第14回大会報告

パネル9 音の境界

報告:城一裕

日時:2019年7月7日(日)16:00-18:00
場所:総合人間学部棟(1102)

・堀浩哉によるメディアを用いた1970年代の初期作品──演劇との関わりから/金子智太郎(東京藝術大学)
・オルタナティヴ・ミニマリズム──ジュリアス・イーストマンの音楽語法/高橋智子
・ネガティヴ・ミュージック──デーヴィッド・チュードアにおける沈黙の仮想性/極性/中井悠(京都市立芸術大学)
【コメンテーター】城一裕(九州大学)
【司会】金子智太郎(東京藝術大学)


音の境界、と題された本パネルは、人文学的知において、しばしば境界として位置づけられると共に、それ自体の実践の中においても各種の境界の存在が指摘される、音、を主題としたものであった。音を巡る活動に携わる作家の個別の作品の考察を通じて、芸術そして社会における様々な境界の再検討をおこなった。

金子智太郎による発表「堀浩哉によるメディアを用いた1970年代の初期作品──演劇との関わりから」は、「美術家共闘会議」(通称美共闘)での美術制度批判や、70年代末からの絵画作品で知られる美術家、堀浩哉、の1970年代半ばのACT展 」、「調書」、「MEMORY-PRACTICE」という活動を、A.演劇とのつながり,B. メデイアに対する意識、C.社会とシステムとの対峙、という3つの観点から考察するものであった.金子自身が手がけた「日本美術サウンドアーカイヴ」での堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》(1977)の再展示(2018)を踏まえたその考察においては、A.演劇とのつながりとして、劇団「演劇団」の座付作家として演劇と美術との安易な融合を拒絶し、両者をあくまでも異なる活動と位置づける作家の姿勢が示された。また、B.メデイアに対する意識では、記録に対する懐疑的な態度に端を発した写真に対する批評としての、残りにくい表現としての「パフォーマンス」における、テープ・レコーダーやヴィデオという既存メディアの操作という視点、が指摘された。最後に、C.社会とシステムとの対峙では、モノから時間への移行という当時の消費社会論を踏まえた、システムとその外という二項対立への批判的な姿勢が確認された。

高橋智子による「オルタナティヴ・ミニマリズム──ジュリアス・イーストマンの音楽語法」は、近年「知られざるミニマリスト作曲家」として再発見され、演奏会や録音で取りあげられる機会が増えている、ジュリアス・イーストマンの楽曲《Evil Nigger》(1979)を題材に、ミニマル音楽の文脈を再検討するものであった。ブラック・アメリカンのゲイ男性という、作曲家の出自と属性の問題に終始するのではなく、あくまでもその譜面に基づく詳細な楽曲分析を通じて、彼の音楽の特性を考察しようとする本発表では、L.M.ヤング、T.ライリー、S.ライヒ、P.グラスという4人の巨匠の物語としてのミニマル音楽の不完全性、ポスト・ミニマル、ホーリー・ミニマリズム、ポスト・ポスト・ミニマル、という従来の(境界を作り続ける)ミニマル音楽史の記述からのイーストマンの音楽の漏れが指摘された。また、自筆の楽譜に基づく楽曲の分析では、冒頭のモティーフを始めとした各所における音符の記譜の簡略化が確認されると共に、特にその反復技法における音型のぶつかり合いによる強烈な音響効果の存在が指摘された。

中井悠による「ネガティヴ・ミュージック──デーヴィッド・チュードアにおける沈黙の仮想性/極性」では、1950年代のピアニスト、1960年代からのエレクトロニクスを用いた作曲、という音楽活動で知られる作曲家・演奏家のチュードアの、知られざる作品《Fragments》(1984)を取り上げ、この作品と彼の代表作の一つとも言える《Pulsers》(1976-78)との思いもよらぬ関係を、唯一残されたテープ、講演の断片、楽器の配線図、といった一次資料から明らかにするものであった。この発表の中では、チュードアの所有していた、通常ノイズ(雑音)を排除するために用いられる機材であるノイズゲートに着目し、その特定の機種の持つ出力を反転する機能を用いて、過去の自作からノイズとして排除された音を逆に拾い出すことによって、当該作品が作り出された、ということが,両作品の周波数的な特徴を可視化するスペクトログラムの提示により、鮮やかに描き出された。

芸術工学部という組織において、音響学を出自として作品制作に基づく研究に携わる筆者・コメンテータの城にとって、本パネルの提示した音と境界という視座はおよそ他人事ではなく、各発表で取扱われた作家それぞれの活動、なかでもテープレコーダーや、譜面、ノイズゲート、といった各種のメディアの特質から解きほぐされる各作品の意図、ならびに、既存の研究領域により見落とされている、美術と音、人種やセクシュアリティと楽曲分析、音楽と音響、という境界の存在とその問い直しを、当事者の一人として確認できたことは収穫であった。

質疑応答においては、あえて境界を問い直そうとする各々の意図について発表者に尋ね、金子からは、美術における音は(音がその内部にとどまっている)音楽よりも、文化としての音を考えやすい、高橋からは、楽譜(作者の意図)と音響(実際の響き)との差異は楽曲分析を通じてしかわからない、中井からは、現代美術のマーケットに回収されない手法として技術的な分析は有効、との答えを得た。時間が許せば、さらなる問として、会場を含め、音と境界とを巡る議論を進めたいところであったが(その中には、欧米圏の作家についてなぜ日本語で話すのか、という問いも含まれるであろう)、それは今後更に脚光があたっていく(と期待する)音の境界に関わる実践の検討を通じて、明らかにしていきたい。

城一裕(九州大学)


パネル概要

前衛以後の現代芸術史を再検討しようとする近年の研究には、これまでマージナルなものとされてきた実践に光をあて、そうした実践が芸術における境界を問い直そうとしてきたことに対する関心を共有するものが少なくない──そうした境界の問題は音をめぐる議論においては特に頻出する。音はしばしば、人文学的知のシステムの境界に位置づけられたが、近年の学際的研究によってその見直しや音における境界を問う議論が進められてきている。こうした動向は当然、同時代の社会におけるさまざまな境界の再検討もしくは強化とも連動しているだろう。本パネルが扱うのは、境界を越えて普遍を目指した前衛運動の後に、またポストモダニズムにおけるフラットな多様性とは別のかたちで、境界の問題に取り組んできた作家たちの音をめぐる議論である。
金子智太郎は日本の美術家堀浩哉が1970年代に発表したメディアを用いた作品を、演劇との関わりをふまえて考察する。高橋智子はアメリカの作曲家ジュリアス・イーストマンの音楽語法をミニマル音楽の視点から検討する。中井悠はアメリカの音楽家デーヴィッド・チュードアの音楽における、ケージ的な「沈黙」と電子技術の特性の交差を分析する。とりあげられる作家たちはその知名度や現在の注目度に比べて、これまでふさわしい議論の枠組が構築されてこなかったために十分な考察がなされてこなかったと言えよう。こうした事情はこの作家たちが境界をめぐる問題と深く関わっていたことにも起因するはずだ。

堀浩哉によるメディアを用いた1970年代の初期作品──演劇との関わりから/金子智太郎(東京藝術大学)
1947年生まれの美術家、堀浩哉は1960年代末に多摩美術大学の学生運動に参加し、「美術家共闘会議」(通称美共闘)議長を務めた。美共闘解散後も彦坂尚嘉、山中信夫らとともに美術家集団「美共闘REVOLUTION委員会」を結成し、個人の制作と並行して展覧会の開催や機関誌の出版などを行った。こうした堀の初期の活動をめぐる議論はこれまで、美共闘として美術制度を批判する実践の考察と、1970年代末に本格化する絵画作品の考察が中心だった。それに対して、彼が1970年代半ばに取り組んだ、現在から見れば「パフォーマンス」と呼ぶこともできる、テープ・レコーダーやヴィデオを使用した作品についてはいまだ十分な議論がなされていない。これらの作品においては特に声の録音が重要な役割を果たしており、日本の戦後美術と音の関わりという文脈においても注目すべき実践である。
本発表はこのような堀の1970年代の作品について、写真、録音、映像記録にもとづいて詳細を明らかにし、また当時の彼の言説にもとづいて解釈を試みる。堀はこの時期、美共闘として制度批判に取りくみながら、色彩や直線といった基本的造形要素を再検討する作品を制作し、また先に述べたメディアを用いた作品を発表した。さらに堀は68年に自ら主宰する劇団をつくって演劇活動を始め、70年代には劇団「演劇団」の座付作家として脚本を執筆していた。パフォーマンスのかたちをとる彼の作品には演劇の要素も多分に認められる。そこで、本発表は堀の1970年代のメディアを用いた初期作品を主に彼の演劇における活動との関わりから考察したい。

オルタナティヴ・ミニマリズム──ジュリアス・イーストマンの音楽語法/高橋智子
ジュリアス・イーストマンJulius Eastman(1940-90)はニューヨークとバッファローを拠点とした作曲家、歌手である。近年、彼は「知られざるミニマリスト作曲家」として再発見され、彼の楽曲が演奏会や録音で取りあげられる機会も増えている。学術的な文脈とジャーナリズムの文脈双方において、L. M. ヤング、T. ライリー、S. ライヒ、P. グラスの4人がミニマル音楽の第一世代と見なされてきた。1980年代以降、より明確に調性を打ち出したD. ラングの楽曲をはじめとして、4人の様式から派生した様々なタイプのミニマル音楽がポスト・ミニマル音楽と呼ばれるようになった。ポスト・ミニマル音楽も含めた、アカデミックな背景を持つ一連の作曲家たちによるミニマル音楽を主流(メインストリーム)とするならば、《Evil Nigger》(1979)などのタイトルが付されたイーストマンの音楽は、もうひとつの、つまりオルタナティヴなミニマル音楽の一形態と見なすことができるだろう。イーストマンが従来のミニマル音楽史記述から漏れてしまっていた理由として、彼がブラック・アメリカンのゲイ男性であることが考えられる。先行研究ではこの2つの事柄、つまり人種とセクシュアリティに焦点を当てた議論が数多くなされているが、イーストマンの音楽をアメリカ実験音楽およびミニマル音楽の文脈に位置付ける作業が十分に進んでいるとは言えない状況である。本発表は作曲家の出自と属性の問題に終始するのではなく、主に反復技法をとりあげて彼の音楽に見られるミニマル音楽の特性を考察、解明する。

ネガティヴ・ミュージック──デーヴィッド・チュードアにおける沈黙の仮想性/極性/中井悠(京都市立芸術大学)
1980年代にデーヴィッド・チュードアが手がけた音楽は、この謎多き音楽家のアウトプットのなかでもとりわけ謎めいていることで知られている。そこにはピアニスト期における作曲家たちとの連携という論じやすい文脈も、自作を発表しはじめた頃に作られたRainforestのような分かりやすい原理も、自作楽器をフィードバック状に組み合わせ半自動的に音を産出するToneburstのような強度に満ちた音響もない。代わりにあるのは、市販のエフェクターを用いて音源を変調するというありきたりの方法論と、そうして生み出された、つかみどころのない作品群である。とりわけ1984年にマース・カニングハムのダンス用に作られたFragmentsは、制作を手伝ったサウンド・エンジニアですらその実態をまったく思い出せないほど存在感のない作品であり、残された録音から聞こえてくるのもパルス音に基づく貧弱な音風景である。この発表ではまずチュードアのメモや音源、楽器の回路レベルでの分析からFragmentsの特異な作動原理を解析し、その貧しさが意図されたものであったことを明らかにする。その分析を起点に、この時期のチュードアがいわば公衆の面前で密かに取り組んでいた音楽を(a)ケージ的な「沈黙」の仮想性(virtuality)と電子回路における極性(polarity)の交差から生み出されたものとして読み解き、(b)それをチュードア経由で英語圏にもたらされた「ヴァーチャル・リアリティ」というアントナン・アルトーの概念と絡めた上で、(c)1990年にチュードアが再びカニングハムの(Polarityと題された)ダンス用に作ったVirtual Focusという音楽の作動方式を分析する。全体を通じて目指されるのは、これらの音楽にまとわり続ける「謎めいた」見かけ自体の解読である。

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行