第14回大会報告

パネル7 映像と怪奇のゆくえ

報告:行田洋斗

日時:2019年7月7日(日)16:00-18:00
場所:総合人間学部棟(1B05)

・中田秀夫の映像作品におけるナルシシズム/宮本法明(京都大学)
・『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』をめぐる日中比較的化け猫考/胡言(京都大学)
・ホラー映画の認知主義的分析──ジェームズ・ワン監督作品における恐怖の詩学/西川秀伸(立命館大学)
【コメンテーター】増田展大(立命館大学)
【司会】福田安佐子(国際ファッション専門職大学)


「映像と怪奇のゆくえ」と題された本パネルでは、三人の発表者が日本、東アジア、アメリカの映像表現における「怪奇」の表象をとりあげ、それぞれの問題関心からそれらを論じた。

まず、最初の発表者である宮本法明氏は、中田秀夫の『リング』と「霊ビデオ」におけるナルシシズムの主題を分析し、ロザリンド・クラウスの様々な議論を援用しながら、そこでナルシシズムの克服とポスト・メディウム的状況への抵抗が見られることを明らかにした。クラウスによれば、ビデオは「自己を眼差す」という再帰構造(=ナルシシズム)をそのメディウムの特性としている。宮本氏は中田秀夫の作品のなかに「指をさす」という直示としてのインデックス性が反復して現れることを見て取り、それが中田秀夫作品の主要なモチーフであるビデオと密接に関わっていること指摘した。ただし、そこでは指差しやビデオが単にナルシシズムと結びつけられるだけでなく、それを打ち破る契機がある。『リング』においてそれはテレビ画面──この作品の中でたびたび鏡として機能する──を通してビデオから脱出する貞子であり、「霊ビデオ」においてそれはビデオ映像の中から語りかける登場人物の仁美である。とくに今回の発表で重要なのは後者であった。というのもそのシーンでは、再生されたはずの録画ビデオの映像がライブ中継のように、今まさに起こっているものとしてテレビ画面にうつるからである。宮本氏は、ここでビデオが持つメディウムの歴史を遡行することによって、時代遅れになったテレビのアクチュアリティが救い出されていることを見出し、「霊ビデオ」がポスト・メディウム的状況に抵抗していることを示した。

続いての発表者の胡言氏は、チャン・カイコー監督による日中共同製作の映画『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』(以下『空海』)における化け猫の表象を、日本と中国の文化的差異から検討し、そこで見られる男性アイデンティティーの横断性を考察した。男性道師の術によって自らを化け猫化させ、楊貴妃の死の復讐を行う『空海』において重要となるのが、その化け猫化する主体の性である。なぜなら女性が変身する日本の化け猫映画とは異なり、中国の古典文献に依拠する本作では男性が化け猫化し、(ホラー映画ではおきまりのパターンである)「女性=怪奇的な存在」という図式を崩しているからである。さらに胡言氏は、化け猫化した男性が通常の化け猫映画とは異なり、人間の意識を残していることに注目し、そこに男性と化け猫の身体という複合的な主体が見られることを明らかした。また、そのような主体が眼球をうばう能力を持っていることから、男性の視覚的権力を脅かす「不気味なもの」であることも指摘したうえで、それが楊貴妃のゾンビ化=不気味なもの化とパラレルの関係にあることを提示した。

最後の発表者である西川秀伸氏は、ジェームズ・ワンの映画作品に頻繁に見られる「驚愕」(startle)シーンの分析を通して、ホラー映画が観客に与える情動的効果を認知主義的観点から考察した。ここでの「驚愕」シーンとは、観客になにかしら不安感を与えた後に、突如として映画のフレーム内に何者かが入り込んで観客を驚かせることである。西川氏はワン監督の「驚愕」シーンを検討するためにロバート・ベアードの「驚愕」の公式と、それを発展させたジュリアン・ハニヒの「驚愕」論という二つの分析ツールを導入した。ベアードの「驚愕」の公式に従えば、映画における「驚愕」シーンは、①登場人物が存在すること、②暗示されたオフスクリーンの脅威があること、③登場人物の身の回りの空間に不穏な侵入が入ること、以上の三点によって成立している。つまり、登場人物に危険を及ぼす存在をスクリーンの外に追いやり、観客に見せないがゆえに「驚愕」が効果的に機能する。この議論を発展させたハニヒは、フレームの外だけでなく、フレーム内の「計画された注意誘導」によっても「驚愕」の効果を強化することができると論じた。例えばこれはワン監督の『インシディアス』において会話シーンの後に、怪奇的な存在が現れることがその一例である。観客の注意が会話に誘導された後に怪奇現象が起こるがゆえに、その「驚愕」が効果的になる。さらに西川氏は、このシーンでフラッシュバックや空間の余白、音響効果が注意誘導にうまく使用されていることに注目し、ワン監督の「驚愕」の独自性を明らかにした。

コメントにおいては、複数の理論を横断するナルシシズムという概念の一貫性(宮本)、物語とスペクタクルの関係の現代性(胡)、認知主義的アプローチの限界(西川)などが問われた。また会場に開かれた質疑応答では、直示としての「指差し」がインデックス性だけでなく、実際に霊を呼び出してしまうパフォーマティヴな機能をもつ可能性、あるいは北米の理論に基づく認知主義的な「驚愕」の瞬間以前に、「不安」などの大陸哲学的な解釈可能性がみられることが指摘された。

行田洋斗(京都大学)


パネル概要

19世紀に誕生した映像メディアが、怪奇・恐怖・幽霊といったテーマと密接な関わりをもつことは繰り返し語られてきた。しかし、これらの言葉を外国語に翻訳するとなると困難な問題が生じる。恐怖はhorrorなのかterrorなのか。幽霊はghostかspiritかphantomか。そもそも西欧由来の概念によって他地域の文化を理解することは妥当なのか。他方で、ある地域の芸術作品をその地の歴史や文化に即して理解しようとする試みが、文化本質論やオリエンタリズムだという批判を受けることもある。
本パネルでは、映像メディアに「憑き」まとうこのような問題をより具体的に検討することを目的として「怪奇weirdness」に焦点を当てる。なぜなら、怪奇という言葉はホラー・ゴシック・ファンタジー・志怪といった特定の文脈に根差したものを横断的に捉えることができるからだ。三名の発表は、それぞれ日本・東アジア・アメリカの文脈に力点を置いている。宮本は、Jホラーを代表する中田秀夫監督の作品を、美術批評家ロザリンド・E・クラウスの理論によって分析する。胡は、『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』(チェン・カイコー監督、2017年)における化け猫の表象を比較文化の観点から論じる。西川は、分析美学者ノエル・キャロル以降の認知主義的ホラー映画論を通して、ジェームズ・ワン監督の作品における恐怖の身体性を浮かび上がらせる。これらの様々な文脈が交差することで、映像メディアと怪奇的なものの関わりを新しい視点から捉え直すことが可能になるだろう。

中田秀夫の映像作品におけるナルシシズム/宮本法明(京都大学)
中田秀夫は映画『リング』(1998年)の監督であり、Jホラーなる映像文化を世に広く知らしめた立役者である。Jホラーとは、一般に1990年代から2000年代にかけて流行した日本のホラー映画を指す。その作品が日本の怪談映画やアメリカのホラー映画から複合的に影響を受けた「怪奇」の表現であることは以前から語られてきた。しかし、本発表では中田の作品が題材や表現のレベルだけではなく、アメリカのメディア言説と文化横断的に深く呼応し合っていることを明らかにしたい。例えば『リング』で貞子の呪いがヴィデオ・テープを介して伝播し、彼女がTVの画面からぬっと這い出して来る場面に象徴される通り、Jホラーはヴィデオというメディウムの性質やその鑑賞体験に潜む恐怖を、映画に対して積極的に取り込んだ。
ヴィデオというメディウムに関する議論は、アメリカの美術批評家ロザリンド・E・クラウスの強い影響下にある。彼女は、自らが創刊した雑誌『オクトーバー』の第1号に「ヴィデオナルシシズムの美学」という論文を寄稿した。クラウスは、この論文で1970年代のヴィデオ・アート作品にナルシシズムという重要な主題を見出し、それをヴィデオというメディウム一般の特質だと規定した。ナルシシズムの主題は、中田秀夫作品の中でも重要な位置を占めている。特に『リング』や、そのパイロット版のような短編作品「霊ビデオ」(TVドラマ『学校の怪談f』の一部、1997年)では、ナルシシズムの主題がヴィデオというメディウムと密接に結びつきながら展開される。本発表では、それらがロザリンド・クラウスのヴィデオ・アート論やポスト・メディウム言説といかに交差しているかを明らかにする。

『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』をめぐる日中比較的化け猫考/胡言(京都大学)
2018年日本で公開された『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』(原題『妖猫伝』、以下『空海』)は近年まれな日中共同製作のブロックバスターとして、原作者夢枕獏と監督チェン・カイコーを始め、日中映画人の豪華な組み合わせで注目を浴びた。映画は唐の長安を舞台に、空海と白楽天が化け猫騒ぎに巻き込まれる。やがて化け猫は前代の楊貴妃の死の真相と関係することが明らかになる。その正体は楊貴妃の側近を務める道士の幻術によるものだった。
本発表はまず日中比較の視点を取り、『空海』を形作る両国の化け猫の伝統を古典文献から映画化の実践まで辿る。本作の化け猫イメージには中国古典文献からの影響が見られ、作品全体の物語構造及び慣例的表現には日本の化け猫映画からの越境的継承と変容が認められる。また、本作にはジェンダー論の観点からも興味深い側面がある。つまり、脱身体化された男性の化け猫が術で女性に憑依することによって、女性の身体に関わる従来のジェンダー秩序を逆転させ、その化け猫と空海・白楽天の背後に作動する権力構造を暴きだす。さらに本作では唐という遥か昔の時空で多民族が混交するなか、唐文化の優位性が構築され、化け猫を糸口に楊貴妃の逸話が挿入される。そして、楊貴妃にまつわる歴史記述、白楽天の叙事詩、夢枕獏の原作が重なりあう「想像的唐」は、CG映像によって複層的なフィクションとして再構成されることになる。本発表では、このような文化的ハイブリディティと唐のナショナリズムの間に揺れ動く化け猫の表象を分析する。

ホラー映画の認知主義的分析──ジェームズ・ワン監督作品における恐怖の詩学/西川秀伸(立命館大学)
本発表は、『インシディアス』(2010年)以後のジェームズ・ワン監督作品における、恐怖を生み出すメカニズムを認知主義的視点から分析する。ワン監督は2004年に『ソウ』(2004年)で長編デビューを果たし、「トーチャーポルノ」というサブジャンルを生み出したが、その後『デッド・サイレンス』(2007年)を契機に心霊現象を中心とした「怪奇」的題材を扱ったゴーストホラーの作品群を監督・製作した。これらの作品群の恐怖には一貫した様式的傾向が見られる。それは身体的な驚きを過度に追求した「驚愕」(startle)である。ワン監督は自作の恐怖表現にJホラー的な心霊描写を取り込みつつも、そのような恐怖を「驚愕」的表現へと推し進めた。そのようなワン監督の恐怖表現の内には、Jホラー的な心霊的恐怖とスプラッター的な身体的恐怖が交錯する「怪奇」的表象を読み解く手がかりがあるのではないだろうか。本発表はそのような「怪奇」的表象の内に潜む「驚愕」的表現を認知主義的視点に軸を置きながら議論する。
一方、ホラー映画研究はフロイトの精神分析を下敷きにホラー映画固有の恐怖を、文明に「抑圧」されたものの理解とその解釈によって分析してきた。しかしこのようなテクスト理解に依存した研究アプローチは、ワン監督作品に多く見受けられる「驚愕」的表現を軸にした恐怖を説明するのに適切なものなのだろうか。そこで本発表では、ワン監督作品に共通して存在する「驚愕」的表現を分析するためにノエル・キャロル以後の認知主義的なホラー映画論を採用する。キャロルは認知主義的な恐怖はモンスターが喚起する嫌悪感(disgust)に由来すると考えたが、その後カール・プランティンガやロバート・ベアードはキャロルを受けて、ホラー映画の恐怖が有する身体性(physicality)を議論するに至る。本発表の目的は、そのような恐怖の身体性をワン監督作品のテクスト分析を通して明らかにすることである。


広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行