翻訳

郷原佳以、ほか(訳)

モーリス・ブランショ(著)

終わりなき対話III 書物の不在(中性的なもの・断片的なもの)

筑摩書房
2017年11月
複数名による共(編/訳)著の場合、会員の方のお名前にアイコン()を表示しています。人数が多い場合には会員の方のお名前のみ記し、「(ほか)」と示します。ご了承ください。

ブランショの1969年の大著『終わりなき対話』は2016年から三分冊として翻訳が刊行されており、本書はその第三部の全訳である。第一部・第二部が哲学的考察を中心としていたのに対し、第三部「書物の不在(中性的なもの、断片的なもの)」は第一部・第二部での他者論や言語論、記憶論等を踏まえたうえで、改めて著者の本領である文学論に戻り、「書くこと」において何が賭けられているのかという問いに取り組んでいる。巻末の断章的テクスト「書物の不在」は第Ⅰ巻の「はしがき」と呼応しており、『終わりなき対話』全体の結論の役を果たしているようにも見える。しかし、「書物の不在」という表題、また、第三部の表題からも暗示されるように、第三部で提示されるのは、統一された言述としての〈書物〉へと収斂することのない、反復と中断を核とした言語の様態である。したがって、「書物の不在」は『終わりなき対話』という書物を閉じると同時に文字通り「終わりなき対話」へと開いていると言える。実際、第三部も第一部・第二部と同様、論文だけでなく対話体テクストや断章を多く含み、書物のうちに非連続性を刻み込んでいる。

本書には18篇の論文や対話体などのテクスト、さらに、それらの間に、目次には反映されていない「括弧」と題された断章的なテクストが配されている。論じられている対象は、ランボー、アルトー、シャール、ジュール・シュペルヴィエル、バシュラール、ベケット、フローベール、ルーセル、サロート、ガートルード・シュタイン、ドイツ・ロマン主義、ブレヒト、コルネイユ、カフカ、ブルトン、マラルメ、など多岐にわたる文学者である。ただし、単なる作品論の集積ではなく、第一部・第二部での考察を踏まえた独自の概念や命題の追究となっている。

そのひとつは、表題にもある「中性的なもの」である。「中性的なもの」は第一部の他者論において「他なるもの」の開示としての「言語の経験」として登場していたが、第三部ではそれが文学的言語の問題として展開される。第三部ではとりわけルネ・シャールの詩の言葉のうちに具体的に「中性的なもの」が見出され、それが第二部でも論じられた古代の哲学者ヘラクレイトスの断片的な言葉と重ね合わされる。彼らの「中性的な」言葉遣いは可視/不可視の認識モデルから逃れたところで「未知なるもの」を指し示すのだとされる。

もうひとつは、第二部から受け継がれた主題の展開だが、「中性的」で非人称的な言葉は忘却を核とした記憶の言葉であるという命題である。第三部では、その原初形態として、語りによって伝承される叙事詩が繰り返し取り上げられ、またそこから、書くことと読むこと、さらには批評や注釈の終わりなき絡み合いとしての文学言語のありようが示唆される。「書物の不在」において、律法に対する注釈の蓄積自体が律法となるユダヤ教への言及が見られるのも、こうした問題意識においてのことである。「中性的な」文学言語、あるいは、「語りの声」により要請される文学言語とは、起源の忘却のうえで自己注釈を積み重ねる叙事詩としてのエクリチュール、言い換えれば、「終わりなき対話」だということになる。

かくして、『終わりなき対話』は第三部において、「エクリチュール」とは忘却を核とした叙事詩を書き続けることであるという大胆な命題の提示に至った。文学史的には議論の余地のある命題であるかもしれないが、現代の詩や小説、批評について考えるうえでも大きな示唆を与えてくれるように思われる。本書の思索と形式はその後の二冊の断章集、『彼方への一歩』と『災禍のエクリチュール』へと引き継がれることになる。

(郷原佳以)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行