第17回大会報告

パネル4 音楽批評をまたぐ ──19世紀末から20世紀前半のドイツ・フランスにおける批評実践

報告:岡野 宏

日時:2023年7月9日(日)14:00-16:00
場所:東京大学駒場キャンパス・21KOMCEE East 2階 K213

  • 商品のアンチノミー──Th・W・アドルノ『新音楽の哲学』におけるK・マルクス的方策/相馬巧(東京大学大学院)
  • 『案内嬢の手紙』──ある演奏会時評の言語的戦略/伊藤靖浩(東京大学大学院)
  • 音楽批評タームとしての「新しさ」──循環音楽史観と本質主義的理念の照応/小島広之(東京大学大学院)

【コメンテイター】吉田寛(東京大学)online
【司会】小島広之(東京大学大学院)


本パネルでは、19世紀末から20世紀前半にわたる3人の音楽批評家の批評活動が3名の若手研究者によって取り上げられた。音楽のみならず、現在の批評の地位や役割にまで射程を持ちうるパネルとして、本報告者としても興味をもって参加した。以下、各報告の概要及び質疑の採録をしるす。

相馬巧氏による報告では、ドイツの哲学者・音楽批評家テーオドア・ヴィーゼングルント・アドルノ(1903-1969)『新音楽の哲学』の読解が試みられた。その骨子は、同書で提示されるシェーンベルクの作曲活動の展開が、マルクス『資本論』「商品」章における「価値形態」の分析と並行的であり、かつ「主人と奴隷の弁証法」の枠組みによって理解可能だというものである。価値形態論における、当初は他の商品と交換されることで偶然的に自らの価値を明らかにしていた商品が、より恒常的な仕方で他の商品と交換されるようになり、やがてあらゆる商品に対する「貨幣」となるが、そのことで他の商品に対する主人から奴隷の地位へ反転するという道行は、シェーンベルクにおける道行、表現主義を克服し、音楽の合理的な構造化をはたした十二音技法が、最終的に作品に奉仕することになる過程と重ねあわされる。そして相馬氏は、マルクスが自明化された資本主義を批判する契機を当初の偶然的な価値形態にみたように、アドルノが十二音作品のなかにアナーキーで偶然的な響きが回帰する事態を見出していたと述べる。この構造と響きの必然的なアンチノミーは「意味の暗号」として、なお哲学的に芸術作品を思考しようとするものに残された課題だとされた。

伊藤靖浩氏による報告では、フランスの作家・音楽批評家アンリ・ゴーティエ=ヴィラール(通称ウィリー、1859-1931)による演奏会批評「案内嬢の手紙」が題材にえらばれ、そのユニークな「言語的戦略」がテクストの豊富な引用とともに検討された。とくに伊藤氏が注目するのは、その「編集」的性格である。そもそもウィリーは自分自身で演奏会場に赴くわけではなく、代筆者を派遣し、かれらのメモをもとに文章を作成していたという。その意味で、かれは批評家という以上に編集者であった。加えてその文章もまた、音楽の専門知識やきまぐれな文体、洒落が混在したパズル的、奇術的なものであった。さらに伊藤氏はウィリーのワーグナー評価を検討することで、そこに単なる「ごたまぜ」とはことなる「総合」を志向する「編集の美学」が存在することを明らかにする。そのうえで氏は、ウィリーが多用する複数の語や概念を並置する「洒落」それじたいが編集的性格を持ち、既存の意味連関を解体しつつ新たに組織するという、政治的・美学的でときに危険な力をおびることを指摘する。さらに、ウィリーの演奏会批評の先駆としてマラルメの存在があげられた。

小島広之氏による報告では、ドイツの音楽批評家パウル・ベッカー(1882-1937)における「新しさ」の概念が問われた。小島氏は、かれが活躍した20世紀初頭においては、過去の音楽を研究対象とする音楽学と同時代の音楽を扱う音楽批評という住みわけが存在したことを示したうえで、ベッカーが同時代の音楽を評する際に用いた「新音楽」理念における「新しさ」の内実を検討した。その特徴として、過去の音楽との連続性を持つこと、現代感覚に即しつつ普遍性を持つこと、大衆迎合には堕さないものの分りやすさを持つことがあげられたが、これはベッカーの「新音楽」理念が過去の音楽の全面的転覆を志向してはいないことを示している。さらに、小島氏はこれらの特徴をもたらした要因として、「循環史観」の存在をあげる。ヴェルフリン『美術史の基礎概念』における二極の循環による様式史は同時代の音楽史記述にも影響を与えており、当時複数の音楽学者が独自の循環史観を構想していたが、ベッカーもまたこうした動向の影響を受けていた。そこでは音楽史はある「内的必然性」に基づいて推移するものであり、「新しさ」はそうした展開の必然的帰結として理解される。同時に小島氏は、現代ではベッカーにおいて実現されたムーブメントとしての批評は難しくなっているとした。

コメンテイターの吉田寛氏からは以下の質問がなされた。第一に、アドルノとベッカーの音楽史観や「新音楽」の持つわかりやすさに関する相違を相馬氏、小島氏双方に質問した。両氏ともに、両者には根本的な相違が存在するという見解であった。

次に、音楽作品の持つ歴史性・社会性などの「超感性的性格」を明らかにする営みとしての「批評」について、各氏の見解が問われた。相馬氏は貨幣としての三和音・十二音技法理解の例を引きつつ、アドルノにおいてはそうした「超感性的性格」を批判する契機が存在すると応答した。伊藤氏はウィリーにおける「洒落」が価値を解体/組織する機能を持つことに触れ、それは「貨幣」としての言葉を解体する試みであるとし、相馬氏の議論との関連を指摘した。小島氏は感性的な文脈の重要性に言及し、ベッカーは感性的なものと超感性的なものを接続する試みとして批評を捉えていたと応じた。

さらに吉田氏は、ジジェクを引きつつ現代の批評は3氏が扱ったモダニズムのそれとは異なるものになるのではないかと質問した。小島氏は、むしろ難解な批評が現代音楽を凋落から救い出す可能性を持つのではないかと応じた。伊藤氏は演奏会批評の観点から回答し、演奏会における音楽作品の配列や空間性の持つ可能性の探究に批評が資することができるのではないかと述べた。相馬氏は、アドルノのストラヴィンスキー論にはジジェクのいう現代的な批評の側面があることを指摘しつつ、自身の批評活動では音楽作品像の生成過程を歴史批判的に検討することを心がけているとした。

フロアからは以下のような質問が投げかけられた。最初の質問者は、伊藤氏に対して、ウィリーにおいては批評家と読者の間に共同体が形成されており、それは客観主義的な批評が好まれる現代では稀有なものではないかと指摘した。つづく質問者は、今回のパネルでは批評家と作曲家が別個の存在であるという前提があるのではないかとし、各氏の見解を問うた。

本パネルを通じて、あらためて批評が哲学的な、テクスト的な、あるいは運動的な営みであることが顕わになったのではないだろうか。あるいは、そのどれにもなりうることこそ批評の面白いところではないか、とも思われた。以上で報告を終わる。


パネル概要

批評の衰退が語られて久しい。音楽批評の領域もまた、断続的に続く音楽雑誌の休刊など環境的な要因も相まって冬の時代が続いている。しかし、単なる価値判断の役割に留まることなく、作曲・演奏・聴取の三項をまたぎ、ある特定の時代においてこれらがいかなる関係性にあるかを問うことこそ音楽批評の役割ではないか。それによって、初めて音楽芸術の状況分析は果たされると言えるだろう。にもかかわらず、従来の日本の言説においては「音楽批評とはいかなる行為であるか?」という根本的な問いが充分に議論されてこなかったのではないか。

本パネルでは、研究のみならず、演奏会時評・演奏実践の現場・同時代の作曲などに根差した批評活動も精力的に行う三人の研究者によって、それぞれの対象とする時代の視点から音楽批評の営為が多面的に検討される。まず相馬は、アドルノの『新音楽の哲学』にある批判の方法論を分析し、芸術と哲学の相互作用による新しい認識論の図式が提起されていることを示す。伊藤は、アンリ・ゴーティエ=ヴィラールの演奏会時評『案内嬢の手紙──音楽をめぐる旅』が当時の読者にもたらしていた輻輳的な言語空間を考察する。そして小島は、パウル・ベッカーが現代音楽論で用いた「新しさ」という言葉に着目し、その時代性と理論的な厚みを明らかにする。

西洋音楽が爛熟、変容した19世紀末から20世紀前半にかけての批評実践の分析を通じ、過去から現在へ、音楽批評の可能性をいま一度投影させる試みを行う。

商品のアンチノミー──Th・W・アドルノ『新音楽の哲学』におけるK・マルクス的方策/相馬巧(東京大学大学院)

芸術と哲学はいかにして互いに参与し合うのか。Th•W•アドルノの仕事の多くが、このふたつの領域を架橋する試みに向けられていた。それは彼の音楽論においても顕著であり、特に中期の『新音楽の哲学』は、シェーンベルクとストラヴィンスキーの作品を「批評」することによって芸術と哲学を架橋する可能性を探るものであった。本書に関する従来の研究では、アドルノがこのふたりの作曲家を批難するに至った経緯およびその妥当性、W・ベンヤミン、ベケットとの関係が分析・検討されている。しかしいずれも、ヘーゲル哲学への立脚を自明視する一方で、K・マルクスの『資本論』の提起する弁証法的方法への準拠が「序論」において明言される点にはほとんど注目がされていない。

本発表は、『新音楽の哲学』の「序論」および「シェーンベルクと進歩」の叙述が、マルクスの『資本論』第1巻の「商品」の章に基づくものであることを分析し、彼の批評の理論的な企図が、個別な芸術作品の哲学的認識への参与にあることを明らかにする。まず、「シェーンベルクと進歩」にて描かれた十二音技法による物象化の叙述が、アンチノミーを内包した商品形態を獲得する作品の歴史的過程であることを検証する。これによって、後期産業社会を認識する潜勢力としてのアンチノミーが哲学の認識論的な図式に条件づけられ、芸術と哲学の相互的な関係が示唆される。このことは哲学的な音楽批評の方法論を開示する。

『案内嬢の手紙』──ある演奏会時評の言語的戦略/伊藤靖浩(東京大学大学院)

いかにして批評は音楽を旅しうるのか。あるフランスの音楽批評家の実践をとおして、そのひとつの巡り方を示す。

世紀転換期のパリ社交界の中心人物、アンリ・ゴーティエ=ヴィラール(1859-1931, 通称ウィリー)は、音楽批評によって名声を博したひとでもある。1889年に連載がはじまった演奏会時評は「劇場の案内嬢(L’Ouvreuse)」という架空の人物をとおして語られるが、作品や演奏の批評のみならず、社交場としての客席側の描写にも力点を置き、地口、隠語、専門用語を織り交ぜた洒脱な語り口も相まって、広く耳目を惹いた。既存研究でも、批評とフィクションの境をまたぐテクストとして、後のドビュッシーの音楽批評やプルーストの批評的創作への影響が指摘されている。

当発表では、演奏会時評を集成した著作のタイトル『案内嬢の手紙――音楽をめぐる旅』に立ち返り、ウィリーの戦略をより包括的な観点から位置づける。ウィリーの妻で後に作家となるコレットの証言を導きの糸とし、「案内嬢」のテクストをいくつか具体的に取り上げて分析することで、時評というスペースに演奏会という多元空間が言語的に仮構され、符牒が複層的に流通し、誘引された読者が組織される道筋が浮き彫りになる。ここにおいて、当時の文学・批評的関心(とりわけマラルメを念頭に置いている)との接近が示唆されるだろう。

音楽批評タームとしての「新しさ」──循環音楽史観と本質主義的理念の照応/小島広之(東京大学大学院)

「新しさ」は芸術批評に欠かせない語である。だが、日常語に溶け込んだ「新しさ」という語の芸術批評における意味の多様性はしばしば見逃され、結果として芸術批評読解に蹉跌をきたすこともままある。「新しい」とは、単に年代的に新しいことや前代未聞であることを意味すると考えてはならない。批評を適切に読む(あるいは書く)ためには、「新しさ」という語が(ときに言外に)意味するものを、批評の外部にまで遡って検討する必要があるだろう。

本発表の主たる対象は、「新しさ」という語が殊に重要な役割を担うようになった第一次世界大戦直後のドイツ語圏の代表的な音楽批評家パウル・ベッカー(1882-1937)である。彼は、他ならぬ「新しい音楽(新音楽)」という理念を軸に据えて、戦後の同時代・近未来音楽について論じ、音楽的言説における「新しさ」の意義を彫琢した。

本発表では、はじめに、ベッカーが「新しさ」という語に期待したものを、当時の音楽生活との関係を踏まえながら明らかにする。次いで、彼の「新しさ」観が、美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』(1915)に影響を受けたクルト・ザックスら音楽史家たちの循環史観と関係していることを示す。最後に、(俗流)ヘーゲル主義的な歴史観のもとに「新しさ」を論じた19世紀末の音楽批評家との比較を通して、ベッカーが提示した「新しさ」に見られる本質主義的な歴史観を浮き彫りにする。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、髙山花子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年10月17日 発行