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特別講演 「竹峰義和 × アレクサンダー・ザルテン、クラカウアーを語る」

報告:行田洋斗

2023年5月31日、京都大学映画コロキアムでは、ジークフリート・クラカウアー『映画の理論 物理的現実の救済』(東京大学出版会、2023)の翻訳を上梓された竹峰義和氏(東京大学)を招き、アレクサンダー・ザルテン氏(ハーバード大学)とともに、クラカウアーについて縦横に語る「竹峰義和 × アレクサンダー・ザルテン、クラカウアーを語る」が行われた。
本稿は、その内容を再構成したものである。


(竹峰先生のイントロを終えて)

ザルテン(以下、Zとする): ありがとうございました。今は東アジア学科にいますが、90年代はドイツの大学の映画メディア学科で研究していて、クラカウアーが再発見された時期でした。ただ当時はまだそのことがよく分かっていなかったので、今日はその時わからなかったことを専門家の竹峰さんに聞きたいと思っています。まず最初の質問ですが、なぜ今『映画の理論』を翻訳されようと思ったのですか?

竹峰(以下、Tとする): 正直に言いますと、編集者のひとからオファーをもらったことが最初のきっかけでしたが、この本はずっと訳したいと思っていました。というのも英語が非常に難しくて途中まで読んではやめてを繰り返していたので、翻訳をすれば全部読むモチベーションになるんじゃないかという邪まな思いがありました(笑)。

Z:なるほど。この本は少し奇妙で、ドイツに生まれ育った人が最初からドイツ語ではなく英語で書いたものです。ドイツ語版を参照することもあったと思いますが、翻訳する上で何か苦労はありましたか?

T:英語の原著を読まれた方はわかると思うのですが、とにかく読みにくいんですよね。それはドイツ語とフランス語をベースにしていたクラカウアーにとって、英語は後から習得した言語ということもあるのですが、それ以上に彼が渡米後に学んだ英語がかなり古かったせいなのか古風なイディオムや単語が頻出することが読む上でかなりネックになりました。ドイツ語版はクラカウアー自身が訳したものではないんですけど、監修はクラカウアーがしていてかなり正確な訳になっています。私がドイツ語教員ということもあるのですが、ドイツ語版の方が遥かに読みやすく英語の訳に困ったらドイツ語を見て理解するというかたちで翻訳を行いました。やはりクラカウアーの英語の厄介さもこの本がこれまで訳されてこなかった大きな原因だったのではないかと思います。

Z:今日のためにこの本を再読しましたが、この本の議論がどれほど先駆的だったのか改めて確認しました。カルチュラル・スタディーズや観客論、サウンド・スタディーズなど今となっては当たり前に議論されることが60年代の当時は掴みにくかったのではないかと想像します。竹峰さんは、今の現状とこの本の内容はどのようにリンクしていると思いますか?

T:おっしゃってくださったように、同時代のベンヤミンやアルンハイムに比べると観客論や映画音楽、音響などのいま流行りのテーマを扱っていることがこの本の大きな特徴と言えると思いますが、やや古く見える箇所もあります。私の関心に寄せて考えると、すべてがリアリズムから派生していることがアクチュアルだと感じましたし、今読んでも面白いと思えるのは、クラカウアーの理論的な部分だと思います。

Z:なるほど。私が一番最初にクラカウアーの著作を授業で読んだ時は、そのナイーブさを批判するために読む傾向があったのですが、それはまだクラカウアーのテクストをよく分かってなかったためだと思います。

T:そうですね。クラカウアーはアカデミックではなくてジャーナリズム出身なので書いたものを読むとエッセイ的であったりやや冗長であったり、哲学的にも素人くさい部分がある。ただし、一つのテクストじゃなくてクラカウアーの他のテクストも読むことで、ある種の布置やその著作の理論的前提になっていることも分かって、彼の思想が立体的に浮かび上がってくることがあると思います。なので『映画の理論』だけでなく『カリガリからヒットラーへ』などもそうなのですが、それだけ読むと物足りない部分があるんですけど、他のテクストと比べることで見えてくることが大きい。

Z:確かにクラカウアーは色々なところで活躍して、哲学において幅広く興味を持っているだけではなく、さまざまな面で教養のある人なのですが、それを強調せずに誰にでも読めるテクストを書く印象があります。

T:クラカウアーもワイマール時代に社会学や哲学などのいろいろな分野に関心を持ち知識をためていたと思います。もう一つ強調すべきことは『映画の理論』のあとがきでも書かれているように、アメリカに渡った時にエルヴィン・パノフスキーやエーリッヒ・アウエルバッハのようなドイツ系の亡命知識人たちとネットワークを築きながら積極的に議論を重ね、その成果をテクストの中に落とし込んでいることですね。なので『映画の理論』はワイマールとアメリカという二つの時代に培った思想が重ね合わされているとも言える。

Z:なるほど。『映画の理論』が出た時期(1960年)も興味深いと思います。当時はウォルター・オングやマーシャル・マクルーハンもミディアムの本質について論じました。こうした同時代のメディア論の影響もあったと思いますか?

T:当時のメディア論によく通じているわけではないので、うまくお答えできるか心許ないのですが、クラカウアーの議論の出発点は戦前にあるんですよね。いくつかの概念や考え方に変化はあるんですけど、基本的な考え方はぶれていないと思います。なのでクラカウアーが1940年代から考えていたことが60年になって花ひらいた、というふうに考えています。もし同時代のアメリカのメディア論と共鳴する部分があるとするならば、それはクラカウアーのメディア論が先を行っていたと言えるかもしれません。

Z:アドルノも『映画の理論』について論じていたと思います。アドルノは、映画の本質を考えると映画を社会や文化産業から切り離すことになると批判しました。そうした批判も含めてアドルノとクラカウアーの関係についてどう思われますか?

T:二人は親友だったことは間違い無いんですけど、一筋縄ではいかない部分があると思います。アドルノはベンヤミンとの関係性ともそうなんですけど、人と関係を築く際にある時期までべったりと憑依するようなかたちでその人の思考を吸収し取り入れる。しかしその関係性が終わると、その人をすごく批判するという人なんですね。クラカウアーの著作に対しても書簡でやりとりしていく中で、どんどん批判的になっていく。おっしゃってくださったように、その批判というのは、映画と社会の関係性を捨象して抽象的になっており、映画の本質を通してリアリズムを考えてしまってることです。その批判はあたっていなくもないのですが、クラカウアーにとって『映画の理論』は『カリガリからヒットラーヘ』と対になるもので、前者が映画の美学、後者が映画の社会学と考えれば両者は相互補完的なものとして考えられます。なのでアドルノの批判は的外れなところもある。

Z:それは二人のリアリズムに対する態度の違いと言えるかもしれません。おっしゃったようにアドルノは『映画の理論』の抽象化を批判しましたが、クラカウアーの他の著作を読むと、クラカウアーも近代の抽象化を問題にしている。彼のリアリズムの概念は、そのなかで重要な役割を持っている気がします。

T:まさしくおっしゃるとおりで、クラカウアーのリアリズム概念が一筋縄でいかないところは、近代の抽象化の反映であると同時に、それを超克していくものとして考えていることだと思います。普通リアリズムというと被写体となる現実をありのままに表象するのが一般的です。そこでは対象とイメージとの類似性やインデックス性が問題となるのかもしれませんが、クラカウアーのリアリズムはそれとは異なります。クラカウアーの見立てでは、現実はさまざまな意味に溢れていて、私たちはその意味を通してしか物を認識することができない。しかしカメラは物に付着したその意味を、よそものの眼差しとして取り外す機能があると言います。言い換えれば対象を剥き出しの物に還元して、わたしたちに対して異質なものとして立ち現れさせる。それは単なる異化効果のように聞こえますが、そこにクラカウアーは解放的な可能性を見ているんですね。それはある種、現実態から可能態になるという言い方ができるかもしれません。クラカウアーはそうしたカメラの可能性なかにリアリズムという概念を構築している。そしてそれは近代の都市において人間が古い共同体から離れてモナド化している状況と呼応しているわけですね。つまり人間が疎外化されていることと物が意味から「疎外化」されていることの両方が解放的であり、それを捉えることが映画なんだということです。

Z:それはベンヤミンやアドルノのようなフランクフルト学派のペシミズムとは少し違うわけですね。

T:似ている点と異なる点があると思います。基本的にフランクフルト学派は疎外状況をポジティブなものに読み替えていく特徴があって、その点では一致していると思います。ベンヤミンのアレゴリー的な眼差しやアドルノの物象化も既存のものが破壊されることで新しいものが生まれてくるという点でクラカウアーの思考と同じです。ただし、クラカウアーが異なるのは、疎外化の先に何があるのかということをあえてはっきりと言わないんですね。クラカウアーはワイマール時代から待つことを倫理的な態度として要請していて、ユートピア的なビジョンを語らずに、あえて解放の可能性にとどまる。それはベンヤミンやアドルノとは異なる点です。

Z:なるほど。今回『映画の理論』を読んで、カメラと現実については色々書かれていたのですが、カメラと人間についてはそこまで論じられてない気がしました。ただそれは近代化の中でメディアと人間の境界が曖昧になったこともあると思います。クラカウアーは実際に両者の関係をどのように考えていたのでしょうか?

T:まずフランクフルト学派の中で人間とカメラの関係性について最初に論じたのはベンヤミンだと思うんですね。「複製技術時代の芸術」やミッキーマウス論では技術と人間の関係性が単なる主体と道具ではなく、両者が有機的な関係となって一体となることが書かれています。クラカウアーも被写体と観客、あるいはそれを仲介するカメラの差異がどんどん融解していくような境地を理想としている部分があります。ただしクラカウアーの場合は、ある種のマゾヒズム的感性が先立ってる気がします。つまり、ベンヤミンのように積極的に被写体とミメーシス的に一体となった後で遊戯的に新たなヴィジョンを作り上げるのではなく、イメージがわーっときて自我がどんどん解体し自分自身がどんどん揮発していくような点をクラカウアーは映画鑑賞の肝として見ているところがある。

Z:日本でのクラカウアーの受容についてもう少し聞かせてください。一応、70年代から着実なペースで翻訳は出ていたんですよね。そこで具体的にどのような文脈で受け入れられてきたのでしょうか?

T:そうですね。先ほども述べたように『カリガリからヒットラーへ』が強烈なインパクトを与えてその印象がいまだに続いていると思うんですけど、それとは別にクラカウアーの他の仕事を平井正さんたちがこつこつと紹介してきたことは確かです。とりわけ社会学者としてのクラカウアーや映画に限らないワイマール時代の研究家としてのクラカウアーなどが社会学系や独文系の文脈の中で紹介されてきました。しかしクラカウアーの活動自体が、多岐にわたっているので個別的なものとして論文や本が出たりというのはあるんですけど、総体としてのクラカウアーがどのようなものだったのかという議論が実を結ぶことなくここまできてしまった印象があります。例えば映画研究者なら『カリガリ』や『映画の理論』、社会学だと『サラリーマン』、文学だと『探偵小説の哲学』というように分かれてきました。なのでクラカウアーがなぜこんなに色々な仕事をしたのかというのを学術的に進めなければと思います。

Z:逆にそれがモザイクや多様性を論じるクラカウアーの理論と合っている部分があると思います(笑)。

T:たしかにそうですね(笑)。私は研究者なのでクラカウアーの統一像を打ち立てたいという欲望はあるんですけど、それをすることでクラカウアーの多様性やモザイク性が失われていくことはあると思います。

(フロアからの質問へ)

・救済という概念ついて聞かせてください。竹峰先生は『救済のメーディウム』という本を書かれていますが、『映画の理論』を翻訳された後でクラカウアーの救済の概念に対する認識に変化はありましたか?また『救済のメーディウム』のなかでの救済と『映画の理論』での救済との共通点や相違点があれば教えてください。

T:ありがとうございます。クラカウアーにおける救済は「物理的現実の救済」という『映画の理論』の副題にもなっている通り、たしかに重要な概念なんですけど彼自身、明確なかたちでは定式化をしていないと思います。私なりに考えると、やはりそれは諸事物が意味から解放されて無限の可能性に開かれた状態に差し戻され、観客がそれを知覚していく瞬間に物理的現実の救済が起こると思います。ただしその場合、救済は物理的現実だけでなくて、観客の側にも起こると言える。つまりそれは観客が物を美的に享受するというよりは、一体化してその境界が融解していった先の救済であり、われわれ観客も救済される、あるいは救済されるべき物になることがあるのではないか、というように思います。『救済のメーディウム』のなかでは基本的にベンヤミンに寄り添って救済の概念規定をしましたが、それは過去に打捨てられたものを今ここに取り戻していく、というものでした。そしてそのような救済の概念は、アドルノやクラカウアーのそれとは異なるのですが向かっているベクトルは同じかと思います。

Z:すごくいい質問だと思います。救済は英語版ではredemptionでドイツ語版ではErrettungですよね。細かいことですが、その言葉の違いについて何かありますか?

T:それぞれの言葉に宗教的な意味があると思うのですが、クラカウアーはユダヤ教の影響が強かったので、救済の概念にもメシアニズムのような神学的なイメージがあることは確かだと思います。その点についてはベンヤミンにも共通しますが、クラカウアーの方がはるかに宗教的な色合いが強いと言えます。

・ クラカウアーのリアリズムについてのお話がとても興味深かったです。そのうえでデジタル映像についてお聞きしたいです。というのもクラカウーはカメラのもつ客観性を前提にしていますが、マノヴィッチのようなデジタル映像を論じる研究者は、後からいくらでも手を加えられるイメージの修正可能性をデジタルの本質としています。クラカウアーの議論とデジタル映像は、どのように折り合いをつけられると思いますか?

T:ありがとうございます。たしかに写真から映画へと議論を展開するで、写真が現実をありのままに映し出す機能があることを出発点としていること、ましてやクラカウアーはデジタル技術を知らなかったので、今日おいてまだアクチュアリティがあると言えるかについては難しいかもしれません。ただしクラカウアーは写真の現実性だけですべてを押しきっているわけではないです。彼のリアリズム概念は、何も手を加えず対象をただ映すだけでは成立しなくて、そこには造形的傾向が必要です。クラカウアーは造形的な傾向を一切排した実験映画を退屈であると言っています。つまり彼のリアリズム概念において、デジタル的な加工性は否定されるものではなくて、むしろそれがある種の裏箔やコントラストととなってリアリズム的なものが浮かび上がらせる働きがあります。なので必要悪ではないですけど、造形的傾向はリアリズム的傾向と必ずセットであると言えます。そう考えてみると現代の全てがアニメーションと化してしまったCGをふんだんに使った映像においてもクラカウアーのいうリアリズムは出来しうるし、クラカウアー自身もミュージカル映画を語るときにおいて、そのような可能性も考えていたのだと思います。

・クラカウアーは色々な理論家たちと共鳴する部分があると思います。今日のリアリズムの話を聞いて、とくにスタンリー・カヴェルと近いような気がしました。もしそのことに関して何かあればお聞きしたいです。

Z:私はそのコンビネーションは初めて聞きました。複雑なことなのでもう少し考えたいです。クラカウアーはジョン・デューイの影響があると聞きましたが、例えば『思想の科学』関係の日本の思想家たちとの共通点などはあるのでしょうか?

T:私はカヴェルにも日本の思想家にも詳しくないのでうまくお答えできませんが、たとえば思いつきでクラカウアーと吉本隆明とかの組み合わせを考えてみると、大衆と知識人とかメディアと知とかそうした共通点などはありうると思います。

・今日のお話を聞いてクラカウアーは、よく比較されるバザンとはむしろずいぶん違うということがはっきりしたと思います。マゾヒズム的感性はバザンになかったですし、宗教性に関してもやはり影響元を含めやはり違う印象を受けました。その点に関してなんですが、バザンは「実存は本質に先立つ」と言って色々な作品を批評しながら自分の理論を修正していった側面があります。今日も造形的側面を重要視したというお話があったので、必ずしもクラカウアーの議論は本質主義的ではないと思いますが、しかし『映画の理論』を読むとやはり対立図式が先にあって、色々な作品をそれに当てはめていく部分がある印象を受けました。かつてクラカウアーはワイマール時代に映画評を書いていたわけですが、批評家としてのクラカウアーと『映画の理論』の本質主義的なクラカウアーの関係性についてお伺いできればと思います。

T:重要なご質問ありがとうございます。まず確認すべきは、1940年代に書かれたマルセイユ草稿と60年に書かれた『映画の理論』にはずれがあって、それは戦後にアメリカでたくさんの映画を鑑賞して、元々の考えを修正して行ったことが大きいと思います。具体的に言えばマルセイユ草稿では、初期映画を出発点にして最終的には映画と死、つまり現実のアレゴリー的なものが浮かび上がることが書かれていました。それが『映画の理論』では、そのようなベンヤミン的な図式から離れて、生の流れが映画のなか開示されるでという議論に変わりました。それはネオリアリズモのような作品と出会い、自らの理論を修正していったことが大きく関係していると思われます。そのほかにも『映画の理論』ではドキュメンタリー映画や実験映画にもたくさん言及していることがわかります。なのでクラカウアーは新しい映画を見続けてずっと批評家としての自分を捨てなかったのではないかと思います。

・クラカウアーのリアリズムのなかで、観客と諸事物との融解の話がありましたが、クラカウアーは最終的にどこに重きをおいたのでしょうか?融解した状態なのか、あるいはその状況でも残ってしまう人間的なものなのか。

T:ありがとうございます。結論から申し上げるとクラカウアーは人間というカテゴリーをそれほど興味なかったのではないかと思います。人間や個なども外在的な意味であって、それが解体されるところに、クラカウアーはメシアニズム的な可能性をみています。補足すると、なぜクラカウアーは新しい人間性のようなものに警戒心があったのかというとそれはファシズムの経験があったからだと思います。『カリガリからヒットラーへ』の書物自体は、モナド化した人間がもう一度新しい意味を求めて、権威主義的なものへと引き寄せられていくプロセスを歴史的にあとづけたものです。なのでクラカウアーは新たな意味や人間性の復権が、ファシズム的なものにつながると考えていたように思います。

Z:その通りだと思います。私はクラカウアーが1932〜33年にドイツの状況を書いた日記や手紙を読んだときに、クラカウアーのすごさを認識しました。というのも彼はその時点で、ナチスが選挙を制し、これからどのような虐殺が起こるかということを具体的に予見していたからです。なぜその時点で、クラカウアーがそこまで認識できたかというと、彼が人間よりも細かい単位であらゆるものを徹底的に見ていたからだと思います。例えばダンスの動きであったり、絵葉書の内容であったりを通して、全体的な現実を把握しようとしました。なので人間に固執せずに物を見ることがクラカウアーの理論的な強さにつながっていると思います。

(行田洋斗)

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、髙山花子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年10月17日 発行