単著

西原志保

『源氏物語』女三の宮の〈内面〉

新典社新書
2017年12月

「女三の宮」という人物は、源氏物語のいわゆる第二部、光源氏が四十歳を超えてから正妻として源氏の邸、六条院に移ることになった皇女である。当時十代前半。この結婚は、それ以前には六条院の正妻格であった紫の上と光源氏との間に決定的な亀裂を生んだ。また、柏木という若い貴公子との密通とそれによる「不義の子」(後の薫)の誕生によって結果的に光源氏世界に痛撃を与えることになる。彼女は、源氏物語第二部の悲劇に深く関わる人物である。にも関わらず──とひとまずは言っておこう──本人は才気に欠け感性の乏しい、魅力に欠けた存在で、身分だけが高い内容空疎な存在として語られている。大勢の立派な女房たちに囲まれ、高級な衣にくるまれることによってその中身のなさがいよいよ際立つ。研究史上でもそのようにのみ扱われることが多かった。

本書は、女三の宮の「なかったことにされる」内面を辿る。そしてそのことを通じて、何が「内面」であり、何が「内面」ではないと考えるのか、という私たちの近代的な内面観に囚われた問題を浮かび上がらせる。と同時に、従来「内面ではない」とされてきたような女三の宮に特異な内面のあり方を描き出す。切れ切れでばらばらな自己、ちいさな「私」の感覚。女三の宮の内面は近代リアリズムの枠組みに照らして「なかったこと」にされているが、決してそうではない、と本書は主張する。そして、女三の宮の物語を辿ることで照らし返されるのは私たちの近代的「内面」観のみではない。

女三の宮の成長は、男性との性愛に違和感と恐怖を抱き、出家して離脱する過程として語られている。これは異性愛体制の中の「女」の成長物語の相対化と言え、女は男を愛するべきという「恋愛」観(これは男女の関わりを主題の一つとする源氏物語にとってもベースとなっている価値観である)が揺さぶられる。さらに、女三の宮は出産を契機に死にたいと、また出家したいとも思うようになる。女三の宮のありようによって、女は子どもを愛するはずという母性神話も相対化されている。

本書で「恋愛」に対置されているのは、父との濃密なつながりである。女三の宮の物語は結婚によって家を出た娘が、再び父の元へ戻るという構造を持つ。Ⅳ章では、森茉莉『甘い蜜の部屋』と対照され、女三の宮の〈内面〉の持つ現代性が検討される。この二つの物語の娘たちは男性を愛さず、それぞれの父だけを恋しく思う。そしてこの世・現実以外に、他の男を排した父と娘の場(朱雀と女三の宮の極楽浄土、林作とモイラの「甘い蜜の部屋」)が想定される。違いはモイラとは異なり受け身で被害者的な感覚である女三の宮のありようであり、男性からの一方的な侵入に始まる出来事であっても恋愛となってしまう平安時代の物語において、この感覚は「現代的」であると著者は主張している。

著者西原のこれまでの女三の宮論が本書にまとめられたことで、最初に述べたような女三の宮の位置づけに対する議論が促されるだろう。私としては本書Ⅱ章2節「女三の宮の内面」に叙述された「女三の宮は持続する現在の中を生きている」、「言葉にならないような深層を必要としない」等といった指摘に、女三の宮が現代の精神医学ならば確実に病名を得るだろう(しかし必ずしも「病」としてのみ扱うべきでない)特質を持って造型されていることに気づかされたことを記しておきたい。この人物の導入が源氏物語の特質とも言える象徴の世界(季節や景物が人物と喩的に重ね合わされる他、人物の衣装や楽音を叙述する言葉がその人物の精神や出自を指し示す、等)を揺るがすとしたら、問題の射程はかなり大きなものになるはずである。

(斉藤昭子)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行