第17回大会報告

パネル6 「ままならない身体」をめぐる思考と実践

日時:2023年7月9日(日)16:30-18:30
場所:東京大学駒場キャンパス・21KOMCEE East 2階 K212

  • 自己の身体に対する解像度を上げる──大野慶人の舞踏の稽古/宮川麻理子(立教大学)
  • 不/自由なダンス──老いを巡るダンスドラマトゥルギー/中島那奈子(ダンスドラマトゥルク) online
  • 「なりきる」から始まる、自身の表現機会/小川千尋(東京経営短期大学)

【コメンテイター】外山紀久子(埼玉大学)
【司会】小澤京子(和洋女子大学)


本パネルは、「ままならない身体/身体のままならなさ」という(これまでにも一定の言説の蓄積がなされてきた)主題について、当日会場に居合わせる発表者と来聴者の個々の固有の肉体や、瞬間ごとに生起する感覚も含めて、実践と思考との絡み合いから生まれるものを追究する企図をもって実施したものである。これまでの研究と実践の状況を俯瞰すると同時に、メタレベルの抽象論、言語/理論のみによる伝達に留まり続けるのではなく、ベタに動き感覚すること、そのような場を共有することも、本パネルの目論みの一つであった。

宮川氏は舞踏研究者であると同時に、自身も大野慶人の稽古に10年間で計91回にわたって参加したという経験を持つ。この発表では、対象から距離を取った「参与観察」の結果ではなく、稽古を通して自らの身体観がどう変容したのかが、デモンストレーションも含めて提示された。そこでは、花を表現するのではなく、「花になる」こと、自身を見せるのではなく、「見られる」ことが求められている。外部にあるイメージが身体と結びつき、客体として空間に視られることによって、日常とは異なる身体へと導かれること、それは(すでに在った)身体の再発見であり、身体意識の変容であることを宮川氏は説く。

中島氏は、ダンスドラマトゥルクの立場から実践的研究として手がけたパフォーマンス(2023年)に基づき、発表を行った。動きに一定の制約が伴う歴史的建造物を会場とし、老いた能楽師と若年のダンサー、そして合唱隊(コロス)が登場するものである。そこでは、空間の不自由さゆえに老いの身体が自由となること、老若2名のダンサーがいずれも主役として互いに呼吸でつながり、その往還運動を観客は目の当たりにすること、ダンサー間の身体の対話が、合唱隊の歌う身体と反響し合うこと、観客もまた単なる目撃者に留まらず、「動かないことができる」者としてその場に参画していることを、中島氏は指摘する。

小川氏は、自身のダンサーとしての経験、さらにはこどもを対象とする身体表現教育に従事する立場から、「なりきる」ことをテーマに、来場者参加型ワークショップを含む発表を行った。こどもにとっての「ままならない」身体のあり方と、おとなになるに従ってはまり込んでしまう「ままならなさ」の違いを確認したのちに、来場者全員が小川氏のインストラクションに従い自らの身体を動かすワークに参加した。まずお手玉を頭上に載せ、身体のバランスを意識する実践、次に二人一組になり、片方が操る新聞紙の動きを模倣しつつ「なりきる」実践である。

コメンテイターの外山氏からは、次のような指摘がなされた。すなわち、身体とはそもそも「ままならない」ものであり、「ままなっている」身体など実際には存在しないこと。つまり、中心に置かれた、幻想としての「規範的身体」から、わたしたちは常に「周辺」へと追いやられていること。今回のパネルの発表者は、いずれも「実践」も行う研究者たちが発表する機会という意義があり、また芸術系の学会がとかくハイアートや美的自律性を前提としがちな中、一つの異議申し立てとしても機能するであろうこと。他方で、他者の身体を「ままならない」と規定することが可能なのか、当事者ではないものが「代弁」することへの懐疑も呈された。

そのうえで、各発表者へと問いやコメントが投げかけられた。宮川氏へは、大野慶人の稽古が、「身体感覚の解像度」を上げるもの──この効用はメディテーションなど、他の実践でも指摘されてきた──であると同時に、観客に向けて差し出される「見られる」身体でもあるのではないか、という指摘。中島氏へは、さまざまな身体的バックグラウンドを持つ人々を「型の向こう」へと組み合わせることに関して、オーセンティックな型を突き詰めたときの質と、多様なものを組み合わせたときの質をどう考えるかという問い。また小川氏へは、こどもの身体はあっという間に「固まって」しまうが、今回のWSはその「固まった身体」を再び突破する方法を示すものであったというコメントがなされた。

会場からも、活発な質疑が寄せられた。「よい姿勢」をどう捉えるか、それは両義性を持つのではないか、という問いに対して、宮川氏の応答は、「それぞれの人によって変わる」というものである。例えば大野慶人も姿勢の「縦の線」についてしばしば言及するが、しかしそれは唯一の規範を押しつけるものではないという。また小川氏は、「無理やり作られた」よい姿勢と、「自然となっていった」よい姿勢との違いを、自らのダンサーとしての経験から指摘する。

そもそも「老い」とはなにかという問いに対しては、中島氏は「老い」を「aging=年を加える」と捉えていること、「老い(年齢)」の定義はあやふやなものであり、むしろその定義を見直していく必要があると考えていることを述べる。

宮川氏や小川氏が「(型を)真似ること」に否定的なのはなぜか、という問いについては、小川氏は「はじめに心を解放するために、真似を避ける」旨を説く。宮川氏は舞踏の歴史的経緯(バレエやモダンダンスのカウンターとして、外側にある手本ではなく、自らの内部にあるものを重視する)にも触れつつ、自身も内部に感覚を向けることで動けることを発見したと述懐。さらに中島氏は、上述の「良い姿勢」に関する問いとも合わせて、高齢の能楽師が仕舞の際に手をついて立ち上がるシーンに言及し、クィア・スタディーズのハルバースタムによる「成功」と「失敗」の再定義のように、この箇所を型の失敗とみなすかは再考の余地があるのではと述べた。

理論的・歴史的な視座にも支えられた各々の個別の「実践」の報告と、実際に皆が自らの(それぞれにままならない)身体を、別の物を模倣するというやり方で動かしてみるWS、そして密度の高いコメントと質疑応答の時間を通して、抽象論に収束してしまわない、個別で単独な身体の態様へのアプローチのあり方が浮かび上がってくる──そういう出会いと覚醒をもたらしてくれるパネルであった。


パネル概要

私たちの身体は、しばしば意志による統制や管理を逃れるし、また往々にして一般化・標準化された規範からは外れている。幼年期の身体、病(怪我や障がいを含め)の身体、さらには老いを迎えた身体は、より意志や規範をすり抜けてしまうことが多いだろう。本パネルでは、このままならない身体、不自由な身体に対して、芸術表現がもたらしうる効果を、実践の場から検討する。

本パネルでは、3名がそれぞれの立場から、ワークショップも含む研究発表を行う。宮川は、大野慶人による舞踏稽古が変容・生成させる身体の内部図式を、中島は、歳を重ねるダンサーの身体をめぐる実践的思考と、「老い」がもたらす共時的・通時的な繋がりの可能性を、小川は、幼年期の「模倣する身体」の取り戻しによる自己の認識や解放を提示する。そのうえで、芸術の身体性に注目し、「ムーシケー型アート」と自己治癒という側面から捉える美学研究者・外山がコメントを行う。ここからは、自己の身体の捉えにくさ、不確かさと、それをめぐる受容や確認、あるいは認識変容のプロセスが浮かび上がってくるであろう。

本パネルは、身体をめぐる思考と実践のオルタナティヴとして、「規範的」で「完全」な身体やその動きから外れ、こぼれ落ちるものを掬い取る試みである。同時に、卓越化や権力、制度化に絡め取られた「芸術」の隙間や外部に、身体を用いた芸術活動から生まれる、自己確認や自己変容という契機を探るものでもある。

自己の身体に対する解像度を上げる──大野慶人の舞踏の稽古/宮川麻理子(立教大学)

本発表では、舞踏家大野慶人(1938-2020)の稽古を取り上げ、舞台に立つ身体、「虚の身体/幻想的な身体」はいかに創造されうるのかを検討する。大野慶人は舞踏の創成期から、その創始者である土方巽、大野一雄と共に活動を続けた舞踏家である。分析対象となるのは、2009年からほぼ10年にわたって大野慶人の稽古を受けた発表者の経験とその記録、および稽古の映像である。大野慶人が考える舞踏する身体の創造プロセスの一端を明らかにする。

舞踏の稽古において、最初に感じられるのは「戸惑い」である。それは一般的なダンスの訓練とは大きく異なり、体の状態を変貌させること、特に大野慶人が稽古参加者に語りかける言葉によって体を変容させることが求められる。言葉が想起するイメージは、具体的に身体変容を促すファクターとなる。その過程で明らかになっていくのは、私たちの自己の身体に対する認識の曖昧さである。大野慶人の舞踏の稽古を通じて獲得される身体は、自らの身体に対する認識の解像度を上げ、自己受容の感覚を研ぎ澄ませ、その結果として「虚の身体」に到達すると考えられる。また大野自身が「ミリ」の舞踏家だと述べているように、その差異は非常に微細なもので、時にそれは外からはわからない身体内部の図式の変容として現れる。

本発表では、以上のような舞踏の稽古を、具体的な稽古内容とその提示を軸に検討し、私たちの「ままならない身体」が獲得可能な新しい身体の図式を検討してみたい。

不/自由なダンス──老いを巡るダンスドラマトゥルギー/中島那奈子(ダンスドラマトゥルク)

ダンスドラマトゥルク・ダンスドラマトゥルギー研究は、1990年代以降、既存の研究⼿法を乗り越える形で⽣まれたダンスの実践的研究である。このダンスドラマトゥルギー研究という分野は、伝統的戯曲研究から脱却した舞台芸術の研究アプローチ「プラクティス・アズ・リサーチ」(=研究としての実践)と合流している。発表者はこの一例として、2023年に歴史的建造物である京都府庁旧本館旧議場で実施した、研究としてのパフォーマンスについて理論化する。ここでは、喜多流能楽師とダムタイプ他で活躍するコンテンポラリーダンサーによるパフォーマンスを合唱隊とともに上演した。

動く身体を扱う舞踊で、〈老い〉は踊り手にとって〈ままならなさ、不自由さ〉を強いる問題となる。発表では、能楽やバレエでのダンサーの引退年齢、作品やダンスカンパニーを成立させるダンサーの条件、型の模倣と解放といった側面から〈不自由さ〉を議論していく。ただ、あらゆる人に訪れるという意味では平等な〈老い〉が、ばらばらな世代、地域、国、時代を繋ぐ一つのリンクになる。加えて、〈老い〉が一人の身体のなかに個人を超える複数の年代を思い描く想像力ともなり、個人の年齢を超えて、歴史空間に存在する遥かなる時間を讃えた生のエネルギー循環となることも示したい。

「なりきる」から始まる、自身の表現機会/小川千尋(東京経営短期大学)

幼児期は、自己を表現する手段として「何かになりきる」活動を通して自身の身体を存分に動かし、頭で思い浮かべたイメージを表出していく。そして、心と体を解放していくことで、自身の心と身体で感じているイメージを一致させていく。一方、大人になるにつれて、身体を使って自己を表現することは減り、幼児期の頃のように思い切り身体を使った自己表現する機会は減ってくる。自分を表現することは「恥ずかしい」と感じることもあるが、自己の恥じらいを捨てて表現することによって、心が開放され心の奥底に眠っていた自分の気持ちに気がつくこともできる。よって、身体表現活動は、ムーブメントセラピー、ダンスセラピーと言われるようなセラピー的な要素も含まれる。

そこで今回は、「なりきる」という経験から自己を解放していくことを実践的に行っていく。行う内容は、ストレッチ的な要素から新聞紙を用いて動きの質感を模倣する所へと繋がり、そこからイメージを膨らませダンスの振り付けを作る作業へと展開していく。この実践は、来場者参加型のワークショップとして行う。基本的には来場者の全員の参加を想定し、その場に立ち、ストレッチや、ペアになり新聞紙の動きを模倣する等の動作を行ってもらう。

本発表を通し、「ままならない身体」から「自己」を認識することを参加者に実感してもらいたい。この実践を通して、幼児から大人までの身体表現活動の内容のプログラム開発へと繋げていくことが、本発表の目的である。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、髙山花子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年10月17日 発行