小特集:アーカイヴの表象文化論

寄稿2 映像音響/サウンドトラックのアーカイヴ

長門洋平

さしあたり映画について考えるならば、「映像音響とアーカイヴ」を話題にする場合、映像と音響は奇妙な不均衡性をおびる。これは、こんにち「動画」という言葉で表されるものには基本的に、すでに音も含まれているということとも関係する。すなわち、音響は映像の一部であると考えられがちである一方、映像を音響の一部と見なすことはほとんど不可能だということだ(話を「音楽」に限るならば、映像は音楽の一部であると主張することも無理ではないが)。このことは、映画というメディアにおける、映像の優位性の議論ともただちに結びつく。

おかしな表現になるが、映像をアーカイブするためには、(音を含む)映像のアーカイヴを作ればいい。しかし映像の音をアーカイヴするために、映像つきの音をアーカイヴすることはできない。いや、してもいいのだが、その対象は結局「映像」になってしまう。実際には、さまざまな音楽アーカイヴのなかに映像資料が含まれることももちろんあるが、今まさに「映像資料」という言葉を使わざるを得なかった事実からも分かるとおり、「映像つきの音」は「映像」と表現されてしまうのだ。つまり、映像音響のアーカイヴとは、その対象が作品という全体性から切り離されたサウンドトラックを指すことになるという意味で、根本的に非「作品」的な断片性を帯びることになる。映画の音響の一部を占めるにすぎない「音楽」は、それでもそれ自体作品と見なせなくもないが、映画から乖離した「映画の音楽」が独立した作品たりうるかという点には議論の余地もある。

映画の音は、たとえ同時録音であってもその対象はセリフのみであることが多く、基本的にすべての音は後づけで、時には何十ものトラックが同時に鳴っていることもある(例えば、複数のセリフ、もの音、環境音等のうえに、数十のトラックがミキシングされた伴奏音楽が重ねられる)。映像音響アーカイヴの特質がだから「断片性」にあるとするならば、サウンドトラックのこの複数のレイヤーを分解し、可能な限り「純粋な」音楽や「純粋な」効果音を保存していくところにその第一の意義があると言える。そのうえで、それらの音がどのように映像と結びつけられたかという「文脈」がメタデータとして付与されれば、製作・研究・教育その他にとって有用なデータベース構築の可能性が出てくるに違いない。が、現在のところ、そういった動きはほとんど見られない。映画やテレビの音響資料は、各社が、あるいは録音技師などの個人が大量に所有しているケースが多いが、横断的かつ体系的なデータベースは存在しない。

テレビ等の映像アーカイヴの分野では「NHKアーカイブス」がかねてより知られているが、一般に公開されているものは少なく、なにより映像がメインで音資料は決定的に乏しい。ラジオ等の放送音源に関しては、放送局各社の共同事業として1991年に立ち上げられた「放送ライブラリー」があるが、これもまだ包括的とは言いがたく、そもそも映像との関連は薄いため本稿の趣旨からは逸れる。いっそのこと、もっと射程を広げて音(楽)のアーカイヴを考えてみると、「歴史的音盤アーカイブ推進協議会(HiRAC)」によってデジタル化され、国立国会図書館が提供している「れきおん」音源や、民謡等の録音資料ならば国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館のデータベース、またいわゆるポピュラー音楽については関西大学の「ポピュラー音楽アーカイブ」プロジェクト等もあるが、いずれも映像を伴う資料もあるとはいえ、映像音響のアーカイブという本稿の趣旨とはその発想が根本から異なる。また海外でも、フランス国立図書館の録音資料、アメリカ議会図書館の“National Jukebox”、イギリス図書館の“British Library Sound Archive”等々、デジタル化された音源のアーカイヴ公開はいよいよ充実してきているが、やはり、例えば歴史的な「サウンド・エフェクト」のアーカイヴなどというものは目にしたことがない。

なぜか。先述の言葉を再度用いるならば、映像から切り離された録音データにメタデータとしての「文脈」を付すことがきわめて難しいからだ。作曲家の自筆譜などは現存するものも多いが、録音技師/音響効果技師の撮影台本・メモの類が残っているケースは稀だという事もある。

たとえば──以下、わたくしごとになるが──、今まさに廃棄されてようとしている大量のオープンリール式磁気テープを抱えた映画会社がある。調査のためいくつかの音源にあたってみたが、有名作曲家の映画/テレビのための音楽の録音のほか、効果音・環境音等を含むサウンドトラック・テープが無尽層に所蔵されている。前者の価値はともかく、さて後者にはどのような意味が見いだせるか。例えば、好奇心といくぶんかの下心から、「乱交パーティー雰囲気」とラベリングされたテープを聴かせていただいたが、セックスにいそしむ複数の男女の声が延々と収録されているだけという「録音資料」で、その「価値」について考えているうちに頭が痛くなった。これはいったい、何ですか、「雰囲気」とはどういうことですかと録音技師の方にお聞きしたところ、ある作品の撮影時に録音した音声を、別の作品で使いまわす──例えば、隣室からあえぎ声だけが聞こえてくるシチュエーション──ためのストックだろう、とのご意見をいただいた(隣室で乱交?)。また、加えてお伺いした撮影の時期や状況に関する情報から判断するに、『セックスドキュメント エロスの女王』(中島貞夫、1973)撮影時の録音にほぼ間違いなさそうだという結論を得た。

当該テープが収められている箱には、「乱交パーティー雰囲気」以外の一切の書き込みがない。つまり、当時の現場を知るスタッフの協力なくして中身の「文脈」を知ることは、ほとんど不可能である。さらに、この資料の価値についていえば、上記中島作品の10年後にはアダルトビデオが大量生産され始めるので、セックス音声──たぶん、演技ではないだろうとのことだが──の「ドキュメント」としての意義もどこまであるのかよく分からない。この音源はやや特殊な例に思われるかもしれないが、他のさまざまな録音テープにも共通する問題点を明示しているという意味では典型的なサンプルと考えるべきだ。映像音響のアーカイブ化をプロジェクトとして展開させることが困難である理由がここにある。また当然、著作権やプライバシー、そして歴史的記録音声につきものの差別用語の問題なども考えると、オープンなデータベースとしてアーカイヴを公開することには何重もの制約が生じることになる。

とはいえ、映画やテレビ番組等の音響アーカイヴに関しては消極的にしか考えられないというわけではもちろんない。撮影所で他に聴かせていただいたテープの中には、例えば昭和50年代に録られた「テキヤの啖呵売」のようなものもあり、芝居ではない、当時の実際の啖呵売の音声は文化史的な資料ともなる可能性を秘めている。環境音の類であれば、サウンドスケープ論やいわゆる「生録」のコンテクストに引き寄せて考える余地もあるだろう。もちろん、狭義の音楽に関していえば、指揮棒をもつ作曲家本人の肉声やNGテイクの録音から、映像用音楽の制作プロセスを作家論・作品論的に分析することもできようし、場合によってはポストプロダクション段階のスタジオワークに関する知見を得ることも可能かもしれない。また、効果音の一部に関してはすでにアーカイヴ化が進められているが*1、映像に対する聴覚的感性の継承という意味においてもこういった動向が重要性をもつことは間違いない。

*1 例えば、大久保博樹・野村正弘「アナログ効果音のデジタルアーカイブ化」『コミュニケーション文化』第4号、2010年、45-53頁、および大久保博樹「音響効果技師の擬音のマイグレーションと課題──効果音制作の現状への再考──」『メディアと情報資源』第22巻第1号、2015年、27-34頁等を参照。

いずれにせよ、いま必要とされているのは、失われつつある録音資料および再生環境を早急に保存することであると同時に、あるいはそれ以上に、映像の音をアーカイヴ化するという発想にその根拠と建設的な論理を加えることだ。効率と功利性ばかりを重視する現在の貧弱な文化的・社会的状況に背中を押されてやみくもに資料のデジタル化を進めてみたところで、アーカイヴの方法論にアクチュアリティがなければ意義は生まれない。映像から引き離された「映像のための音」を保存・整理・活用するために必要なのはおそらく、なによりもまず「文脈」のアーカイヴ化なのだ。


※ 本稿執筆中だった2018年4月に「BBC Sound Effects」(英国放送協会)という効果音のデジタルアーカイヴが公開されていたことを校正段階で知ったので、ここに注記しておく。

長門洋平(京都精華大学)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行