第11回研究発表集会報告

研究発表1 虚構の政治、イメージの感性論

報告:畠山宗明

日時:午前10:30 - 12:00
場所:青山学院大学青山キャンパス17号館(17402教室)

文学的動物としての人間──ジャック・ランシエールにおける政治とフィクション
鈴木亘(東京大学)
エリー・デューリングの映像論──トポロジカルな同時性とパースペクティブ
福尾匠(大阪大学)

【司会】堀潤之(関西大学)


本パネルは、ジャック・ランシエールとエリー・デューリングという、世代は全く違うがともにフランス現代思想のアクチュアリティを支えている思想家たちの主要コンセプトに、それぞれの立場から光を当てる試みであったと言える。

まず、「文学的動物としての人間──ジャック・ランシエールにおける政治とフィクション」と題された発表で鈴木亘氏は、現代芸術論などにおいてしばしば美学から論じられてしまうランシエールの政治と美学の議論に、「芸術」という新たな視点を導入した。氏は、ランシエールの美学論は感性論としてのみならず、芸術論の文脈からも読み返せることを示し、特に彼の「人間は現実をフィクション化する文学的動物」であるというフィクション理解を取りあげ、制度によって分割された感性的なものの再編成や攪乱にあたっては、芸術的作用としてのフィクション化の働きが重要な役割を果たすことを指摘した。

氏はまずランシエールの『不和』において、アリストテレスに対抗しつつ描出された政治の美学を概観し、「政治は原理において美学的」であるという彼の根本テーゼの内実を跡づけた。

アリストテレスは人間と動物を言語という点から区別し、言語を持たないものを政治空間から排除したが、ランシエールによれば、こうした分割は、感性的な水準を介して行われる。アリストテレスによる分割はとりもなおさず感性的なものに対する関わり方の違いであり、ポリスとは「感性的な布置」である。そして、そうした布置としてのポリスの成立条件そのものに異を唱え、「分け前なき者の分け前」を考える、すなわち「感性的なもののパルタージュ」の再編成を行うのが政治なのである。

重要なのは、政治に感性論的な次元があるのみならず、こうした再編成そのものが、ロゴスによるのではない感性的な表明を通じて行われる、ということなのである。ランシエールにとって政治とは、芸術的活動として遂行されるものでもあるのである。ランシエールは、政治的な論証から詩的言語を排除したハーバーマスに対し、論証を可能にする可能性の条件を問うことで、人民とそうでないものの関係を明らかにし、新たな関係を創出する、詩的言語やメタファーを通じた政治的表明を重視する。こうした表明の芸術としての側面に加えて氏は、ランシエールが人民を分割し再編成する政治の働きを「演劇的舞台の創出」という芸術モデルで考えていることも指摘する。ランシエールにとって政治は、根源的に芸術的な作用によって展開されるのである。

こうした芸術観のもとで、ランシエールが芸術一般を主題的に扱ったのが『感性的なもののパルタージュ』である。ランシエールによれば、芸術は、さまざまな「なすことの諸様式」のうちでも、諸様式の配置と、存在の諸様式や可視性の諸形式との関係に介入するような、すなわち「なすことの諸形式」に介入することで、感性的なもののパルタージュを再編成し攪乱するような「なすことの諸様式」なのである。こうした作用は「新たなフィクション性」と呼ばれる。ランシエールによれば、アリストテレス的な「諸行為の配列」としての作品はロマン主義の「美学革命」を通じて崩壊し、バルザックに見られるように、それがフィクションの描写なのか、社会的状況の解釈なのかが区別できなくなるような記号の体制が生まれる。そこでフィクションの作業は、アリストテレスの「諸行為の配列」ではもはやなく、ものの世界に介入し「記号の配置」を組み替えることに存するようになる。

ランシエールにとって、このように感性的なものの配置を再構成するフィクション的な「言表」は、万人が関わりうるものであった。こうした万民があずかりうるフィクションの能力の行使によって、人が、自らを既定の状態から逸脱させ、新しい世界を開示する可能性こそが、彼の政治、美学(芸術)思想を支えているのである

次に、福尾匠氏の「エリー・デューリングの映像論:トポロジカルな同時性とパースペクティブ」では、思弁実在論の流れで紹介された思想家の中で、特に「プロトタイプ」に関する議論で知られるエリー・デューリングの映像論が「トポロジー」という点から概説された。

氏はまず、イメージの裏側を斟酌せず、その現れを問題とする「素朴な観客」として彼の哲学を位置づけ、同じくベルクソンを出発点として映画と哲学を接続したジル・ドゥルーズとの類縁性のうちに彼を位置づける。しかし氏は、比較対象としてドゥルーズの『シネマ』をたびたび参照し、また思考のマトリクスとしての、さらにはベルグソンを超える契機としての映像の位置づけなど両者の共通点をいくつか見い出しつつも、むしろドゥルーズとの差異においてデューリングの思想の射程を明らかにしていった。

氏はまず、デューリングの映像論における空間的側面への注目に焦点を当てた。デューリングが着目するのは、共存、接続、局所的/大域的といった空間的カテゴリーである。イメージの並列的な関係、その綜合、その内部と外部といったように、彼は、イメージと他のイメージの空間的な関係を問題とする。こうした背景としてデューリングは、通常の映画におけるショットの継起の時間がカッコに入れられ、隣接するショットの共存の様態が空間的に規定される、マルチスクリーンの増加などを挙げている。こうした技術的なイノベーションを背景に、デューリングは通常の映画もトポロジーという観点から読解していく。

映画は根本的に時間芸術である。しかしデューリングによれば、仮にそうであっても、もろもろのイメージの共存に光を当てようとするとき、人は映画を空間的なものとしても考えざるを得ない。こうした点から、デューリングの映像論においては特に空間的概念である「トポロジー」が特に重視されるのである。

しかし、ここで時間的な側面は無視されているわけではない。共存や接続などのカテゴリーは、持続の構成、諸持続の関係性を描き出すために要請される。デューリングが目を向けているのは「潜在性に縁取られた」空間であり、また「一つの次元から別の次元を分節する原理」である。空間的次元は、複数の持続の関係を問う概念として、あるいは空間性と時間性の関係性そのものの可動的な関係を問う概念として、要請されているのである。

氏はこうしたデューリングの基本的な姿勢を明らかにした上で、彼の『つなぎ間違い』の各章のタイトルとなっている「分身」、「中間世界」、「接続」という三つのコンセプトを、その理論的背景から明らかにしていった。

まず「分身」とは、知覚と記憶の二重性であり、現在と記憶の反転というパースペクティブのねじれであるとされる。ドゥルーズは、『シネマ』において、知覚と記憶の発生は同時であるというベルクソンのテーゼに依拠しつつ、潜在的イメージが他の現働的なイメージの中で現働化するのではなく、当の現働的イメージに対応し、知覚と記憶が区別できても識別できなくなる=記憶が現働的なものとして現れる、現在の記憶の噴出としての「結晶-イメージ」を時間イメージの核として描き出した。しかしドゥルーズはここで、結晶イメージをあらゆるものに適用可能であるとしてしまう。それに対してデューリングは、ヒッチコックの『めまい』を取りあげつつ、この作品では「メビウスの輪」という空間のタイプが物語を駆動させており、結晶イメージはこの空間のタイプと結合する限りにおいて作品へと適応されうるものとなっているとする。デューリングは、トポロジカルな空間的カテゴリーを媒介させることで、結晶イメージが作品に適応される必然性をそこに見いだすのである。

次に「中間世界」であるが、これは「現動的な画面内と潜在的な画面外」の関係であり、また「時間的パースペクティブの内と外の関係」であるとされる。ドゥルーズは画面外を、総体と全体という二つの点から説明した。総体とはあるとされる画面の外であり、「現働化されうる外部世界」である。一方全体とは、「連合するイメージの総体において表現された全体」、すなわち時間の間接的な表象としての運動イメージが、「開かれた全体」として表現するものである。運動イメージの体制において全体は、イメージを内部化し、イメージにおいて自らを外部化するという二重の体制において表現される。一方時間イメージの体制において全体は、つなぎ間違いによって生まれる、二つのイメージの間隙としての「外」であるとされる。しかしドゥルーズは、つなぎ間違いが運動イメージの体制に先行的に含まれるとすることによって、またもや恣意性という問題を呼び起こしてしまっている。

それに対してデューリングが取り上げるのが、『マトリックス』で使用された「バレット・タイム」である。バレット・タイムにおいては、一緒に作動することのなかった二つの次元が一つのショットの内で組み合わされ、実際には流れていないヴァーチャルな持続が生まれている。デューリングによればこれはまさに「諸持続の重ね合わせ」である。また、さらにバレット・タイムにおいてはカメラの運動が知覚可能な次元に繰り下げられ、イメージは画面内部の運動と画面それ自体の運動の間にある。ここではまさに、イメージにおける知覚不可能な潜在的なものが現れている。ここで行われているのは潜在的なものと現働的なものの境界線の引き直しなのであり、デューリングはこのように空間的なカテゴリーから考えることで、「外」を想定することなく両者の関係を思考しようとするのである。

最後に「接続」であるが、これは「分離によってあらわになる接続あるいは同時性の有限性」であるとされる。新しいテクノロジーがもたらす技術社会はしばしば無限と結びつけられる。例えばポール・ヴィリリオは、分割スクリーンを管理社会の象徴と見なし、そこでは無限の速度に支配されることにより、時間と空間は圧殺されると考える。しかし、デューリングによれば、速度はどこまで行っても有限である。「あらゆる接続には時間がかかる」のである。

ここで重要となるのは「相対的な分離」としての切断である。分離は空間だけでなく時間も巻き込むが、そこで取り出されるのは「相対的な同時性」であるとされる。マルチスクリーンにおいて、画面外は接続の空間、間隙化の場であるというよりは、「分離」の空間なのであり、そこでは外が到来することなくただ相対的で有限な「分離」が生じているのみだとされる。

ドゥルーズは、継起的な時間から共存的な時間への移行に際して、「すべてにとっての唯一の出来事」を導入することで、再び恣意性の問題を招き寄せてしまい、出来事の特定を不可能にしてしまう。それに対してデューリングは、あくまで相対的なものである「分離」の可能性がつねに具体的なイメージの中で実現されているかを問題にするのである。

ここでデューリングが例として取り上げるのは、テレビドラマの『24』である。『24』においてリアルタイムなものは、複数の知覚の中心の物理的あるいはヴァーチャルな共現前と結合しており、分割スクリーンは離接や分離を示すと共に、断片によって全体化する世界を描き出している。 ドゥルーズが時間イメージへの移行にあたって全体を外に置きかえたのに対し、デューリングはあくまで大域的な全体は、時間イメージ以降も表現されて得るものであると考える。ここで分割スクリーンは、局所的なものと大局的なものを分節するインターフェースとして機能しており、大域的な表象は、インターフェースによってその都度生み出されているものとされるのである。

ドゥルーズの『シネマ』はその作品への適応のレベルにおける恣意性がしばしば指摘されてきた。しかし、ここでシネマの本当の問題は「外」の導入にあるとされる。外があまりに絶対的であるために、ドゥルーズは世界の崩壊を食い止めるために実存的な主体性を要請せざるを得なくなっている。このような世界観においては、世界がカオスに陥ってしまうことから復帰する可能性もまた閉ざされてしまう。それに対してデューリングは、トポロジーの概念に頼ることで、あくまで対象の側に備わっている可能性を抽出しようとする。氏は最後に、すでに紹介されている切断面として「プロトタイプ」もこうした背景から理解できることを指摘し、発表を締めくくった。

畠山宗明(聖学院大学)


【パネル概要】

文学的動物としての人間──ジャック・ランシエールにおける政治とフィクション
鈴木亘(東京大学)

ジャック・ランシエールは美学と政治、芸術と政治の関係を論じる思想家として紹介されてきた。彼において政治とは、可視的なものと不可視的なもの、言葉を持つ者と持たない者とを分割する「感性的なもののパルタージュ」の再編成の謂であり、このように感性の枠組みの変更が政治を構成するという意味で、政治にはひとつの美学=感性論が存するという。他方で近代以降の「芸術の美学的体制」において、芸術は「感性的なもののパルタージュ」の再編成をもたらすものとされ、この働きが「美学の政治」と呼ばれる。

現代芸術をめぐる議論の中で、後者の「美学の政治」の論理、すなわち芸術が政治的効果を有する次第については盛んに注釈・応用されてきた。対して本発表は、前者「政治の美学」の発想を芸術論の文脈から読み直し、ランシエールが政治的実践にもある種の芸術性を認めていることを明らかにする。本発表はまず、『不和』において彼が政治的言語を詩的隠喩として捉えていることを確認し、次いでその内実を、『感性的なもののパルタージュ』等において、現実を構築する方法として芸術の領域に留まらない独自の意義が与えられる「フィクション」概念を手がかりに検討する。ランシエールの政治思想の根底にある、現実をフィクション化する「文学的動物」という人間観を浮き彫りにし、そこから彼における政治・美学・芸術の関係を捉え直すことが、本発表の目的である。

エリー・デューリングの映像論──トポロジカルな同時性とパースペクティブ
福尾匠(大阪大学)

本発表は、近年「プロトタイプ論」によって注目されているフランスの哲学者、エリー・デューリング(Elie During)の映像論を取り上げる。彼の映像にまつわる論考がまとめられたFaux raccords: La coexistence des images (Actes Sud, 2010)は、映像空間をひとつの仮想的な世界として捉え、そこで繰り広げられるイメージの共存と連鎖を分析することで時間、空間というカテゴリーを更新することを狙った書物である。これは、ジル・ドゥルーズ『シネマ』の問題設定を引き受けた、ドゥルーズ以降最新にして最初の主要な試みであると言えるだろう。とはいえ、Faux raccordsは論文集であり、それぞれの論文でなされる個別の映像作品についての考察の背景にある時間、空間論を統一的に把握することは難しい。そこで本発表では、「トポロジー」、「パースペクティブ」、「知覚と記憶の同時性」、「虚構−芸術」などの、本書を通して重要な機能を持ついくつかの概念を取り上げ、それらの関係を仮設的に規定することでデューリングの映像論から構築しうる時空的なシステムを提示し、その帰結としての「プロトタイプ」の機能を明確にすることを試みる。デューリングの映像論は、メディア論や文化論に還元され得ない映像が持つ哲学的な射程を再検討するきっかけをわれわれに与えてくれるだろう。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年3月29日 発行