第14回大会報告

パネル1 「現代」映画におけるメディウムの横断/混交 ──文学・演劇とのかかわりから

報告:原田麻衣

日時:2019年7月7日(日)10:00-12:00
場所:総合人間学部棟(1B05)

映画空間における発話──オーソン・ウェルズ『マクベス』における演劇のアダプテーション再考/三浦翔(批評/映画監督)
・ストローブ=ユイレ『アンティゴネー』における演劇性について/行田洋斗(京都大学/日本学術振興会)
・トリュフォーの創造行為にみる言葉と映像/原田麻衣(京都大学)
【コメンテーター】中村秀之(立教大学)
【司会】原田麻衣(京都大学)


現代映画を多様なメディウムの織物として捉え、アダプテーションという視座からそれぞれオーソン・ウェルズ、ストローブユイレ、フランソワ・トリュフォーの作品を考察し、映画における言語の問題にアプローチすること。それが本パネルの試みであった。

まず三浦翔氏の発表では、オーソン・ウェルズ『マクベス』(1948)における台詞の分析を通して、映画における発話と空間の問題が検討された。なぜ発話と空間か。それはアンドレ・バザンの論考「演劇と映画」に端を発する。演劇からアダプテーションされた映画を議論の中心に据えたこの文章のなかで、バザンは、台詞で表現されていることを映像で表現しようとする一般的な演劇映画に対し、ある種の不自然さを抱えたまま、台詞が人工的な背景の前で発話される演劇映画を擁護した。バザンによれば、演劇の台詞は演劇的な空間でしか機能しないからである。その点においてもちろんウェルズの『マクベス』も評価された。しかし三浦氏が指摘したのは、この作品において、ただ人工的な背景という演劇的空間により台詞が尊重されているだけでなく、発話システムのアダプテーションにより、演劇というメディウムがもつ空間的・心理学的な仕組みが映画のうちに取り込まれていることである。映画『マクベス』において夢遊病にかかっているマクベス夫人が真相を独白するとき、キャメラはまず夫人を単独で捉え、その後徐々に後退して、実はその場に居あわせていた目撃者を「奥行きのあるショット」に示す。このときマクベス夫人の台詞は観客に向けられた演劇的傍白として機能し、それゆえ観客は登場人物に同一化するのではなく、上演空間において生じうる心理学的距離をもってテクストと対峙することになると三浦氏は結論付けた。

続く行田洋斗氏は、ストローブユイレ『アンティゴネー』(1992)が含みもつテクストの多層性を、演劇との関係性から論じた。『ソポクレスの《アンティゴネー》のヘルダーリンの翻訳のブレヒトによる舞台のための改訂版1948年』という正式タイトルをもつ作品は、字義通りヘルダーリン訳『アンティゴネー』のブレヒトによる翻案の翻案である。行田氏はこうしたテクストの変遷が、映画『アンティゴネー』の空間設計に反映されていると指摘した。ストローブユイレは本作を手掛ける前に、ドイツの劇団シャウビューネの『アンティゴネー』の演出を、その映画化を条件に引き受けた。そしてさらに舞台演出をする以前に、映画の撮影地となったシチリア島の古代円形劇場「セジェスタ」を発見していたという。その複数の「場所」が、ギリシア悲劇の古代円形劇場の形式とプロセニアム舞台における視点として映画版のうちに取り込まれていると述べられた。そして重要なのが、これまで「異化作用」という概念に回収されてきた本作における特徴的な演出──例えば、固定キャメラの使用や俳優の場所や身振りの限定、長回しによる無人の場所の撮影──がそのような「場所」の多層性を可能にしていることである。ではなぜここまで「場所」にこだわる必要があったのか。ここでまた、バザンによる「演劇と映画」が引かれ、台詞が発話される場所の重要性が指摘された。ストローブユイレが原作としたのは、先述の通り、ギリシア悲劇の翻訳のブレヒトによる翻案である。つまり、テクスト=台詞自体が古代と現代に分裂し、二重化しているため、それを翻案する場合、台詞が話される場所も同様に二重化する必要があった。本発表で示されたのは、先行研究で指摘されてきた「リテラルな翻訳」とはまた別の、「多層的なテクストのラジカルな翻訳」というストローブユイレの実践であった。

最後に原田の発表は、フランソワ・トリュフォーの「ドワネル」シリーズにかんする脚本資料の生成過程を追うことで、トリュフォーにおける書くことと撮ることあるいは言葉と映像の関係性を探ろうとしたものであった。本シリーズの脚本としては、4作目『家庭』の撮影後に出版された脚本集『アントワーヌ・ドワネルの冒険』が参照されてきたが、それは撮影後に改めて書かれたもので、撮影前の脚本とは例えば「視点」の記述に違いが認められた。なかでも特筆すべきは、撮影前の脚本最終形態として存在しているデクパージュにあって脚本決定版では意識的に削除された、「私たち[nous]」の語である。この「私たち[nous]」は「観客」の存在を意識した結果だと考えられる。というのも、それは本シリーズにおける擬似視点ショットの使用や打ち明け話の不在といったトリュフォー的手法──それにより観客を登場人物に同一化させるのではなく、観客自身の場所を与える──と合わせて、トリュフォー作品に通底する観客の問題として捉えられるからである。では「私たちnous」の語が決定版で削除されているのはなぜか。その点については、映画と書かれたテクストへのトリュフォーの認識の差異から説明した。トリュフォーは、映画の観客が上映中スクリーンを見るしかないのに対し、小説など書かれたテクストの読者は「読み飛ばす」ことができると考えていた。したがって、映像の形式に向かうデクパージュにおいては「私たち[nous]」の語が使用され、読者を対象とした書かれたテクスト=脚本決定版においてはその語を採用しなかったと考察した。書くことと撮ることを通して構築されたトリュフォーの映画資料からは、観客を巻き込むメディウムとしての映画に対するトリュフォーの美学が垣間見られた。

コメンテーターの中村秀之氏からは、各発表に対して以下の問いが投げかけられた。まず三浦発表に対しては、ウェルズに特有の「奥行きの画面」について、そこで必ずしも観客が能動的であるとは限らない──能動的になるかどうかは観客の自由である──こと、マクベスのヴォイス・オーヴァーがドミナントなものとして存在するこの作品において、夢遊病のシーンのキャメラはマクベスともとれるのではないか、といった指摘がなされた。それに対して三浦氏は、ウェルズの余白の使い方にどのような美学的可能性があるのかを追究することでこの議論を深めたいと応じた。また、フロアからは「独白」という言葉を採用した意図や、演劇と映画、対峙と同一性という二項対立の正当性が問われた。三浦発表に限らず本パネルの全員に当てはまることだが、言葉の使用や引いてきたテクストの文脈はもう少し検討がなされるべきだった。フロアから立て続けに補足がなされたように、今回パネルの裏テーマとしてあったアンドレ・バザンのテクストは、演劇一般、映画一般の話ではなくコンテクストに根ざした議論であるため、理論を歴史的に整理し議論する必要があっただろう。

行田発表については、『アンティゴネー』における多層的空間は明らかだとして、しかしプロセニウム劇場の形式を取り入れたことが作品において果たしてどれだけの厚みをもたらしているのか、という点が問われた。それに対して行田氏は、今回の発表は「リテラルな映像」という通説を発展させる試みであり、例えば本作においてキャメラがあの一点に固定されていることをどのように説明するか、という観点からプロセニウム劇場の形式に着目したと述べた。それに関連してフロアからも、円形劇場に「暗転」というプロセニウム劇場の特徴を取り入れることは、円形劇場の特性を弱めていると考えられるのではないか、という指摘があり、それについては、円形劇場の幕間、プロセニウム劇場の暗転、映画のオフ・フレームがイコール関係で結ばれるとストローブユイレが解釈したことに面白さを見出せるのではないかと返答がなされた。

原田発表については、映画制作過程における集団性をどう考えるか、フランス映画業界における一般的なデクパージュはどのようなものか、「私たち[nous]」を「観客」と捉えることにどこまでの正当性があるのか、といった点が問われた。それらに対しては、内容にかんしては確かに集団性が重視されるべきだが、形式や文体にかんしてはトリュフォーに決定権があったがゆえに、本発表ではトリュフォーの創造行為として考察した、一般的なデクパージュの問題とデクパージュにおける視点の問題はどちらも一次資料の調査・分析が必要であるため、今後の課題としたい、との応答となった。加えてフロアからは「私たち[nous]」の語は撮影スタッフを指すのではないか、観客を巻き込むという性質は「劇場」に備わるものではないのか、との指摘がなされた。

上の記述からもわかるように、当日は大変活発な質疑応答がなされた。どの発表も依然として多くの課題を抱えてはいるが、いわゆる古典的ハリウッド映画に対するオルタナティヴな映画を制作したと認識されているそれぞれの作家が、文学や演劇から強い影響を受けつつどのように映画というメディウムに向き合ったか、また、その認識がどのようなスタイルとして結実したか、という議論はやはり発展の可能性を秘めているのではないだろうか。

原田麻衣(京都大学)


パネル概要

映画固有の性質とは何か。このような問いは偽の問題(ベルクソン)として批判されるかもしれない。実際に、近年の映画理論/研究を振り返ってみると、映画の固有性を探求する方向とは反対に、他のメディアや芸術との混交的な発展を歴史的に実証する研究や、映画スクリーン内部における他のメディアの役割の重要性を指摘するような研究が旺盛であることは間違いない。
本パネルもまた、このような研究動向と関心を共にしている。一方ここで参照したいのは、アンドレ・バザンによるアダプテーション論である。バザンは、早い時期からアダプテーションを擁護し、「現代映画(シネマ・モデルヌ)」の美学的な不純性を肯定的に捉えることを提唱していた。まさしく彼の時代やそれ以後は、他の芸術が映画の可能性を再発明するような時代だったともいえるだろう。3つの発表で取り上げるオーソン・ウェルズ、ストローブ=ユイレ、フランソワ・トリュフォーはそのような時代に活躍し、とりわけ文学や演劇からの影響が強かった作家たちである。
しかしながら、映画におけるアダプテーション研究では原作と映像の比較考察を通した内容の翻訳=翻案が議論の中心となり、美学的実践に伴うメディウムや形式の問いに向かうことは少なかった。本パネルが目指すのは、「現代映画」として映画が再び文学や演劇と接した境界に光を当てることで、メディウムの横断/混交する様相を浮かび上がらせることである。

映画空間における発話──オーソン・ウェルズ『マクベス』における演劇のアダプテーション再考/三浦翔(批評/映画監督)
オーソン・ウェルズは、幾つものシェイクスピア戯曲を映画にアダプテーションしている。とりわけ『マクベス』(1948)はシンプルな空間構成を持ち、言葉の芸術である演劇の台詞を如何に映画の中で発話させるかという点で際立った特徴を示している。ウェルズの逸早い擁護者でもあったアンドレ・バザンは「映画と演劇」(1951)のなかで、『マクベス』やローレンス・オリヴィエの『ヘンリー5世』(1944)などを引き合いに出しながら、演劇から映画へのアダプテーションの問題を美学的に考察している。バザンの議論は、かつてウェルズに見出した空間の奥行きとリアリズムの問題から離れて、映画の空間と発話の問題に踏み込んでいるが、その考察において具体的なシーンの分析には至れていない。しかしながら、バザンの映画観の中で「演劇と映画」で示される図式がどのような位置付けを持っているかを検討することで、この論考の持っている射程を推し量りながら作品の分析を遂行することは出来るだろう。本発表ではそのようにしてバザンの議論を引き継ぎ、ウェルズがシェイクスピアの台詞をどのように映画化させているのかを『マクベス』の作品分析を通して検討することを目的とする。とりわけ分析的な編集と短いダイアログによって成立する古典映画に対して、傍白を含む長い台詞が発話される『マクベス』の美学的側面が考察の中心となる。

ストローブ=ユイレ『アンティゴネー』における演劇性について/行田洋斗(京都大学/日本学術振興会)
本発表ではフランスの映画作家であるストローブ=ユイレの『アンティゴネー』(1992)を取り上げる。本作は、ブレヒト版『アンティゴネー』の翻案であり、シチリアにある古代円形劇場を舞台に、演劇的な手法をもって撮影されている。
1970年代にブレヒト派映画(Brechtian cinema)の代表的な作家として評価され、その名声を確立したストローブ=ユイレは、たびたびブレヒトの「異化」の概念とともに論じられてきた。数ある『アンティゴネー』のテクストのなかで、ブレヒトの戯曲を選び、その翻案を行なっている本作も、ブレヒト派映画の擁護者である政治的モダニストたちが見出した「異化作用」が散見される。
しかしながら、かつて実際に使用されていた古代円形劇場で撮影し、ギリシャ悲劇の形式を忠実に模倣した本作は、これまで論じられてきた単純な「異化」に収まることはなく、その概念の多義性を露呈させる。また、一見すると「撮影された演劇」(バザン)にしか見えない本作は、ストローブ=ユイレによる独特な演出や編集によって、これまでの演劇映画とは異なる新たな一面を模索している。以上の点から、本作を分析することによって映画と演劇間の翻案=翻訳の問題、そして映画とブレヒトの理論の関係性を再考する契機としたい。

トリュフォーの創造行為にみる言葉と映像/原田麻衣(京都大学)
フランソワ・トリュフォーによる「フランス映画のある種の傾向」(1954)は、脚本に対する演出優位の映画観を形成する一つの契機となった。その後ミシェル・シオンやパスカル・ボニゼールによって脚本の意義は再考されていくが、「潜在的な映画についての言葉によるアウトライン」(ボニゼール1990)としての脚本は、エクリチュールとしての演出とは違いオリジナリティに欠けるものとして認識されてきた。
こうした背景から、トリュフォー研究においても脚本それ自体の価値は看過されてきたが、トリュフォーの脚本資料は少なくとも二つの点で特徴的だといえる。まず、物語は一度小説のように書かれ、次いでデクパージュが決まる。脚本の改稿は映画の撮影後も続き、最終的に「決定版」が脚本資料に組み込まれる。つまり、脚本はいわば一つの作品として存在しており、それは一つのメディウムなのである。また、一般的に脚本執筆過程の序盤で構想されるダイアログは、デクパージュの完成後に暫定的に書かれるか、撮影中に作られる。ここで留意すべきは、アンドレ・バザンが指摘したように、「書かれた言葉」であるダイアログが演劇性をもつことである。したがってそれをトリュフォーが積極的に書こうとしなかった点は興味深い。脚本を一つのメディウムとして捉え、「文学作品から映画への翻案」とは違う観点からトリュフォーにおける「書かれた言葉」と映像の関係性を探ることが本発表の目的である。


広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行