまいました。あの経験があったからこそ、クィアな映画観客の一人として過去と現在の映画をどのように語ることができるかについて深く考えるための視野を養えたのだと信じています。あれから8年が過ぎ、クィア映画批評を用いた日本映画研究がこの学会で認められたことで、ジェンダー、セクシュアリティ、身体などを抑圧する規範と芸術の関わりを研究する大学院生や若手研究者がもっと息をしやすい環境がこれからもますます拡大していければ、それ以上の喜びはありません。

木下惠介は「誰かが死んじゃったあと、なんだかんだとその人をわけ知り顔に書く奴は、みんな根性が卑(いや)しいんだ」という言葉を残しています。きっと私もいつか木下惠介にみっちりと怒られるでしょう。しかし、せっかく叱られるのであれば、木下が呆れるくらいの日本映画研究を成し遂げてからがいいなと思います。現代そして未来の観客に木下映画の魅力が伝わるような映画研究ができるよう、これからも木下映画について書いていきます。また、クィアな視点から規範と映像文化の共犯関係を問い、批評を通じた対話の可能性を示し続けることで、映像文化の発展に貢献できるよう今後も精進して参ります。この度は誠にありがとうございました。

630955F8-9682-4195-A10A-919BD3EF831E.jpg


【選考委員コメント】

  • 阿部賢一

昨年、選考委員を担当した際、個人としての選考基準について、「学際性」「視点の新規性」「実証的な叙述」の3点を挙げたように、今回も同様の基準に基づいて選考に臨んだ。今年度候補となったのは、久保豊『夕焼雲の彼方に 木下惠介とクィアな感性』(ナカニシヤ出版、2022年)、崎濱紗奈『伊波普猷の政治と哲学 日琉同祖論再読』(法政大学出版局、2022年)、原塁『武満徹のピアノ音楽』(アルテスパブリッシング、2022年)、渡邊英理『中上健次論』(インスクリプト、2022年)の計4作品である。

学会賞を受賞した渡邊英理氏の『中上健次論』(インスクリプト、2022年)は、同氏の博士論文の一部をもとにしながらも、十年以上の歳月を費やして大幅に加筆・修正された論考である。それゆえ、熟成した文体と視点の奥深さという点において、博士論文を基盤にした他の候補作とは一線を画していた。簡素な題名は単なる作家論として誤解されるかもしれないが、「中上文学は、このような(再)開発のプロセスを可視化する稀有なテクストとして読むことができる」(10頁)とあるように、本書の射程は、単なる作家論、作品論に留まるものではない。例えば、1960年代末の同和行政の転換に触れつつ、路地の(再)開発を描く『熊野集』における路地の「公共性」の多義性(第5章)、大江健三郎の『万延元年のフットボール』に連なるスーパーマーケットの表象(第6章)が検討される。つまり、本書の中軸をなすのが、戦後日本における(再)開発の表象の多面的な検討である。視点の多様さも本書の特徴の一つであり、先行作品への鮮やかな目配りをしつつ、非規範的な親族関係を明らかにする第3章では比較文学の視点に加え、セクシュアリティの議論に連なる広い裾野を有している。

このように、渡邊英理氏の『中上健次論』は、資本、身体、言葉をめぐる多面的な考察によって、中上文学に新たな光をあてているだけではなく、中上作品を媒介にして(再)開発という問題系を捉える視座をもたらしてくれる優れた著作となっている。

奨励賞を受賞したのは、久保豊氏の『夕焼雲の彼方に──木下惠介とクィアな感性』(ナカニシヤ出版、2022年)である。タイトルに示されているように、本書は、戦後日本映画界で活躍した木下惠介の映画作品へのクィア批評を実践した書物である。何よりも特徴的であるのが、久保氏自身の血の通った言葉で分析が積みかさねられていく点であろう。もちろん、学術的な概念装置は適宜参照されるが、随時自身の言葉に咀嚼したうえでその概念が説明される。例えば、本書の鍵概念である「クィアな感性」についてもまず定義をしたのちに、「それは誰かを愛すること、自分(の身体や声)を愛することを、外圧的な力によって剥奪される/されてきた人々の生きた経験に体と声をもたらす感性である」(14頁)と述べ、本質を射抜きながらも、体温の感じられる言葉遣いを選んでいる。このような点は、作品の描写や分析においても適用されており、映画を観る快楽を読者にもたらしてくれる。

『お嬢さん乾杯』の男性同士のダンス、『夕やけ雲』の少年たちのホモエロティシズムなど、気づきにくい、見逃してしまいかねないシーンの分析を重ねつつ、木下惠介のクィアな感性を浮かび上がらせていく。だが、本書の意義は、一人の映画監督の新たな解釈可能性を提示してくれたことだけではなく、何よりも、異性愛中心主義的に映画を観てしまう傾向を戒め、解釈の幅を促してくれた点にあるだろう。

他にも、個人的には、崎濱紗奈氏の『伊波普猷の政治と哲学──日琉同祖論再読』も奨励賞の候補作として推薦した。伊波普猷の「日琉同祖論」を読み直す試みは興味深く拝読したことを付言しておく。

今回で二年間の選考委員の任期を終える。この間、十四冊の著作を拝読し、様ざまな刺激を受ける機会となった。一方で、誰を読者として想定するかという問題はあらゆる書き手が共有するものであると改めて意識をした。その問いかけは表象文化論というアマルガムが誰を見ているのかという問題とも直結するだろう。いずれにしても、このような契機を与えてくれたすべての候補作の著者に感謝の言葉を述べたい。

  • 佐藤元状

今年で選考委員の二年目になる。今年度は昨年度よりも読む冊数が少なかったが、今年も多くを学ばせていただいた。それが正直な感想である。表象文化論学会は、人文学という大きな枠の中で、ディシプリンの異なるさまざまな研究者を歓待する、懐の深い学会である。その学会賞の選考は、そうした領域横断的な人文学研究の代表、「学会の顔」を選出するような作業だ。だから丁寧に読まなくてはならない。そして丁寧に考えなくてはならない。

しかし、一年目も二年目もそうであったが、4人の選考委員の間で、小さな見解の相違は出てくるにしても、不思議なほど自然にコンセンサスが形成され、学会賞、そして奨励賞が決定された。何かの申し合わせみたいに。それはある意味でこの学会が、どのような著作が学会賞に相応しいのか、どのような著作ならば、学際的な知の営みを更新し、個別のディシプリンのみならず日本の人文学全体にインパクトを与えることができるのか、といった大切な問いについて、共通のヴィジョンを持っていることを意味している。そのことは私には学会自体の大いなる達成に思われる。そして、そのような集合的な知のイベントに参加させてもらったことに、私は深く感謝している。

さて、選評に入りたい。まずは表象文化論学会賞を受賞された渡邊英理さんの『中上健次論』(インスクリプト)から。このタイトルは、この著書が「挑戦の書」であることを強く印象づける。タイトルに研究対象の個人名を刻み込んだ著作としてすぐに思い浮かぶのは、木下千花さんの『溝口健二論──映画の美学と政治学』や、蓮實重彦さんの『ジョン・フォード論』であろう。研究対象とする作家の名前の後に「論」をつけて、その隣に自分の名前を刻むという行為は、言わば批評家の「結婚宣言」のようなものであり、自分の著作が半永久的にこれらの個人作家研究──映画作家であれ、文学者であれ、画家であれ、音楽者であれ──の礎となることを高らかに宣言するものだ。そして、当然、そこには自らの著作が、決定版になるだろうという自負が込められている。最初に結論を述べると、渡邊さんの『中上健次論』は、中上健次論の決定版である。それは木下さんの『溝口健二論』や蓮實さんの『ジョン・フォード論』がそれぞれ溝口論とフォード論の決定版であるのと同様である。優れた研究書であると同時に優れた批評書でもある。それこそが渡邊さんの仕事の最大の美点である。

ここから内容に触れていきたい。本書は、本文だけで400ページ、註が90ページという大著である。本文は「はじめに」に加えて、9つの章から成り立っているが、その真ん中の第5章の冒頭に以下のような文章が記されている。

本書は、路地を舞台とする中上健次の小説群、路地小説をめぐって書かれている。路地とは、(再)開発を表象する空間であるが、同時に、(再)開発に抗する文学的かつ理論的な構え、思想的なビジョンである。ビジョンとしての路地の核心は、その「仮設」性に見出すことができる。当初からプランを描き、計画に沿って進むのではなく、その時々の事情でより集まった人々の「器用仕事」(ブリコラージュ)で繁茂してきた路地は、中心を持たず、多方向に開かれている。脱中心的で偶発性に開かれ、その未決の複数性と多義性ゆえに群れとして形象化されうる路地の「仮設」性は、特定の意図や目的に奉仕する計画的な(再)開発に抵抗するものだ。(177)

実は同様の説明は、「はじめに」でも簡潔に述べられているのだが、第5章まで読み進めてきた読者は、この一節を読んで、著者の主張のみならず、彼女の戦略を正確に理解することになるだろう。最後の一文「脱中心的で偶発性に開かれ、その未決の複数性と多義性ゆえに群れとして形象化されうる路地の「仮設」性は、特定の意図や目的に奉仕する計画的な(再)開発に抵抗する」が、本書の主張である。このテーゼは繰り返し登場するので、読者は著者の語りに安心して身を任せることができるだろう。しかし、興味深いのは、彼女の著作自体が、「脱中心的で偶発性に開かれ、その未決の複数性と多義性ゆえに群れとして形象化されうる路地の「仮設」性」を、エクリチュールの次元で再現している点であろう。

『中上健次論』というタイトルから予想される包括性とは裏腹に、この著作で中心的に扱われる中上作品は、実質的に一冊の短編集である。第1章で中上の小説家としてのデビュー作を論じた後、第2章から第7章まで『熊野集』に収められた7つの短編を論じていく。そして、第8章で『千年の愉楽』を、第9章で『地の果て 至上の時』を論じ、オープンエンドで語りを終えている。私が感銘を受けたのは、『熊野集』の短編小説をさまざまな角度から論じ、変奏していくその力量と、そのペース配分の見事さである。30ページ前後の長さの章(第2章、第3章)を二つ重ねて、地ならしをしてから、50ページ、60ページの長さの章(第4章、第5章)で、最初の勝負に出る。「石橋」そして「海神」を論じた、これら二つの章が、中上の路地文学の可能性を論じた本書の真ん中に置かれていることは、偶然ではない。ここが最初の難所なのだ。そして、それよりも短い章(第6章、第7章)を二つ重ねて、『熊野集』を論じ終えた上で、『千年の愉楽』論、『地の果て 至上の時』論で最後の勝負に出る。これら二つの章で、渡邊さんは「ポストヒューマン」という、彼女の最もオリジナルな視点を前面に押し出す。なんと見事な構成なのだろう。そして最終章の考察のなんと美しいこと。

だが、繰り返しになるが、私にはこの著作の大半を占める『熊野集』論の数々が、それらの章の一見まとまりがないような組み立て方が、もっとも魅惑的に思われる。なぜならば、「動物と私のあいだ」、「性愛と闘争」、「被差別の人類学、賎者の精神分析」、「(再)開発と「公共性」」、「路地・在日・スーパーマーケット」、「媒介者の使命」など、動物論、ジェンダー論、人類学、精神分析、公共性論など、近隣の学問領域の知見をブリコラージュすることによって、わずか一冊の短編集をこれほどまでに多義的な複数の論点から論じ切ること、それは中上の路地文学の可能性──「脱中心的で偶発性に開かれ、その未決の複数性と多義性ゆえに群れとして形象化されうる路地の「仮設」性──を自身の批評的テクストの上に再演し、引き受けることに他ならないからだ。

渡邊英理さんの『中上健次論』は、その学術的なスケールの大きさ、躍動し群れを成していくエクリチュールの輝きの二点で、個別作家研究の決定版であるのみならず、日本の人文学研究の一つの到達点となっている。

続いて、表象文化論学会奨励賞を受賞された久保豊さんの『夕焼雲の彼方に──木下惠介とクィアな感性』(ナカニシヤ出版)について。久保さんの著書は、クィア批評の観点から、木下惠介をクィアな感性を備えたクィア映画作家として読み直した、繊細かつ大胆な映画研究である。以下、内容に簡単に触れながら、この研究書・批評書の可能性の中心に迫っていきたい。

まずは構成を見ていこう。問題点を明晰に指摘した序章に続き、木下の6つの映画作品──ホームムービー『我が家の記録』(第1章)、『お嬢さん乾杯』(第2章)、『カルメン』二部作(第3章)、『海の花火』(第4章)、『夕やけ雲』(第5章)、『惜春鳥』(第6章)──を論じた6つの章が続き、終章で全体の議論を要約し、締めくくる。木下が監督した現存する49本の映画作品のなかから、わずか数本を選別し、それらの映画作品をクィア批評の観点から丁寧に読み返していく。シンプルな構成である。しかし、最後までじっくりと読み進めてみると、この選択が考え抜かれたものであることに、そして同時に、必然的なものであることに気づくだろう。量ではなく、質こそが大切なのだ。

クィア批評の立場から日本映画史を書き直していこうとする久保さんのプロジェクトにとって、『我が家の記録』から『惜春鳥』までの流れは、一直線なのである。木下のクィアな感性がときに秘められた形で、ときにもっとあからさまな形で形象化する、これらの作品を論じていく過程で、久保さんは、映画制作、映画批評、映画研究など文化のあらゆる局面で依然として支配的な力を行使する異性愛中心主義を批判し、ずらし、転倒させながら、そこに自身のクィアな観客としてのセクシュアリティの経験と欲望を書き込んでいく。久保さんは、序章および終章で、英文学者の村山敏勝の言葉──「批評とは、プライヴェートな体験をパブリックな場に開く作業」である──を引用し、自らの批評実践をそこに重ね合わせているが、繊細かつ大胆な考察に溢れた久保さんの著作には、村山が尊敬してやまなかったアメリカのクィア批評家D・A・ミラーの姿が見え隠れしている。

さて、最後に本書のアプローチについて、その射程について言及しておきたい。上述の通り、本書の中核を占めるのは、個別の木下映画のテクスト分析である。久保さんのアプローチは、スター・イメージ研究、ジャンル論、アーカイブ調査など、映画研究の知見を多彩に盛り込んだものであるが、私が一番惹かれるのは、その古典的なテクスト分析である。例えば、『海の花火』を論じた第4章では、「切り返し」、つまり視線のやり取りに注目し、登場人物たちの間の関係を、この古典的な映画技法の使われ方を詳細に分析していくことによって明らかにする。また『夕やけ雲』を論じた第5章では、フラッシュバックというこれまた古典的な映画技法の使われ方に注目しながら、少年たちの隠された欲望というクィアな主題を浮き彫りにしていく。テクスト分析として、非常に説得力を持っているばかりか、映画研究の初心者にも親切な語り口となっている。

おそらく久保さんは、本書を自身よりも若い、未来の読者たちに向けて書いているのだろう。書物のあちらこちらに顔を出す、教え子たちの反応や、木下の映画を「古い映画」と呼ぶ態度には、アカデミーに属する年配の読者たちのみならず、未来の若者たちへ向けて、平等に語りかけていこうとする、一人の批評家としての決意が滲み出ている。私はそこが表象文化論学会奨励賞を受賞された久保豊さんの『夕焼雲の彼方に──木下惠介とクィアな感性』の最大の美点だと思う。

  • 平芳裕子

芸術文化研究における表象分析がメジャーになった感がある。多数の研究書が出版されるなかで学会賞に選出される書籍には、表象批判研究を推進してきた表象文化論のエスプリがいかに継承され開花しているのか、ということを期待してきた。そのため、今年度初めて選考委員を担当するにあたっても、表象批判研究の実践、すなわち研究対象が「生産され流通され消費される関係性の空間」のダイナミックな生成構造にアプローチするものを高く評価することを心がけた。候補作品に挙げられた分野としては、文学、音楽、哲学、映画と、どれも自身の狭義の専門ジャンルとは異なっていたが、それゆえに門外漢にもその研究の意義が説得力をもって示されるものを、ニュートラルな立ち位置から選定することを意識した。

まず学会賞として推薦したのは、『中上健次論』(渡邊英里)である。副題のない書籍には、重厚な内容と研究の蓄積が求められるが、その名にふさわしい研究書であると思われた。「(再)開発文学」という著者自身の発想がまず新鮮であったが、農村から都市への単純な移行の物語ではなく、開発と(再)開発の場と文脈において生産されてきた諸言説を捉えるという方法論的視座に、アプローチの新規性を感じた。序論にて意義を示し、本論で序論の問題提起を論証し、結論はなく余韻が残るという力技、だが、路地の網の目から今日的な問題を丁寧に掬い上げる繊細な手つきも目を見張った。作家論・作品論にとどまらず、中上のテキストを歴史的・地理的な布置から読み込む思想文学的な仕事であり、学会賞にふさわしいと考えた。本書のあとがきによれば博論を大幅に加筆修正し、十年をかけてほぼ書き下ろしたものであるという。その時間が研究を成熟させ、本書の質的・量的厚みをもたらしたのだろうが、研究のアウトプットの仕方の多様性にも好感を持った。

次に奨励賞として推薦したのは『夕焼雲の彼方に──木下恵介のクィアな感性』(久保豊)である。これまでの映画研究や木下研究の蓄積に対して、本書がどのような切り口で臨んでいるのか興味深く読んだが、猛々しい意気込みというよりはみずみずしさに溢れ、著者自身の感性を感じさせる書であった。木下映画の物語解釈のみならず、撮影技法(カメラワーク)や編集技法を対象とした綿密な作品分析を行い、木下のクィアな感性が映画作品のなかにいかに織り込まれたのかを論じている。近年の異性愛規範に対する異議、LGBTQに関わる運動の高まりのなかで、社会的問題を洞察する研究であり、研究のアクチュアリティも高く評価できると考えた。一方で、本書の限界や残された課題に対する言及も真摯に示されており、今後の発展的な研究をおおいに期待したい。

今回推薦するに至らなかった二作についても、研究内容は評価されるものであったが、表象批判研究という点ではやや弱いという印象をもった。『武満徹のピアノ音楽』(原塁)は、楽譜の「かたち」に着目する楽曲分析の方法や、同時代的な人的ネットワークとその関係性を明らかにしている点が注目された。しかしなぜ今、武満徹のピアノ音楽なのか?という点にもう少し説得力のある説明が聞きたいところであった。また『伊波普猷の政治と哲学』(崎濱紗奈)は、沖縄学の祖・伊波普猷の「日琉同祖論」の脱構築的読解を試みる研究であり、沖縄における政治の主体の問題を洞察するという大きな課題への意欲的な取り組みを評価したい。しかし、伊波とデリダやランシエールのテキストの比較や論証にやや飛躍があるように思われた。どちらの著作もお二方の誠実さゆえなのか、謙虚な表現が見受けられるところがあったが、これからも自信をもって研究を進めてほしいと思った次第である。

  • 宮﨑裕助

今年度から表象文化論学会賞の審査を引き受けるにあたって私が基本方針としたのは、以下の三点である。

(1)一冊の書物を貫く独自のコンセプトが明確に打ち出されているか。博士論文をベースとしたものはおのずと有利になるだろうが、既発表の論文をまとめた場合でも、書物全体をまとめるコンセプトにそくして議論が再構成されているかどうかを重視した。
(2) 特定のディシプリンの方法論にのみ基づくのではなく、複数の分野を横断する射程をそなえているか。これはいわゆる学際的なアプローチ(文理融合や複数の方法論の混在)を求めているわけではなく、表象文化論にかかわる人文学の諸分野個々の特性を尊重しながら当の分野の諸境界をおのずと超えていくような視野や考え方を示しているか、という基準である。
(3) 狭義の学術的な貢献に終始するものではなく、広く一般の読者を含んだ宛先が想定されているか。表象文化論にふさわしい書物は、私の理解では、先進的な学術的内容をもつことと、幅広い読者のあいだで普遍的に共有されることとが矛盾しない媒体をなす。要するに、一冊の書物を通して狭義の学術書にとどまらない人文書そのものの開放性をいかに実現するかが問われている。

このたび学会賞を受賞した、渡邊英理『中上健次論』はそうした基準を明白に満たしている卓越した著作である。本書は博士論文をベースにしているが、その後の著者の10年以上にわたる研鑽のなかで大幅に加筆修正が施されており、500ページにわたる一冊の書物として結実した力作である。

本書が中上を読むために、あるいは読み込んだ末に打ち出しているコンセプトとは「(再)開発文学」というテーマであり、中上が作家として活動した1969年から92年の23年間を切り出している。すなわち、高度経済成長下で大規模に展開した日本列島の開発、そしてそれが再編(=再開発)されることを通じて重層化したグローバルな権力の変遷である。「路地小説」として知られている中上の作品群は、このコンセプトのもとに、狭義の文学研究の対象を超えて、著者が「思想文学」とも呼ぶ射程のなかで、そうした「(再)開発」に抵抗するさまざまな潜勢力へと展開されるのである。

本書には数多くの刺激的な論点が存在するが、その白眉のひとつは『熊野集』連作のなかの「海神」を読解した第5章だろう。再開発の口実となっている「公共」批判し、路地の裏山に「誰のものでもなくそれゆえに誰のものでもある共有地(コモンズ)」(本書225ページ)を指摘し、もうひとつの他なる公共、つまり「路地の公共」の空間を炙り出している。

奨励賞を受賞した久保豊『夕焼雲の彼方に──木下惠介とクィアな感性』のコンセプトもまた明確であり、その独自性がはっきり打ち出されている。映画監督木下惠介の諸作品を「クィア映画批評」の観点から読み解くことにより、木下作品を同性愛にまつわるゴシップ的な関心から斥け、むしろその核心にひそむ「クィアな感性」を、スクリーン上の描写に丁寧に寄り添うことで明らかにしようとする試みである。

「クィア批評」というとセジヴィックやバトラーのような理論的に尖鋭かつ戦闘的なテクストを思い浮かべる人も少なくないと思う。しかし本書の美点はそうしたクィア批評の印象そのものを変えてしまうような仕方で木下作品ひとつひとつに付き添ってゆく筆致の優しさである。これは本書のあとがきでもみずから指摘する通り、たしかに弱点でもあるかもしれないのだが、私はむしろ、アイデンティティ・ポリティクスの隘路から諸作品を解き放ち、「クィア批評」そのものを広く散種しようとする本書の特質であるととらえた。実際、本書の文章はとても読みやすく、私のような門外漢でも本書の記述を通じて木下作品の魅力を知ることができた。映画研究という枠を超えて広く読まれるべき秀作に仕上がっている。

最後に、今回惜しくも受賞を逃した、崎濱紗奈『伊波普猷の政治と哲学』および、原塁『武満徹のピアノ音楽』についても短くコメントしておきたい。前者は「日琉球同祖論」をその概念そのものの脱構築を通じて伊波の政治哲学を読解しようとする野心的な企てである。ただ、デリダとランシエールの理論的枠組が、伊波の読解にいささか性急に外挿されている疑いがぬぐえず、伊波読解としてややちぐはぐな印象が残った。後者は、博士論文をベースとしており、議論の水準の高さをうかがわせるものであったが、武満のピアノ音楽を考察の中心とする場合に、書物全体を貫くテーマが弱く感じられた。より包括的なコンセプトの設定、さらに武満のモノグラフとしてより網羅的な解釈がなされる余地があったであろう。