第11回研究発表集会報告

書評パネル 田口かおり『保存修復の技法と思想』を読む

報告:池野絢子

日時:午前10:30 - 12:00
場所:青山学院大学青山キャンパス17号館(17408教室)

田口かおり(東北芸術工科大学)
上崎千(東京藝術大学)
金井直(信州大学)

【司会】池野絢子(京都造形芸術大学)


本パネルは、第7回表象文化論学会賞を受賞した田口かおり『保存修復の技法と思想 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(平凡社、2015年)の書評パネルとして企画されたものである。保存修復という分野は、一般に美術のなかでもとりわけ技術的・専門的な領域として認識されているが、本書はそうした狭義の専門領域に留まることなく、芸術作品のオリジナリティや作者の意図、作品の時間性とその「生」をめぐる問題など、芸術作品が内包する本質的な問題へと開かれた視座を示している。今回のパネルでは、まず著者である田口かおり氏(現・東海大学)より本書の概要や構成に関する発表があり、その後、金井直氏(信州大学)と上崎千氏(東京藝術大学)によるコメント、および討議へと進んだ。本報告では各コメンテーターの問題提起とその後の議論を中心に振り返ることで、本書の意義とその射程を改めて振り返ることとしたい。

まず、一人目のコメンテーターである金井氏は、本書の重要性を、ルネサンス美術のような古典的な芸術作品の保存修復の経験と問題を踏まえた上で、現代美術の保存修復という複雑な問題を果敢に扱った点にあるとした。その複雑な問題の一例として、金井氏は、イタリアのアルテ・ポーヴェラの保存修復にまつわるジレンマを挙げた。1960年代末に現れた彼らの芸術実践は、その発展のなかで、出来事性からプロセス性の重視へと質的に変化していった。このために彼らの作品は、美術館に収蔵されると同時に、出来事性を重視して作品のコンセプトを保存すればよいのか、それともプロセス性を重視して、その物質的痕跡を保存すればよいのかという問題を惹起することになったのである。

コンセプトと物質、いずれを保存すべきなのか。このような問題はもっぱら、ギャラリーや美術館といった、作品を商品として売買し、所有する機関が介在することによって生じる問題である。その意味で、金井氏は、近年の美術館による「予防的修復」の実現を図る動きにとりわけ注意を向ける。予防的修復とは、日常的なメンテナンスにより作品の劣化を防ごうとする行為だが、たとえばこの予防的修復が、所蔵側の作品購入に際する選定基準にまで敷延されるとき、そこには、芸術作品とその管理をめぐる困難な問題が生じる可能性がある。というのも、作品の物質的確保が所蔵/管理側の至上命題となってしまうならば、時としてそれは、自由な芸術表現の足枷となりかねないからである。

以上のような美術館と保存修復についての議論から、さらに金井氏の発表では、近代以降の美術館制度が芸術作品と結ぶ関係性について、重要な問題提起がなされた。知られているように、ルーヴル美術館のような近代的美術館の誕生は、ある側面から見れば、芸術作品/モニュメントがその固有の場所から奪い取られて、啓蒙的な管理の手に委ねられるようになったことを意味している。このとき、本書において示唆されているような保存修復を通じた「作品の「生」の回復」は、果たしてどれほど近代的美術館のなかで実現されてきたと言えるのだろうか。金井氏は、そのようなアンチ美術館の論理の延長上で、とりわけ今日的な現場における「指示書」の取り交わし、すなわち、作者の意図の尊重について疑念を示すことによって、議論を終えた。

二人目のコメンテーターである上崎氏からは、まず、上塗りと経年変化をめぐる本書の議論から、とりわけ現代美術における「作者の意図」の偏重が批判的に指摘された。たとえば、古代ギリシアのアトラメントゥムと呼ばれる暗色の上塗りや、経年変化したワニスの古色(パティナ)。これらの上塗りは、自然発生的に起こったものなのか、意図的に施されたものなのか、後世からすれば必ずしもその区別が明瞭ではないだろう。加えて、そもそも、ある作品の作者は、その制作プロセスにおいて、すべての行為の結果を十全に意図しているわけではない。とすると、現代美術における「指示書」の尊重とは、制作というプロセスが開始される前の、それが着想された瞬間に作品自体を回収してしまいかねないのではないか。

次に問われたのは、コンセプチュアル・アート以後の芸術作品にたいする保存修復の態度についてである。1970年の「インフォメーション」展に際して、キュレーターのキーナストン・マクシャインは、当時の美術状況にあっては、もはや美術館におけるコレクションという営み自体が「陳腐化」していること、そして同時に、モダニズムの芸術作品が古典化し、それらを「防腐保存処理」、すなわち、ミイラ化して物質的に保存しようする状況があることを批判的に指摘した。その一方で、同時期にはアーティストとキュレーターの立場が限りなく近づいていき、収蔵されるものとしての作品のあり方よりも、むしろ見られる対象としての展示的あり方が優位に置かれるような状況が生じてくる。このとき、保存修復は、いかなる立場をとるべきなのか、というのが第二の問題提起であった。

作品の展示的なあり方を保存しようとするとき、そこでは自然、作品だけではなく、作品についての資料をアーカイヴすることが重要になってくる。最後に指摘されたのは、ポストモダニズム以降の芸術における、アーキヴィストのパロディとしての芸術家の営みをめぐる保存修復の問題であった。そもそものはじめから資料の集積であるそれらの作品をアーカイヴする、というとき、その対象は「芸術作品」として扱われるべきなのか、「資料体」として扱われるべきなのか。上崎氏によれば、昨今は、アーカイヴが扱っていた資料を、美術館が作品としてコレクション化する動きがあるという。そのような状況に照らしてみるならば、「作品」と「資料体」の区別とは、単純にカテゴリーの問題というよりも、対象のいったい何を保存すべきなのかという重要な問題に接続していくであろう。

以上のように、金井氏と上崎氏のコメントは、別々の文脈から発されたものでありながら、現代美術のステータスや、美術館制度、そして「作者の意図」に対する関心において共通していたと言えるだろう。これに対し、著者である田口氏からは以下のような回答が提出された。まず、近現代美術と美術館制度の関係について言うならば、近年の傾向として、現場においては指示書の存在が大きくなってきている。ところが、指示書の作成について当事者たちは比較的無批判であり、作者が存命のうちにできるだけ意見を聞いておけば良いという風潮がある。また、保存修復という学問は、絶えず同時代の政治権力ないし公的制度に結びついてきたため、『修復の理論』(1963)を著したチェーザレ・ブランディ以前には自律的なメソッドを確立することができなかった。とはいえ、個々の作品すべてに適応できるような唯一の修復方法が存在するわけではない。現場の修復士は、作品や作者(遺族)、美術館との関わりのなかで、その都度より適切な修復方法を模索する必要がある。田口氏はそのことを、自身が修復を手がけた井田照一作品のケースに照らして説明した。さらに、古色の問題に関しては、さまざまな介入例を精査しても、最終的にどこまでを古色と呼びうるのか、誰も正確な線引きをできないということ、エフェメラルな媒体からなる現代美術の作品群については、たとえ介入が困難であったとしても「処置をしない」という消極的な選択に逃げないことが重要であるといった事実が確認された。

その他にも、ブランディと美術館制度や収蔵庫の問題など、著者とコメンテーターのあいだで興味深い話題が交わされたが、ここでは割愛し、フロアからの意見について触れておきたい。

まず一人目の質問者からは、現代美術において修復士の扱うべき範囲がどんどん拡大していく状況のなかで、修復士は自身のアイデンティティをどこに求めるのか、また「修復士」と「修復家」という名称はどのように使いわけれられているのかといった質問がなされた。これに対し田口氏は、素材の分析や、作品が制作時からどのような履歴を経ているのかを読み取る力にこそ、修復士のアイデンティティがあること、デジタル・メディアを用いた作品の修復では、専門的な修復士を育てるよりは、外部へ裾野を広げて専門家と共同作業をすることが重要であると返答した。また、「修復士」と「修復家」という用語の違いについては、前者は資格制度が確立された西洋を念頭において用いた言葉であり、資格制度のない日本国内では、もっぱら「修復家」という言葉が用いられる、という説明がなされた。

二人目の質問者からは、治療行為としてのX線をはじめ、本書において修復行為が医学のメタファーで語られている点について質問がなされた。現代医学にとって死の問題が重要になってきていることを思えば、保存修復についても、むしろ芸術作品の「死」を考える別の可能性がありうるのではないか。この問いに関しては、まず金井氏から、美術館の生政治的な状況に対するオルタナティヴとして、指示書によって一義的に問題を済まそうとするのではなく、作品のあるべき保存修復の仕方を持続的に語りあえるような共同体を形成することが重要だという回答がなされた。また、田口氏からは、すでにテート美術館などで芸術作品に「死の権利」を認める試みがなされているとの紹介があった。つまり、収蔵庫に、もはや機能しなくなった作品を置くスペースを設けるというものである。

ここで時間がなくなり、残念ながらそれ以上の議論を続行することができなかった。しかし、最後に司会者の立場から若干の感想を加えることを許してもらえるならば、保存修復における作品の「生」と「死」という概念や、芸術作品の生政治的な状況については、本書を契機として、いま一度考え直す必要があるように思う。収蔵庫において、作品に「死の権利」を与えるという措置は、金井氏の発表にあったように、かつてカトルメール・ド・カンシーが美術館を「死さえはびこることのない墓」という言葉で批判したことを思えば、手放しに納得できるものではないだろう。いやむしろ、いまや作品は、美術館の空間のなかで、許可を得ない限り死ねないということになるのだろうか。たとえ修復が、自律した学問領域としてディシプリンを確立したとしても、対象となる芸術作品という「身体」はけっして自律的なものではありえないはずだ。そのとき、保存修復は、自らのディシプリンとしての自律性と、自らの対象の他律性との相克に、いっそう深く巻き込まれていかざるを得ないのではないか。

『保存修復の技法と思想』の序章は「診断」として始まり、各章ごとに修復の四大原理やドキュメンテーションの議論を通過しながら、修復の歴史をたどり直すことになる。著者の歩みは、肉眼による病状の「診断」から、表層、見えない構造体へと、まるで「透明な柔らかいメスで注意深く切り込んでゆくように」進められるわけだが、その語りは、単なるメタファーという以上に、保存修復の方法論における無意識を映し出しているように私には思われてならない。それは、患者と医師、病と治療として作品と介入者(の行為)を構造化していく無意識である。しかしそのとき、作品の「生」とは、いったい何によって担保されるものなのだろうか。本書と本パネルをきっかけとして、議論が開かれたものになることを願ってやまない。

池野絢子(京都造形芸術大学)


【パネル概要】

第7回表象文化論学会賞を受賞した田口かおり『保存修復の技法と思想 — 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(平凡社)をめぐり、上崎千、金井直、池野絢子(司会)の各氏を迎えて、著者と共に議論を繰り広げる。近代保存修復学のパイオニアであるチェーザレ・ブランディの理論と、古代から現代にいたる美術作品の抱負な修復事例を交差させる本書は、オリジナル・生・時間・アーカイヴといった思想上の問題にもあらたな光を投げかけている。その意義や射程をめぐって、上崎氏には芸術のアーカイヴ理論の観点から、金井氏にはイタリア美術やキュレーションの観点から、それぞれの読解を披露していただく。アルテ・ポーヴェラを専門とする池野氏にも、司会の立場を超えて議論に参加していただくことで、さらなる重層的な読みが展開されるだろう。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年3月29日 発行