研究ノート

「土である」という死の肯定 クトゥルー新世における思弁的寓話小説について

猪口智広

ダナ・ハラウェイが『困難(トラブル)と共にあること』(2016)の最終章に置いたのは、一篇のSF小説であった。2013年にフランスで開催されたワークショップで共作され、「カミーユの物語」と題されたこの物語が描くのは、近未来から数世紀先まで、地球上の動植物が大絶滅を迎える中、生態系と調和すべくゆるやかに人口を抑制して生きてゆく人々と、そのコミュニティで生まれ育つ5世代のカミーユである。主人公ともいえるカミーユたち「堆肥(コンポスト)の子ども」は、絶滅に瀕している種の遺伝子を組み込まれた共生生物として生まれた存在であり、共生相手の種が絶滅したとしてもその種が持っていた特徴を身体化しつづける。

共生、絶滅、そして記憶というテーマをランドール・マンローのウェブコミックから明確に引き継ぎつつも*1、題材を蘭の花から人に置き換えサイエンス・フィクションの趣向を加えた「カミーユの物語」からは、ハラウェイがこれまで論じてきたキメラ的存在の諸形象を思い起こさずにはいられない。人新世を「クトゥルー新世(Chthulucene)」と位置付けるハラウェイの近年の論考がまとめられた『困難とともにあること』が、新たな「宣言(マニフェスト)」として世に送り出された著書であるならば、堆肥の子どもたちは人新世におけるサイボーグたる存在なのだろうか。

*1 蜂と共生する蘭の花を題材としたマンローのこのコミックを、ハラウェイ自身も取り上げて論じている(cf. 2016b: 69–70)。
*2 2014年に行われたケアリー・ウルフとの対談において、ハラウェイは「クトゥルー新世宣言」(2016a: 294)という表現を用いて構想を語っている。「子作りではなく親類作りを」というクトゥルー新世のスローガンが、サイボーグ宣言や伴侶種宣言のスローガンと対置されている(2016b: 102)ことも、クトゥルー新世をめぐる記述が「宣言」に相当するものだと位置づけれらているという仮説を支持する。

『霊長類のヴィジョン』(1989)における霊長類学史の分析に代表されるような科学論──とりわけフェミニズム科学論──や、「状況に置かれた知」(1988)におけるフェミニズムの客観性についての議論など、ハラウェイの業績は多岐にわたる。しかしそうした数々の著作と比べても、「宣言」はひときわ特異な注目を集めてきたといっていい。それは「宣言」において用いられたさまざまな形象それ自体の魅力に加えて、それを通じて行われた存在論的な主張が人々を触発してきたからだろう*3。「サイボーグ宣言」(1985)がフェミニズム批評やポストヒューマン論をはじめ広範な議論を巻き起こし、現在も参照され続けているのは、20世紀末とそれ以降のグローバルな資本主義世界の現実における女性と、サイエンス・フィクションに登場するハイブリッドたちとを通じて、「わたしたちは皆サイボーグである」というメッセージを発したからこそである*4。一方、『伴侶種宣言』(2003)とそれ以降の諸著作において行われたのは、非人間存在との相互関係によって変質する人間存在の在り方を描いてきた人類学者たちを参照しつつ、犬を、とりわけハラウェイ自身の愛犬との協働のエスノグラフィーを主たる題材として、「共に食卓につく食事仲間(messmates at table)」たる伴侶という存在様式を提示し、「わたしたちは人間であったことなどない」と宣言することであった。

*3 例えば「サイボーグはわたしたちの存在論である」(1991: 150)という言明がその典型である。ハラウェイは自らの議論が認識論と存在論の双方にかかわるものであることを繰り返し論じている(cf. 1998: 78; 2016b: 127)。
*4 ただし、副島(1994)が正しく指摘しているように、サイボーグ宣言は本来政治批評として書かれた論文であり、単なる文学理論、あるいは単なる技術決定論としての読解によって「サイボーグ宣言」が持つ本来の批評性が見落とされることもままあった。

では、これらの「宣言」に続く第3の「宣言」において、サイボーグや伴侶種に相当するものはなんだろうか。「クトゥルー」という命名のハラウェイにとっての源泉は、古代の地母神や動物神たる女神の図像に描かれているような、あるいはその学名にクトゥルーを冠するピモサラグモPimoa cthulhuのような、触手的な(tentacular)大地の(chthonic)存在たちである。そうしてハラウェイは次のように述べる──「わたしたちはヒト(Homo)ではなく腐葉土(humus)である。わたしたちはポストヒューマンではなく堆肥(compost)である」(2016b: 55)。まさにクトゥルー新世の主役は土なのである。

しかしここでいくつかの疑問が生じる。第一に、「土である」ということには一体何が賭けられているのだろうか。サイボーグ宣言以降、ハラウェイは自らの宣言が技術楽観主義であると受容されることに抗し、とりわけ伴侶種宣言以降は明確にポストヒューマン批判を打ち出してきた*5。そのハラウェイが選び取った「ポストを共にする(com-post)」という存在様式は、いかにポストヒューマンと異なるのか。第二に、そうした土としての存在は、なぜ「堆肥の子ども」というSF的存在に結実して描かれたのだろうか。伴侶種をめぐる議論では、現実の犬たちについてのエスノグラフィーが描写の中心であるとともに、実在の動物から乖離した形象としての動物表象には厳しい批判が向けられていた(2008: 21, 27)。これに対し、「カミーユの物語」や先述のウェブコミックをはじめ、サイエンス・アートの数々、アーシュラ・K・ル=グウィンやオクタヴィア・バトラーのSF作品など、クトゥルー新世の諸形象には芸術や文学の領域に含まれるものが数多く取り上げられている。こうした事物と実世界の生物の距離は問題でないのだろうか。あるいはこうした諸形象は、ハラウェイがエスノグラフィーからフィクションへと回帰したことを示唆するのだろうか。

*5 ポストヒューマン批判についてはHaraway(2008; 2016a)を参照のこと。ハラウェイが問題視するのは、自然と社会の区分や非人間と人間の区分に依拠しているという点で、近代主義的なヒューマニズムと同様にポストヒューマン論も「人間例外主義(human exceptionalism)」的な思考だということである。それゆえ安易に「ポストヒューマン」に飛びつくのではなく、人間というカテゴリーを適切に問題化することこそが必要なのである(2008: 9)。またハラウェイは「ポストジェンダー」という用語についても同様に、ユートピア的な意味ではなくジェンダー批判の意味で用いていることを強調している(Lykke et al. 2003: 328–329)。ただし、「ポストヒューマンやポストヒューマン論者になりたいと思ったことは一度もない」(2008: 16)という言明を踏まえても、なおハラウェイをポストヒューマン論に位置付けるケアリー・ウルフのような立場もある(cf. 2016a: 261)。

先に第二の問いについて考えるならば、エスノグラフィーとフィクションを二項対立的なものとみなすことは、実のところ根本的な水準でハラウェイを読み落としていると言わざるを得ない。何故ならば、自然/文化の二分法批判と同様、物質的なものと記号的なものが結びついているということを、ハラウェイが繰り返し主張してきたからである。この視点に立てば、エスノグラフィーとフィクションはいずれも、物質性と記号性の、事実性と虚構性の双方を帯びた物語(ナラティヴ)あるいは語ること(ストーリーテリング)の実践として位置付けられる。クトゥルー新世の形象に生きた生物たちが含まれるのと同様に、一見フィクションが後景に退いているかに見える伴侶種の議論においても、エイリアンのようなフィクションの存在が持つ批判力に目が向けられている(2008: 217, 287-292)。実世界との距離は、こうした形象の持つ力の毀損を必ずしも意味しない*6

*6 「近さなき親密性(intimacy without proximity)」は、ジェイコブ・メトカーフが熊との伴侶種関係を論じるにあたって用いた表現である。メトカーフが神話における表象の分析を行ったのに対し、ハラウェイはこの概念をサイエンス・アートの批評的可能性を論じる中で援用している(cf. 2016b: 79)。ただし、こうしたアートにおける表象と、フィクションにおいて創作された存在を、完全に同一視できるかについてはまた別に論じる必要があるだろう。

こうした芸術表現への着目がより大きな潮流となりつつある中で*7、ハラウェイは芸術や文学における表現のもつ批評性を適切に評価するための言葉を模索し続けているように見える。クトゥルー新世の「宣言」においては、「思弁的寓話小説(speculative fabulation)」という用語がその端的なものである。ハラウェイはSFの二文字を、サイエンス・フィクションのみならず科学的事実(science fact)や思弁的フェミニズムなど、さまざまな語りの総称として用いているが、とりわけこの思弁的寓話小説という概念には、字義的な小説のみならず、異なる視点や世界を提示することによって実世界を異化する契機を持つような、想像力を駆使したさまざまな創造が包摂されている。

*7 例えば、存在論的転回以降の人類学者たちの一部は、ハラウェイの議論を積極的に援用するのと並行して、非人間の他者をいかに代弁するのかという表象の問題に取り組み、芸術表現への関心を深めている(Kirksey & Helmreich 2010)。

こうした異化作用については本稿の最後に立ち戻るとして、いったん第一の問いへと考察を進めたい。「わたしたちは土である」という言明は、人新世が地質年代用語として提案されたものであることを思い出させる。人間の活動の影響が全地球的に、かつ不可逆に刻まれつつあることを示唆するために、完新世の後に到来しつつある地質年代として提案されたのであった。しかしハラウェイにとっての人新世とは、時代区分というよりむしろ、中生代と新生代を画すK-Pg境界のような、種の大量絶滅が不可避的に生じる断絶である(2016b: 100)。生じつつある事態を前に、わたしたちはいかなる態度を取るべき態度は、技術的介入による救済を楽観的に待ち望むことでも、もはやどうすることもできないと敗北主義的に冷笑したまま沈黙することでもない。ハラウェイはトム・ファン・ドゥーレンの議論を参照しながら、責任を引き受け、生と死の絡み合いを理解することの契機を、死を悼むことに見出している(37-40)。

死と責任についての議論は、動物を殺すことについての議論にもみられる。ここではヴェジタリアニズムやヴィーガニズムを掲げるフェミニズムに一定の理解が示されつつも、殺すことを免れた生が可能であるかのような主張は、超越論的ヒューマニズムの誤りであるとされている。殺してもよい存在とそうでない存在を区分することが問題なのであり、殺すことを計算によって正当化するのが不可能であるからこそ、応答が倫理的責任として重要なのだと論じるハラウェイは、責任ある形で殺すことだけではなく、責任ある形で殺されることの必要性をも提起している(2008: 70-73, 79-82)。

こうした態度が一歩間違えれば単なる現状追認に陥りかねないものであることは否定できない。それでもハラウェイが死を適切な形で引き受けることを強調するのは、そこに根源的な水準での意味を見出しているからである。

わたしの視点からは、死ぬことの肯定が絶対に必要であるように思われます。死を称賛するという意味ではなく、遠慮抜きに言えば、死すべき運命がなければわたしたちは無であるという意味の肯定です。言い換えれば、死を超越するという幻想は、わたしが大事にしているすべてのことに反しているのです。(1998: 116)

ポストヒューマンと堆肥を分かつのは、まさにこの点にほかならない。「堆肥の子ども」たちは共生相手の種の絶滅を看取りうる存在であるが、死を免れている存在ではない。他の生と結びつき、共に土に還るという存在様式は、ユートピア的な不死性の対極にありつつも、別種のユートピア的な死の称賛ではなく、「痛みを生産的な何かに変える」(115)契機として死すべき運命(mortality)や有限性を引き受けることを提示しているといえるだろう。

こうした死や有限性の位置付けには、ハイデガーからの影響(cf. 1998: 21)もあるだろうが、ハラウェイがそれ以上にフェミニズムからの影響を語っている(115)ことを最後に指摘しておきたい。そもそも寓話小説という用語も、ロバート・スコールズによる提唱からマーリーン・バーの「フェミニズム寓話小説(feminist fabulation)」へという経緯をたどった用語であるが(cf. 小谷 1993)、思弁的寓話小説の異化作用たる現実世界への批判力は、ハラウェイがベアトリス・プレシアドの「オートル・モンディアリゼーション(autre-mondialisation)」やイザベル・スタンジェールの「コスモポリティクス」に見出した(cf. Haraway 2008)ような、プラグマティックな実践による世界の更新と双璧をなすものである。この両者の結びつきを丹念に見てゆくことは、多様な非人間存在を議論の対象としているハラウェイに現在も受け継がれているフェミニズムの批判力*8を明確化することにつながるだろうが、それについてはまた稿を改めて論ずることとしたい。

*8 ハラウェイをラトゥールから、あるいは思弁的存在論の潮流から一線を画すものにしているのはまさにこの点にあると筆者は考えている。


参考文献
Haraway, Donna J., Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, Routledge, 1991.
Haraway, Donna J., How like a Leaf: An Interview with Thyrza Nichols Goodeve, Routledge, 1998.
Haraway, Donna J., When Species Meet, Minnesota University Press, 2008.
Haraway, Donna J., Manifestly Haraway, Minnesota University Press, 2016a.
Haraway, Doona J., Staying with the Trouble: Making Kin in the Chthulucene, Duke University Press, 2016b.
Kirksey, S. Eben and Stefan Helmreich, “The Emergence of Multispecies Ethnography” Cultural Anthropology 25 (4), 2010, 545-576.
小谷真理、「フェミニスト・ファビュレーションとは何か──マーリーン・バーまたはフェミニストSF批評の新展開」『文芸』32巻3号、1993年、330-336頁。
Lykke, Nina, Randi Markussen, Finn Olesen, and Donna Haraway eds. “Cyborgs, Coyotes and Dogs: A Kinship of Feminist Figurations” and “There are always more things going on than you thought!: Methodologies as Thinking Technologies” The Haraway Reader, Routledge, 2003, 321-342.
副島美由紀、「ポスト・ヒューマン時代の政治的想像力、あるいはアイロニカルな神話──ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」を読む その(1)」『小樽商科大学人文研究』88号、1994年、175-193頁。

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行