単著

佐藤嘉幸、廣瀬純

三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学

講談社
2017年12月

「革命」という主題が、資本主義の打倒という戦略的目標が、ドゥルーズ=ガタリの全仕事の核心にある。ドゥルーズ=ガタリの哲学が首尾一貫して政治的であったことを、『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』は我々に再確認させる。佐藤嘉幸=廣瀬純の精緻にして鋭敏な分析は、歴史的読解と理論的読解を豊饒なかたちで交錯させ、ガタリとフーコーを前景化させながら、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』という三つの著作に込められた三つの異なった戦術を克明に描き出していく。

ドゥルーズとガタリは、欲望の闘争をとおした資本主義の転覆という戦略は一貫して保持しつつも、世界の情勢に応答するなかで、戦術を絶えず更新していった。68年5月/ロシア革命にたいしては分裂分析を、70年代/南北問題にはマイノリティ性への生成変化、ポスト社会主義/NGOにおいては革命性への生成変化を、というように。ここでイメージされる革命とは、既存のマジョリティの奪取でもなければ、犠牲者たるマイノリティとの単なる同一化でもない。それは、万人が内部から下部からマジョリティ/マイノリティという配分そのものを切り崩し(脱領土化)、改めて初めてマイノリティ的なものになり/マジョリティであることを恥じ、無限に生成変化して利害に従属も還元もされない新たな生を共に欲望していくこと(再領土化)なのだ。

しかし佐藤=廣瀬が正しく指摘するように、ドゥルーズ=ガタリの政治哲学をいまここにおいて引き継がんとする者は、資本主義打倒という彼らの戦略はそのまま受け継ぎつつ、戦術のほうは、現代の運動の趨勢にあわせて新たに描出していかねばならない。「分裂分析と私たち」と題された結論は、その意味で、本書の真の基底をなすものである。それは、現在の新自由主義的な暴力を訳知り顔で受け入れ、目も耳もふさぎ、琉球民族や福島住民に知らんぷりを決め込んでいる日本にたいする異議申し立てであり、読む者を震撼させずにはおかない。怒りや恥かしさをかきたてられずにはいられない。しかし佐藤=廣瀬に導かれて自分自身のドゥルーズ=ガタリを自らの内に見出すとき、我々は、自ら闘争し自ら決定する福島住民や琉球民族の生成変化のプロセスに巻き込まれ、功利的計算からは決して析出されないような新たな生を共に創り始め、生き出し、世界全体への生成変化に入るだろう。本書が我々に手渡すのは、絶望ではなく、希望である。

(小田透)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行