研究ノート

ハンス・ベルメールとドイツの戦後美術 ──フリードリヒ・シュレーダー=ゾンネンシュターンの紹介を通して

報告:松岡佳世

球体関節人形の作家、あるいは独自のエロティスムを孤独に追求した画家として知られるハンス・ベルメール(1902‐1975)は当時ドイツ領であったカトヴィッツ(現ポーランド)に生まれた。1935年頃からパリのシュルレアリストたちと交流をもち、愛妻マルガレーテを失くした1938年以降、ナチの脅威を逃れてパリに移住。戦時中は「敵性外国人」としてフランスの収容所に入れられたこともあったが、その後も母国に戻ることなく1975年の死までフランスで生きた。ナチス・ドイツの奨励する「健全なるアーリア人的身体」への抵抗から奇形の球体関節人形を制作したこと、ドイツ時代は、ジョージ・グロッスやジョン・ハートフィールドらベルリン・ダダの作家たちと交流し芸術の道を選んだことは比較的知られているが、身分証明書を捨て、自らを「無国籍人apatride」と呼んだ画家が戦後、母国文化とどのように関わりを持ったのか、あるいは持たなかったのかはほとんど言及されることはない。本稿では、ベルメールの「紹介者」としての側面、特に同郷人フリードリヒ・シュレーダー=ゾンネンシュターン(1892‐1982)の紹介から、この画家の戦後ドイツ美術に対する立場を検討したい。

1. ゾンネンシュターンとその位置

ベルメールは1958年12月のブルトンへの手紙でゾンネンシュターンを紹介している ※1 。この時ブルトンはデュシャンらとともに1959-60年のシュルレアリスム国際展(以下、エロス展)の出展者を検討していた。

※1 1958年12月10日ブルトン宛書簡より(以下、書簡の所蔵は全てジャック・ドゥーセ文学図書館)。

ゾンネンシュターンは1892年に東プロイセン、ティルジット近くのカウケーメン(現ロシア)に生まれた。幼い頃から、しばしば起こす問題行動から感化院へ何度となく送られた。18歳でサーカス団に小間使いとして潜り込んだあとはいくつかの職を転々とし、国境密売人として逮捕、精神病院送りになる。ベルリンでは怪しげな占星術や磁気療法を生業として数多くの信者を集め、金儲けに成功したこともあるという。これが原因で詐欺師として逮捕され、収容された精神病院で出会った画家に感化されて1933年、デッサンを始める。画家ユーロ・クビチェックの眼にとまり、ベルリンのシュプリンガー画廊に紹介されて所属作家となった。色鉛筆で描かれる色鮮やかな彼のデッサンは動物表象や平面性、円や螺旋構造、シンメトリーや紋章などへの執着と同時に、おおらかなエロティスムと祝祭性も感じさせる。

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《月の囚人たち》(1955)
Photo credit: Larry Sanders
© Artists Rights Society (ARS), New York / VG Bild-Kunst, Bonn
(画像はhttp://collection.mam.org/details.php?id=9002 より転載。)

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《シェーンヴェルジア─彼女は美しかりき─(ゾンネンシュターンの月の童話)》(1954)
Photo credit: Larry Sanders
© Artists Rights Society (ARS), New York / VG Bild-Kunst, Bonn
(画像は http://collection.mam.org/details.php?id=27450 より転載。)

このような経歴も分かるように、ゾンネンシュターンは正規の美術教育を一切受けておらず、画家となってからも奇矯な行動から「狂人画家」という扱いをされ続けた。シュルレアリストをはじめ、ジャン・デュビュッフェやヘンリー・ミラー、ジョルジュ・ポンピドゥらに賞賛される一方、アルフレート・バーダーの言葉を借りれば、「せいぜいひとりのおどけたアウトサイダー」※2として、美術批評家や美術史家からはその後も長く排除され続けたのだった。

※2 アルフレート・バーダー「精神の闇に輝く芸術」、『フリードリッヒ・シュローダー=ゾンネンシュターン展』(展覧会カタログ)、丸栄スカイル8階、中日新聞、1975、101頁

2. ベルメールと「精神病者の表現」

ベルメールはゾンネンシュターンについて、「精神病者の表現に関する古典、プリンツホルンの書籍の最も重要な位置を占めただろう作家だ」と同じ手紙でブルトンに書き送っている。この書籍は、パリのシュルレアリストに大きな衝撃を与えた精神医ハンス・プリンツホルンが多数の図版とともに精神病患者の創作物を紹介した『精神病者の芸術性』(1922)を指す。では、ベルメールもまた、ゾンネンシュターン作品をプリンツホルンの書籍に掲載されているような「精神病者の表現」の一例と考え、賞賛したのか。

シュルレアリストのなかでも、ベルメールは生涯を通じて精神病者や犯罪者といった人々に最も関心を寄せた人物のひとりだ。プリンツホルンへの関心に始まり、イタリアの精神医チェーザレ・ロンブローゾや神経学者ジャン・レールミットの症例報告を自らの制作理論書に積極的に組み入れていた。精神病者の作品の芸術批評について書かれたブルトンの1948年のテクスト「狂人の芸術、野をひらく鍵」で「狂気の専門家」と称賛されたジャック・ラカンやガストン・フェルディエール医師※3とは、最後のパートナー、ウニカ・チュルンの精神状態が不安定になった時期に必然的に親密に交流するようになっている。

※3 アンドレ・ブルトン『シュルレアリスムと絵画』、粟津則雄他訳、瀧口修造・巌谷國士監修、人文書院、2008、352頁

だが実のところ、自ら制作を教えたウニカを除けば、ベルメールが賞賛した同時代の「アウトサイダー」の作品は、現在わかっている限りでゾンネンシュターンひとりである。またベルメールは、ブルトンやデュビュッフェのように、精神病院の医師たちが次々に提供する有象無象の作家たちの作品をまとめて論じたり賞賛したりはしない。自身の制作理論に取り入れたのも、「精神病者の表現した作品」ではなく、幻影肢や痛みの転移現象のような「精神病者の症状」であった。このように考えていくと、一見、典型的なシュルレアリストの「狂気」賞賛の一例にすぎないように見える、ベルメールによるゾンネンシュターン紹介の意図が、別のところにあったのではないかと思われてくる。

3.ドイツの戦後美術とゾンネンシュターン

ベルメールがゾンネンシュターンを紹介したエロス展カタログの文章には、「無国籍人」となることを選んだ後の、ベルメールの母国文化に対する関心もまた垣間見える。

「私のように、1945年以来この方、ドイツにおいてどのようなものであれ自由のポエジーの焔が炸裂するであろうことを待ち望み(中略)期待していた人間は、みずからの思い違いを苦々しい思いで認めないわけにはいかなかった。

特に、こと造型芸術に関しては(中略)最近のアメリカもしくはフランスの美術雑誌記事の処方にしたがって良心的に調合されないような、いかなる戦後作品にもお目にかかれはしなかった。要するに、私は「経済の奇蹟」以外の何物にもお目にかからなかったのである。※4

※4 ハンス・ベルメール「ゾンネンシュターンに寄せて」、『フリードリッヒ・シュローダー=ゾンネンシュターン展』(展覧会カタログ)、15頁

このように書いてから、ベルメールはゾンネンシュターンの作品を、こうしたドイツ美術の状況から遠く隔たった「裏街道」にあるものとして賞賛している。すなわちベルメールは当初、ゾンネンシュターンの作品を、「狂人の芸術」としてよりもむしろ、戦後ドイツ美術の状況に対するものとして紹介していたのだ。

この「状況」とはどのようなものだったのか。エロス展の4年前、1955年に開始された第一回ドクメンタに端的にそれが現れている。このドクメンタが取り組んだのはナチス・ドイツがいわゆる「退廃芸術」の烙印を押すときのキーワードとなった「病理学」と「プリミティヴィズム」の問題であった。1937年より開始された悪名高い「退廃芸術展」では、特に「ブリュッケ」を中心とする多くのドイツ表現主義の人々の作品を、精神・身体障碍をもつ人や未開人とされた人々の作品と比較し、両者の視覚的な親縁性をあげて「退廃芸術」を位置づけていた。しかし仲間裕子氏は、作品の病理学的解釈による人種差別と美術におけるプリミティヴィズムの断罪、というナチス時代の負の遺産を克服するために「ブリュッケ」をはじめ戦前の前衛芸術家たちの復権が試みられた一方、比較対象となった精神・身体障碍をもつ人やユダヤ系ドイツ人作家の復権が見落とされており、この点に第一回ドクメンタの限界がある、と指摘している※5

※5 仲間裕子「ドクメンタdocumentaの美学と政治学」、『言語文化研究』13巻4号、立命館大学国際言語文化研究所、2002、180頁

戦後ドイツ美術の復興が孕んでいたこうした問題点は、当時からベルメールらドイツの芸術家たちにも共有されていたのではないだろうか。ゾンネンシュターンをブルトンに紹介する手紙の中で、ベルメールは東西ドイツの疲弊した文化状況について嘆いている。さらに現在西ベルリンの美術の流行を左右しているのは美術史家ヴィル・グローマンだといい、彼を「アメリカの金だ」と批判している。アーノルド・ボーデとともにドクメンタにも強い影響力を持ったグローマンは、戦前ブリュッケの作家たちを評価し、戦後はヴィリ・バウマイスターやルプレヒト・ガイガーらアメリカの抽象美術の流れを受けたドイツ人画家たちを支援した。グローマンは「ブリュッケ」をナチス・ドイツに対する抵抗の芸術とし、また戦後のドイツ抽象美術の作家たちをその延長におき、彼らを復興の旗印とした。当時のドイツ文化行政は、ナチス時代が残した「負のドイツイメージ」から脱却するため、自身の支柱にアメリカの発信する抽象美術を選択し、ドイツ美術をインターナショナルな美術潮流に復帰させようとしていた。

一方ゾンネンシュターンは、こうした戦後ドイツの新たな流れには見放された芸術家だった。画家自身も「私の絵画は真の民衆的教養の源泉を解放するものだ」※6と述べているとおり、その作品の豊かな象徴性と神秘主義、不条理な寓話性は、しばしばドイツの民衆芸術や祝祭儀礼と結びつけて論じられてきた。例えばエデュアール・ロディティは、この画家の作風を19世紀のノイルピーン着色版画のような民衆芸術と比較して論じている※7。ナチス・ドイツが排除し、戦後も顧みられることのなかった「アウトサイダー」であることに加え、復興を目指すドイツ美術のインターナショナル化が切り捨てた「ドイツ民衆の特殊性」から生まれ出てきたようなゾンネンシュターンの作品は、ベルメールにとって母国文化の多様性と歴史の継続性を体現してくれるような存在ではなかったか。

※6 シュレーダー=ゾンネンシュターン「余はなにゆえに絵を描くか」、『フリードリッヒ・シュローダー=ゾンネンシュターン展』(展覧会カタログ)、120頁

※7 種村季弘「月と道徳」、『骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書 フリードリヒ・シュレーダー=ゾンネンシュターン』、河出書房新社、1976、24頁

エロス展は、アメリカ含む19カ国から70名以上の作家を迎えた展覧会であった。ベルメールにとって、ゾンネンシュターンをこのシュルレアリスム国際展で紹介することは、戦後のドイツにおける文化的状況では埋もれてしまう画家を救い出すことだったかもしれないが、それは同時に作家単位でのインターナショナル化を進めてきたシュルレアリスムの立ち位置から、復興を急ぐ母国のアートシーンを批評することでもあったのではないだろうか。後期のシュルレアリスムの運動のあり方には疑念を持ちつつも、生涯ブルトンに対しての尊敬は抱き続けるという仕方でシュルレアリスムとの距離をとっていたベルメールは、母国ドイツに対しても同様に、この周縁的立場を自らに課しているように見える。

松岡佳世(大阪大学/ベルナール・ビュフェ美術館学芸員)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年3月29日 発行