第17回大会報告

パネル2 クロスメディアとしての〈新派〉の水脈

報告:辻 佐保子

日時:2023年7月9日(日)14:00-16:00
場所:東京大学駒場キャンパス・21KOMCEE East 2階 K211

  • 新派と新劇の交差──『復活』と『カチューシャ』を繋ぐ女性の「声」について/谷口紀枝(早稲田大学)
  • ヒロインたちはなぜ死ぬのか──『にごりえ』『虞美人草』『金色夜叉』とその脚色/中村ともえ(静岡大学)
  • コロナ禍下における劇団新派『八つ墓村』の変奏と展開/後藤隆基(立教大学)

【コメンテイター】木下千花(京都大学)
【司会】小川佐和子(北海道大学)


本パネルでは、従来の演劇史や映画史からは等閑視されてきた新派を、演劇や映画、文学など複数の媒体、あるいは悲劇や喜劇など複数ジャンルを取りこみ、つなげる場として捉え直すことに焦点が当てられた。

最初に登壇した谷口紀枝氏の「新派と新劇の交差 — 『復活』と『カチューシャ』を繋ぐ女性の声」では、大正時代を代表する新派映画『カチューシャ』が批評家から酷評されつつ興行的に成功を収めた背景を捉えるにあたり、新劇女優・松井須磨子によって歌われた「カチューシャの唄」の意義が検討された。「カチューシャの唄」は、1914年の芸術座公演『復活』の劇中歌である。当時芸術座は経済的に逼迫し、資金調達のため大衆に訴求する通俗的な劇として『復活』は製作された。芸術座を率いる島村抱月の狙い通りに『復活』は大ヒットし、特に松井が歌う「カチューシャの唄」に観客は惹きこまれた。「カチューシャの唄」はレコードに吹き込まれ、津々浦々に松井の歌声は伝播し、『復活』全国巡業の成功を後押しした。谷口氏は「カチューシャの唄」が受け入れられた要因として、当時の学校唱歌で多用されたヨナ抜き長音階が用いられたことで聴衆が親しみを覚える音だったことに加え、松井須磨子の歌声の重要性に言及した。松井の歌声は特に、『復活』を翻案した新派映画『カチューシャ』において印象的に響いたであろうことは想像に難くない。女形が女性キャラクターを演じ、劇場では男性弁士によって語られる新派映画『カチューシャ』にレコードに吹き込まれた松井のか細い歌声が流れる時、彼女の身体性は間接的に劇場に立ち現れる。観客はその時、松井が新劇で体現してきた「新しい女」を看取したのではないかと、谷口氏は提起した。

次に、中村ともえ氏が「ヒロインたちはなぜ死ぬのか — 『にごりえ』『虞美人草』『金色夜叉』とその脚色」というテーマで、新派演劇・映画の原作となった近代小説へ立ち戻り、小説の表現から新派的な感性を照らし返すことが試みられた。まず、原作として数が突出している菊池幽芳作品から構成要素が抽出された。中村氏によると、結婚問題が中心に据えられ、虚栄心の強さと貞操の喪失とを重ね合わされたヒロインが身体的な罰を受けるというモチーフが見出される。以上を踏まえた上で、夏目漱石『虞美人草』終盤の藤尾の身体描写が分析された。結婚の意志を示す藤尾の金時計が二人の男性から立て続けに拒否され、そのことに藤尾は衝撃を受けて倒れる。夏目は藤尾に心理は語らせず、一人目の小野から拒否された時点で「白い拳を握ったまま、動かない」「化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度怒を満面に注ぐ」など、顔色や表情、身体によって藤尾の状態を記述していることが特徴と中村氏は論じた。他方、原作小説では藤尾の死の詳細は不明であるものの、亡き父が決めた相手でなく博士になる予定の小野を選ぼうとする藤尾の虚栄心が死をもたらしている点で、菊池作品から抽出された構成要素を『虞美人草』も共有している。続く『金色夜叉』の分析で、ヒロインの宮は結婚をめぐって身体的な罰を受けるものの、宮自身の心理や考えは明かされないと指摘された。著名な熱海の湯の場面では、貫一が宮に捨てられるはずなのに、宮が罵倒され、蹴り倒される。宮は貫一に縋りつき話を聞いてもらおうとするが、宮が何を伝えたかったかは明かされない。また『続金色夜叉』で貫一は、宮が何度も無惨な死を遂げる姿を見てようやく許しを覚えるという夢を見る。貫一ではなく資産家の富山と結婚することで、虚栄心の強さと貞操への疑いを招き、身体的に痛めつけられる宮も、菊池作品や『虞美人草』の藤尾と共有する要素を有している。以上の新派原作小説に共有する描写が提示された上で、新派演劇や映画へ翻案されると、ヒロインの心理を説明する言葉が足されると指摘された。この相違は、新派が帯びる「新しさ」と関わるのか、あるいは女形や女優の身体性が関わるのかは、今後の検討課題として提起された。

続いて、後藤隆基氏の「コロナ禍下における劇団新派『八つ墓村』の変奏と展開」は、新派において探偵劇が中心的な演目群だったという見落とされがちな事実が確認された上で、コロナ禍が新派にもたらした影響について劇団新派による『八つ墓村』連作から論じられた。明治期から新派は、新聞掲載の実録事件ものを翻案し上演してきた。また、江戸川乱歩原作『黒蜥蜴』は1962年に初代水谷八重子主演で上演され、2012年にも明治座創業140周年を記念する演目として上演された。以後2010年代は、劇団新派文芸部の齋藤雅文が作・演出を、歌舞伎から新派に移籍した喜多村緑郎と河合雪之丞が主演を務める『黒蜥蜴』シリーズが精力的に上演された。探偵劇は新派のひとつの水脈として継がれてきたことが、後藤氏の発表からは窺える。2020年、その水脈に新たに『八つ墓村』が加わろうとしていた。しかしコロナ禍に見舞われ、上演は中止となった。その後、劇団新派はオーディオドラマや特別上演という形で活動するのだが、その際の題材が『八つ墓村』のスピンオフであること、さらには「八つ墓神楽」というパフォーマンス場面を抽出している点は注目に値する。後藤氏によると、「八つ墓神楽」への着目は新派版独自である。コロナ禍で上演が絶え、いつ再開するともしれない中で、新派の音楽性や身体性を継いでいく手立てと考えられる。ただしコロナ禍による新派への打撃は深刻で、今後、新派における探偵劇の展開のみならず新派劇そのものの動向は注視の必要があると述べられ、発表は締め括られた。

三つの発表を受け、コメンテーターの木下千花氏からはまず、2023年3月出版『新派映画の系譜学 — クロスメディアとしての〈新派〉』や早稲田大学演劇博物館2021年度秋季企画展『新派 SHIMPA — アヴァンギャルド演劇の系譜』など、近年の新派研究の流れに竿さすものとして本パネルが位置付けられた。また、パネリストに共有される問題意識として、以下の二点が指摘された。まず、発表はいずれも『新派映画の系譜学』所収の齋藤綾子氏による「新派的なるもの ある考察」を踏まえており、女性の身体を特権的な場として情動が発露される一種のモードを新派から見出そうとしている。そして、通俗的な悲劇と捉えられがちだった新派の中の多様性を掘り起こそうとしている。

以上の整理を踏まえて、木下氏から登壇者にコメントや質問が投げかけられた。まず谷口氏に対して、松井須磨子の重要性が説得的に論じられたと評価した上で、「女性の身体」を本質主義的に捉えているように聞こえかねないと懸念が示された。対して谷口氏は、発表の主旨は大正時代の演劇・映画という固有の文脈において女優・松井須磨子という特異な人物の身体や声が重要だったことを明らかにすることであり、本質主義とは異にするという応答がなされた。次に中村氏に対して、文学研究の立場から見た翻案の意義についてと、「女性がナラティブによって罰せられる」という理解をローラ・マルヴィ以来共有してきた映画研究に対する文学研究の立場について、二点が問われた。中村氏は一つ目の質問について、翻案によって作家の生きた時代や社会とは異なる時代性が作品に流れこみ、文学に新しい視座が導入されると述べた。二つ目の質問に対しては、「ヒロインが死ぬ」こと自体は普遍的であるものの、新派の原作小説ではアレゴリーが多用されている点に特異性が見られると応じた。最後に後藤氏に対して、新派の現代における意義や位置について質問された。後藤氏からは、小規模化や技芸の継承へ舵を切る可能性が提起された。また、松竹新喜劇など近接する領域との協働可能性なども探究の余地はあると述べられた。

その後フロアからは、新派における色彩の役割や、歌のテンポや間の取り方の時代ごとの変化、台詞を発する身体から歌う身体の間に走る切断への見解について質問が出た。新派劇の舞台美術に洋画家・浅井忠が携わった際のエピソードや、時代が降って「高速」ブームが起きたこと、文学から新派への翻案で歌う箇所や人物に異同が生じること、歌もセリフも含めた総体としての松井須磨子の受容など、多岐にわたって示唆的な応答がなされた。

三つの発表と質疑応答を通じて、新派の営みの幅広さと深度、それゆえの限界が検討された。最後に中村氏が述べた「〈新派的なるもの〉にも下限がある」という言葉がとりわけ印象に残った。新派は幅広いけれども際限ないわけではなく、さまざまなジャンルを内包するけれど〈新派的なるもの〉は基底をなし、普遍/不変というわけでは決してない。この捉えどころのなさこそが新派の大きな魅力であり、だからこそ「場としてとらえる」「身体性に着目する」という方針は的確であると思われた。今後の新派研究の発展を感じさせる充実のパネルだった。


パネル概要

新派とは、狭義には歌舞伎(旧派)に対置される新たな演劇ジャンルとして明治時代に興り、大正から昭和にかけて隆盛した新派劇のことを指す。新派は同時代の世相を反映した現代劇として大衆に人気を博し、この類型は、新派劇の演目を引き継ぐ形で、旧劇映画(後の時代劇映画)と並ぶ現代劇映画のジャンルとして展開された。

新派というジャンルは、従来の演劇史においてはその通俗性から研究対象として等閑視され、映画史においては日本映画の後進性を示す類型として位置付けられてきた。本パネルでは、〈新派〉という概念を演劇・映画、また文学をつなぐ場として捉えなおし、新しさと旧さの入り混じった〈新派〉的な感性の広がりを草創期から現代にかけて再検討することが目的である。人物の情動や場面に漂う情緒を声や歌などを介して増幅し、観客の心性に働きかける新派は、近代の大衆の記憶装置となっていた。

谷口は、大正時代の代表的な新派映画である『カチューシャ』を取り上げ、女性の「声」の役割に注目し、その受容を考察する。中村は、文学における「新派的なるもの」を脚色から照射し、原作である小説と演劇・映画が、結婚という問題をめぐって生起するヒロインの受苦、特にヒロインの死という結末をどのように表象してきたか、複数の事例をもとに考察する。後藤は新派劇のオルタナティヴな水脈である探偵劇を対象に、「朗読」等による脚色の変遷を検討するとともに、新派というジャンルの現在地を位置付ける。

以上のように本パネルは新派の多様性を領域横断的に検討しつつ、新派の歴史と現在、さらに未来への期待にも議論を展開していく。

新派と新劇の交差──『復活』と『カチューシャ』を繋ぐ女性の「声」について/谷口紀枝(早稲田大学)

新派映画は、同時代の現代劇を意味する映画の類型の一つであり、明治時代末から大正時代にかけ、新派演劇が引き写されることで発達した。新派演劇は、明治20年代に書生芝居から起こった演劇で、旧劇=歌舞伎に対し、同時代を描いた新演劇=新派=現代劇と呼ばれたものであるが、歌舞伎の形態を真似ることに始まった所以で、女性の役は男性が演じる女形が採用された。そしてこの経緯で新派映画においては、女性を主人公としながらも、女性役は女形により演じられ、上映の際には、男性弁士の声が添えられるという女性不在の形態が長らく続いた。

そうした中、新劇界から女性の身体と声を持った女優・松井須磨子が誕生する。大正3年(1914)、松井主演で上演された、レフ・トルストイ原作の『復活』と、劇中歌「カチューシャの唄」は、新派的であると揶揄されながらも芸術座の代表作となり、日本を縦断する巡業公演とレコードの普及により、全国の津々浦々まで伝搬し、その歌唱は日本中に轟いた。

本発表では、偶然か必然か、それまで距離を保っていた新劇と新派が交差した舞台劇『復活』と映画『カチューシャ』を取り上げ、松井演じるヒロインに〈新しい女〉を感じ、共鳴する人々が、女形俳優・立花貞二郎主演の『カチューシャ』を取り込みつつ受容していく過程を考察する。そこには、両作品を繋ぐ役割を果たした劇中歌があり、上映館に響いた女性の「声」が存在した。

ヒロインたちはなぜ死ぬのか──『にごりえ』『虞美人草』『金色夜叉』とその脚色/中村ともえ(静岡大学)

新派劇・新派映画の代表的な作品は小説を原作とするが、演劇・映画と違い、文学の領域では「新派」という語は用いられない。たとえば『己が罪』『乳姉妹』(菊池幽芳)や『不如帰』(徳冨蘆花)は文学史では「家庭小説」に分類される。だが『義血侠血』(泉鏡花)や『虞美人草』(夏目漱石)など同様に新派劇・新派映画の原作になった作品はこれに収まらず、演劇・映画の側から原作となった小説を捉え返す新たな枠組みが必要である。

そこで有効だと思われるのが、映画研究者の斉藤綾子が提唱する「新派的なるもの」という理論的概念である(「新派的なるもの ある考察」『新派映画の系譜学』2023、森話社)。斉藤は、脚色の過程で物語はしばしば変容するものの、新派的な物語叙述・表現様式の中心には女性の身体が位置するとして、悲劇の負荷がヒロインにかかることを指摘している。

本発表では、既に検証した『にごりえ』の脚色史を踏まえつつ(「ヒロインの死を悼むのは誰か 樋口一葉作『にごりえ』とその脚色」『新派映画の系譜学』)、『虞美人草』と『金色夜叉』(尾崎紅葉)のヒロインの死という結末を分析する。『金色夜叉』は、小説は未完だが、主人公の夢の中でヒロインが死に、幾つかの脚色ではこれが結末として採用されている。発表では、小説におけるヒロインの死がどのように表象され、そこに何が託されているのか、複数の脚色を参照しながら考察する。

コロナ禍下における劇団新派『八つ墓村』の変奏と展開/後藤隆基(立教大学)

劇団新派の横溝正史原作『八つ墓村』(齋藤雅文脚色・演出、新橋演舞場)は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で、2020年2月26日に当時の安倍晋三首相が発表した全国的な大規模イベントの自粛要請を受けて中止を余儀なくされた。

以降、新派は『八つ墓村』の大阪松竹座公演に加え、この年の本公演がすべて中止になった。2021年10月には新橋演舞場での本公演が叶うが、2022年の本公演は皆無。新派は今、ジャンルとしての存亡の秋を迎えているといってもいい。

本発表では、コロナ禍のなかで新派というジャンルがいかに生き延びる方途を摸索したかの一例として、『八つ墓村』を基盤とする表現の変奏と展開について考察する。

コロナ禍による自粛期間中、『八つ墓村』で里村典子を演じた鴫原桂が、事件から3年後に金田一耕助が八つ墓村に戻ってくる設定のスピンオフ作品『典子の八つ墓日記』を創案(齋藤雅文作・演出)。独り語りのオーディオドラマとして配信した。その後、齋藤が劇団内ユニット「新派の子」を立ち上げて特別公演(六行会ホール)を行った際、『典子の八つ墓日記』を基にした『八つ墓供養』(齋藤雅文作・演出)がその劈頭を飾った。

新派はコロナ禍のなかで「朗読」という方法を多く試みるが、2020年の初期段階における「声」の表象の一環であり、連続性をもった作品のアダプテーションでもある一連の『八つ墓村』物を通して、新派というジャンルの現在地を検討してみたい。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、髙山花子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年10月17日 発行