第11回研究発表集会報告

研究発表2 芸術における野生の思考

報告:田中純

日時:2016年11月5日 13:30 - 15:30
場所:青山学院大学青山キャンパス17号館(17408教室)

オズワルド・ヂ・アンドラーヂ「食人宣言」における芸術思想について
居村匠(神戸大学)

フリーダ・カーロ、死する身体の分裂と再生への予感
小松いつか(立教大学)

受動性においてもたらされる「セルフ・ポートレート」──松井冬子の作品における「passions」
遠山いずみ(立教大学)

【司会】田中純(東京大学)


本パネルは、三つの発表がそれぞれブラジルの詩人とメキシコおよび日本の画家の、時代の異なるテクストや絵画作品を対象としながら、そこに通底するテーマである「毀損された身体表象」を通して、芸術の創造活動を根源で駆動する人類学的な「野生の思考」を浮かび上がらせるものであった。

最初の発表者である居村匠氏は、ブラジルの詩人・批評家であるオズワルド・ヂ・アンドラーヂが1928年に発表した著作「食人宣言」の詳細な分析により、そこに「反カトリック」「反植民地主義」「反論理」の三つの思想が潜在していることを明らかにした。これらの「反」の志向を象徴的に表わすのが、ブラジル独自の文化を実現する手段としての「食人」である。それはインディオの食人習慣を背景として、西洋という「他者」の文化を吸収し、みずからの文化を生成する方法と見なされた。こうした文化的「食人」の視点から、ブラジルの社会・文化の現状が批判されてゆく。「食人宣言」では、イエズス会によってこの土地に広められたカトリックにインディオの母権制が対置され、同時にあらたなキリストの誕生が希求されている。このカトリック批判は、政治的な植民地主義ばかりではなく、西洋文明による精神的植民地化を糾弾する姿勢に結びつき、インディオの生活形態が近代技術の成果と調和するユートピア的なヴィジョンが語られる。さらに、これらの根底にある西洋的合理性にもとづく論理それ自体が疑われ、能動的かつ有機的に自然に触れるインディオのあり方にならった「生の触知可能な実在」に関わる知が、「反論理」の具体化として追求される。

居村氏は、以上のようなアンドラーヂの主張や彼のパートナーであった画家タルシラ・ド・アマラルの作品《アバポル》のなかに、象徴化されたインディオの身体イメージの存在を見出し、「食人」の思想の前提をなすものが、食べる/食べられる身体の「かたち」という身体表象であることを探り当てた。アンドラーヂにとっては、それゆえに、他者=西洋をこの「かたち」を通じて「消化・吸収」する活動である芸術こそが、食人の思想を真に実現する場となるのである。

続く小松いつか氏による発表では、フリーダ・カーロの自画像における画家自身の身体表象を当時の日記の記述と照らし合わせることにより、それらの背後にある生と死をめぐる思想が追跡された。カーロは壊疽による右足の切断にいたる病を長年抱え、その痛みや傷を切断された身体表象のかたちで絵画に表わす一方、果物や植物を主題とする作品を数多く残している。小松氏はこの二つの主題系が融合し、身体表象のうちに植物の幹や根のモチーフが描かれている作品の系列があることを指摘し、生のうちに潜在している植物的次元の表現をそこに見出した。生命のこうした植物的次元をめぐる思想やそれに関連するイメージは、宇宙樹の神話をはじめとするメソアメリカの伝統的思考からの影響をうかがわせるものである。小松氏によれば、カーロは痛みに苦しむみずからの身体に植物のイメージを合体させることにより、個体の死を迎えても大地からあらたに芽吹いて再生する植物的な生命力をそこに与えようとしたのである。

最後の発表者である遠山いずみ氏は、カーロと同じく毀損された身体表象を特徴とする松井冬子の絵画を導入として、絵画作品が鑑賞者に与える身体的・情動的効果の分析を展開した。松井が制作の基本にしているのは「痛み」であり、その絵画の身体表象は、画家自身の「痛み」の媒介になっている点で「セルフ・ポートレート」である、と遠山氏は言う。そのような痛みは、絵画のたんなる視覚的受容を越えて、いわば触覚的なものであり、そうした触覚性をともなう点で鑑賞者の「受動性」においてもたらされている、というのが遠山氏の主張である。この鑑賞経験の構造を分析するために、遠山氏はアルフォンソ・リンギスの共同体論を参照し、リンギスが合理的共同体から区別する「他者」の世界、とりわけ内なる「他者」であるところの激しい感覚や感情(passions)をめぐる議論に注目する。そして、passionが含意する「受動」「受難」を松井作品のうちに読み取ることが試みられる。遠山氏によれば、松井による絵画作品は鑑賞者にとっての「身代わり」として、「受難」を担う存在になっているのである。

質疑・コメントにおいては、身体表象の側面から見たとき、アンドラーヂとカーロがそれぞれ背景としたブラジルとメキシコの神話的世界観のあいだに共通性があるかどうか、という点が問題になった。たとえば、アマラルの作品《アバポル》に描かれた巨大な足のイメージは、カーロの作品との照応を感じさせるものである。「食人」というテーマをめぐっては、精神病院に入院していた時期のアビ・ヴァールブルクが、家族の肉を食べさせられているのではないかという妄想に苦しんだ事実と、そのような経験を背景として、キリスト教のミサにおいてイエスの肉と見なされ食されるホスチアが、ヴァールブルクのイメージ論においてきわめて重要な地位を占めていたことが指摘された。ヴァールブルクにおける「イメージ嗜食(Ikonophagie)」として論じられているこうした問題系は、芸術こそが文化的食人の場であるというアンドラーヂの思想とも響き合うものであろう。「植物としての身体表象」や「身代わり」としての絵画というプロブレマティックもまた、ヴァールブルクによるイタリア・ルネサンス美術の研究に接続しうるものであり、本パネルの研究発表がいずれも、ヴァールブルクをひとつの源とする、いわゆる「イメージ人類学」の圏内にあることを示しているように思われる。

田中純(東京大学)


【パネル概要】

オズワルド・ヂ・アンドラーヂ「食人宣言」における芸術思想について
居村匠(神戸大学)

本発表は、ブラジルの詩人オズワルド・ヂ・アンドラーヂ(1890-1954)による芸術マニフェスト、「食人宣言」(“Manifesto Antropófago”, 1928)の分析をとおして、その芸術思想を明らかにすることを目的とする。本宣言においてアンドラーヂは、先住民であるインディオの食人習慣を理念的モデルとして取りいれ、西洋文化を消化・吸収することでブラジル独自の文化・芸術を構築することを目指したとされる。しかし、そのような文化・芸術構築についての直接の言及は宣言の一部に過ぎない。アンドラーヂは、一方ではブラジルの歴史について述べ、他方で、古代ギリシャからジグムント・フロイトやシュルレアリスムといった同時代の動向まで、西洋の教養に幅広く言及してもいる。こうした記述は、従来の自文化構築という見方だけでは十分に説明することができないように思われる。では、「食人宣言」とは、どのような思想を示すものなのだろうか。

発表者は、この宣言における「食人」という表現をたんなる比喩としてのみ扱うのではなく、より具体的な身体性をともなったものとして扱うことで、アンドラーヂが「食人」をとおして示した芸術思想を明らかにする。分析をとおして示される「食人の思想」は、ブラジルのモデルニスモの特性を明らかにするだけでなく、西洋中心的な芸術観の再検討を促すものとなることが期待される。

フリーダ・カーロ、死する身体の分裂と再生への予感
小松いつか(立教大学)

メキシコの画家フリーダ・カーロは、自身の痛みを表わす自画像を描いたことで知られている。晩年、片足の切断を余儀なくされ死が間近に迫ったカーロのイラストには、分裂した身体の描写が目立つようになり、その背には羽が描かれる。今にも飛び立たんとするイラストは、死する肉体を離れて新たな生命へと向かう神格化した自身の姿を表していると考えられる。本発表は彼女が死の間際まで描き続けた日記を中心に、死へ向かう身体について考察を進め、彼女の絵画に表された生命循環の思想を読み解くことを目的とする。

先行研究において日記は痛みや死を隠喩的に示すものとして触れられてきたが、彼女が生涯追求し続けた生命循環の思想を探る議論の中心として扱われてくることはなかった。

日記の中に記された、結合し分裂する身体や植物的な生命へと導かれていく性の思想は、メソアメリカに伝わる創造神話を連想させる。神話は生命の内に神々の種子が宿ることから始まり、その種子は死を迎えても再び新たな生へ向かうことを伝える。

カーロの絵画は自らの痛みや死の予感を忠実に描くことで生命身体に内在する神の姿を示し、我々もまた創造を促す本質の一つであることを知らせる。本発表は日記の中に記された彼女の身体の描写に着目し、カーロが極めて私的な日記の中で生命の内にある神々の存在に気付き、結合や分裂を繰り返しながら自身の身体を神格化していこうとしていた姿を明らかにするものである。

受動性においてもたらされる「セルフ・ポートレート」──松井冬子の作品における「passions」
遠山いずみ(日本学術振興会)

人が自ら捉える自分は、自-他の区別によって生起するが、区別が分離と同時に接触でもあるため、揺らぎ続ける境界に触覚性を帯びて曖昧にあらわれる。自分は明確な「自己」の形に極まらない「わたし」に留まる。本発表では、自-他の区別および境界から発する触覚の受動性を基に、自分の生起に関わる自分イメージの遺物である「セルフ・ポートレート」のあらわれを、松井冬子の作品を例に考察する。

A.リンギスの「他者」「ノイズ」「passions(激情、受動、受難)」などのキーワードを、E.レヴィナスからの流れを意識しつつ参照し、松井の作品を精査すると、松井が制作の基礎に置く「痛み」は、「激情」つまり理解不可能なものの襲来を意味することがわかる。自分の生起が自-他の分離と接触を伝える触覚によることに鑑み、絵の地と質感に注目すると、松井の作品が触覚的に喚起されたリアリティに裏づけられた「セルフ・ポートレート」だと確認できる。また、鑑賞者が、「痛み」の「受動性」を通して自身に降りかかる「痛み」と絵に課せられた「痛み」を重ね、受動的存在としての自分を見出すことからも、厄払いにおける「身代り」を彷彿させる松井の絵は、自分を託す「セルフ・ポートレート」となり得る。

「passions」は、松井の作品では、突然襲来し制御不可能な「激情」であり「受動」だといえるが、「キリストの受難」に結びつけるのは拙速だろう。しかし、厄を負わされた「身代り」と見るなら、「passions」による試考は、「受難」としても、意味をなすと思われる。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年3月29日 発行