研究ノート

爆縮による爆発 「イン・ヤー・フェイス演劇」における攻撃性に対する一考察

關智子

はじめに

1990年代半ば、ロンドンの演劇界では若手の劇作家達によって一大潮流が形成されていた。批評家のアレックス・シーアズ(Aleks Sierz)はそれらに共通する特徴を抽出し、「イン・ヤー・フェイス演劇(in-yer-face theatre)」と称した*1。この潮流における特徴は、登場人物達が口汚く罵り合う、暴力的・性的行為を舞台上で行うといったアグレッシヴさが第一である。だがこれまでもイギリスのみならずヨーロッパの演劇史には、その攻撃性を特徴する潮流が現れている。イン・ヤー・フェイスはそれらの演劇とは何が違い、その攻撃性とはどのようなものなのか。この問いについて考察する。

*1 伊藤寧美はロンドンを中心とする潮流として「イン・ヤー・フェイス」概念について論じている(口頭発表「"In-yer-face theatre"再考:この言葉の持つ射程」2014年日本演劇学会)。伊藤氏には発表レジュメの閲読をお許しいただいた。この場を借りてご厚情に感謝申し上げる。

イン・ヤー・フェイス演劇とは

「イン・ヤー・フェイス」とは、シーアズ自身がニュー・オクスフォード英語辞典を引用しながら説明しているように、明らかに攻撃的かつ挑発的な態度を示す言葉である*2。 傍若無人な振る舞いを指す「イン・ユア・フェイス(in-your-face)」の砕けた表現であり、言葉それ自体からは文字通り「顔にぶっこむ」、つまり顔面を殴りつけるという印象を受ける。同時期にイギリスでは、トニー・ブレア(Tony Blair)前首相が率いる新労働党政権の下で「クール・ブリタニア(Cool Britannia)」を提唱する文化発展が起きていた。YBA(Young British Artists)と呼ばれる気鋭の芸術家達が、伝統やルールから逸脱しタブーを打ち破る作品を次々に発表しており、イン・ヤー・フェイスもその傾向に類する活動とみなすことができるだろう。

*2 'The phrase 'in-your-face' is defined by the New Oxford English Dictionary (1998) as something 'blatantly aggressive or provocative, impossible to ignore or avoid.'' (Sierz, Aleks. In-Yer-Face Theatre, London: Faber and Faber Limited, 2001: 4)

代表的な作家としてはアントニー・ニールソン(Antony Neilson)、サラ・ケイン(Sarah Kane)、マーク・レイヴンヒル(Mark Ravenhill)を筆頭とし、その他にもフィリップ・リドリー(Philip Ridley)、ジョー・ペンホール(Joe Penhall)、マーティン・マクドナー(Martin McDonagh)らによる一部の戯曲がその潮流に属するものとされている。

シーアズは何がイン・ヤー・フェイス的かという説明を、「言葉は口汚く、登場人物達はどうでもいいことについて話し、服を脱ぎ、セックスをして、お互いを辱め、不快な感情を経験し、突然暴力的になる」としており*3、(恐らく意図的に)厳密に限定的とは言い難い。その後本人による補足論文がいくつか発表され*4、また90年代の演劇についての論文集におけるいくつかの論文ではイン・ヤー・フェイスが参照されており*5、この概念に対する批評的検証も行われている*6。それらは示唆的ではあるが、ここではイン・ヤー・フェイスをジャンルのように捉えたり、その概念の妥当性を検証したりするのではなく、あくまでひとつの傾向として取り上げその演劇的特徴を明らかにすることを試みる。

*3 '[T]he language is filthy, characters talk about unmentionable subjects, take their clothes off, have sex, humiliate each another, experience unpleasant emotions, become suddenly violent.' (Ibid, 5)
*4 Sierz, Aleks. 'Still In-Yer-Face? Towards a Critique and a Summation.' New Theatre Quarterly. Vol. 18, Issue 69. Cambridge University Press, 2002: 17-24.
*5 シーアズ自身がイン・ヤー・フェイスにおける物語性の特徴について論じている(''We All Need Stories': the Politics of In-Yer-Face Theatre', 23-37)。上記注4も含め、伊藤参照(注1)。他、ケン・アーバン(Ken Urban)はイン・ヤー・フェイスをニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)とアルトー(Antonin Artaud)の概念を援用しながらニヒリズムという観点から再評価している('Cruel Britannia', 38-55)。またこの他の収録論文も、イン・ヤー・フェイスを参照しつつ個別の作品を分析している。(どちらも以下に収録。Eds. Rebecca D’Monté, and Graham Saunders. Cool Britannia?: British Political Drama in the 1990s.New York: Palgrave Macmillan, 2008.)
*6 例として以下を参照。Zarhy-Levo, Yael. 'Dramatists under a label: Martin Esslin's the Theatre of the Absurd and Aleks Sierz's In-Yer-Face Theatre,' Studies in Theatre and Performance. Vol. 31, No. 3. London: Routledge, 2014: 315-326.

攻撃の対象の違い:「怒りの演劇」との比較

若手の劇作家によるアグレッシヴな作品として代表的なのは、イギリスにおいては「怒れる若者達(Angry Young Men)」の由来となった、ジョン・オズボーン(John Osborne)による『怒りをこめてふり返れ』(Look Back in Anger, 1956)とそれに類する劇作家・戯曲だろう。ジョン・ラッセル・テイラー(John Russell Taylor)は「怒りの演劇」として*7、それらの戯曲作品に共通する、特に労働者階級の若者が社会に対する不満を爆発させるエネルギーを有するという特徴を指摘した。

*7 実際には著書名は『怒りとその後』(Anger and After, 1962)だが、喜志哲雄が「訳者あとがき」で述べているようにそれでは意味が通り難いので、ここでは訳書にならい「怒りの演劇」と呼ぶ(ジョン・ラッセル・テイラー『怒りの演劇 イギリス演劇の新しい波』喜志哲雄他訳、研究社、1975年)。

作品が負のエネルギーを有し、登場人物達が作中で感情を爆発させるという点において、「怒りの演劇」とイン・ヤー・フェイスは共通しているように思われる。シーアズ自身も、その著書の序論において演劇史上の挑発的行為を簡潔に参照しており、その中で「怒りの演劇」に言及し、イン・ヤー・フェイスに対する重要な影響を認めている。彼が特に着目しているのは『怒りをこめてふり返れ』のジミー・ポーター(Jimmy Porter)の台詞における荒っぽい言葉遣いと激しい苛立ちを含む多弁、そしてそれによって作られる作品全体の乱暴なトーンである。

ロイヤル・コート劇場における1956年5月8日の『怒りをこめてふり返れ』の伝説的な初日の夜、批評家の気分を害したのは、みすぼらしい舞台セット(ロンドン周辺の住宅のリビングというよりはノッティンガムの寝室兼居間)だけではなく、作品の怒鳴り散らす調子と、特にそのアンチヒーローであるジミー・ポーターが使う言葉である*8

*8 In-Yer-Face, 15.

ここで指摘されているように観客に嫌悪感を催す言葉遣いは、イン・ヤー・フェイスにも頻繁に見られ、また登場人物間の衝突が多く描かれるという点も共通している。

では両者の違いはどこにあるのだろうか。まず「怒りの演劇」では階級社会における抑圧を背景として色濃く描いており、中心的なテーマにすらなり得るが、イン・ヤー・フェイスにおいては、登場人物が労働者階級であったりするものの、前景に強く押し出されているわけではない。このことにより、「怒りの演劇」では攻撃の主たる対象が登場人物の属する社会に設定されていたのに対し、イン・ヤー・フェイスでは各作品で対象が異なる、あるいは対象が明確にされていない、または一貫性がない。このため、イン・ヤー・フェイスにおけるアグレッシヴさは「怒りの演劇」とは異なり共通していないと言える。

このように、作品によって攻撃性の質が異なるように思われるイン・ヤー・フェイスだが、その共通の対象を見出すとすればそれは観客である。シーアズはその著書の全体を通じて、この作品群が観客を強く意識するものであることを指摘している。もちろん戯曲作品とは上演の際の観客に向けて書かれるものであり、「怒りの演劇」も劇中の怒りを通して観客にその怒りを届けるものではあるが、その攻撃の対象は第一に劇世界内にあり、それと比較してイン・ヤー・フェイスの暴力的・性的に過剰なまでに過激な描写は、劇中の対象以上に観客の感情を揺さぶるためにあると考えられる。

閉じることで開かれる演劇

その攻撃性が観客を対象としているということは、作中の要素が劇世界内で完結せず客席に開かれていることを意味する。だとすれば、イン・ヤー・フェイスは例えばベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht)の叙事的演劇やペーター・ハントケ(Peter Handke)の『観客罵倒』(Publikumsbeschimpfung, 1966)、アントナン・アルトー(Antonin Artaud)の残酷演劇等の、いわば観客の存在を作品の一部に組み込むような演劇に類するものとして認めることができるのだろうか。実際にこれらの演劇はしばしば観客に違和感や嫌悪感を抱かせ、彼らの慣習的な態度・思考に対して挑戦するし、シーアズ自身、イン・ヤー・フェイスを論じる前に観客を挑発する歴史を振り返り、その流れを汲むものとして捉えている*9

*9 In-Yer-Face, 10-30. ただしシーアズはハントケについて触れていない。

だが両者の決定的な違いとしてイン・ヤー・フェイスの多くは、それらの演劇とは異なりいわゆる第四の壁を崩さないという点が挙げられる。ブレヒトやハントケの作品に類するものは、劇世界をそれ自体で完結したものとせず、観客の存在を認め、客席にまで劇空間を拡大する。またアルトーの残酷演劇はミメティックな再現=表象(representation)を超越し、パフォーマンスに近いものを目指す。これに対してイン・ヤー・フェイスは観客の存在を劇世界に含まず、過激な行為を展開するがそれは再現=表象の限りに留まる。

したがってイン・ヤー・フェイスの攻撃性は、観客を対象として強く意識しながら、しかし直接的には向かわないものであることがわかる。ではその攻撃性はどのようにして観客に向かうのか。シーアズは、イン・ヤー・フェイスの最大の特徴の一つとしてショックの使用を挙げ、それが観客と作品の関係性を問い直すものであることを指摘し*10、そのショックが次のものによって引き起こされると述べている。

*10 'The most successful plays are often those that seduce the audience with a naturalistic mood and then hit it with intense emotional material, or those where an experiment in form encourages people to question their assumptions. In such cases, what is being renegotiated is the relationship between audience and performers – shock disturbs the spectator's habitual gaze.' (In-Yer-Face, 5)

それ[イン・ヤー・フェイス演劇]は通常、タブーを破ったり、しつこく下品な言葉を用いたりし、時に冒涜的で時にポルノグラフィックであり、また非常に個人的な行為を公に見せる。これらはショックの力を持ち、侵犯の人類学と受容の境界への実験を構成する*11

*11 'Still In-Yer-Face?,' 19.

ここでシーアズが公の場での私的な行為の展開について触れていることに着目したい。つまりイン・ヤー・フェイス演劇は、その私的な行為が展開される場が劇的世界では私的な場であると同時に劇場という公の空間でもあるという、演劇の慣習に忠実であり、また同時にそれを逆手に取ることで観客に攻撃を仕掛けているのである。言い換えれば、暴行、セックス、排泄、摂食、死を含むこれらの究極的に私的な行為が展開され、劇世界が本来閉じられているはずのものであるからこそ、その攻撃性が客席に開かれ、観客は心理的に強く揺さぶられるのである。

最後に

以上のことから、イン・ヤー・フェイス演劇における攻撃性は内側(劇世界)に向かうことで外(観客)へ開かれる性質のものであることが明らかになった。いわば、爆縮(implosion)によって爆発(explosion)が引き起こされる演劇だと言える。

イン・ヤー・フェイス演劇がその影響力を拡大していた同時期に、ドイツを中心とするヨーロッパ大陸ではハンス=ティース・レーマン(Hans-Thies Lehmann)によって提唱された「ポストドラマ的演劇」(Postdramatisches Theater)が一大潮流を形成している。一層外へ開いていこうとするポストドラマ的潮流とは一線を画する傾向がイギリスでは展開されていたことについて、その精神性の相違についても検証する必要があるため、今後の研究主題としたい。

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行