研究ノート

ミイラはゾンビか?  『ザ・マミー 失われた砂漠の女王』とハリウッドのモンスターたち

福田安佐子

ミイラはゾンビだろうか?この矛盾した疑問文は、『ザ・マミー 失われた砂漠の女王』(2017、以下『マミー』と省略する)についてだと言えば、理解してもらえるだろう。本作に登場するミイラとなったものたち、もしくはミイラに不死の呪いにかけられたものたちが腐敗した身体をもち、集団で襲いかかってくる姿は我々に馴染み深いジョージ・A・ロメロの考案したゾンビの姿そのものであり、または彼らがロンドンの地下鉄の線路を逃げる主人公たちを追いかけるシーンは、『28日後…』(2002)におけるマンチェスターへ向かう道中のトンネルシーンの彷彿とさせた。もしくは、死んだ時の姿を保持したまま主人公に親密に語りかける友人のニック(ジェイク・ジョンソン)は、『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004)のエド(ニック・フロスト)や、または『高慢と偏見とゾンビ』(2016)のフェザーストーン夫人(ドリー・ウェルズ)のように、亡霊や幻影のように主人公に悪魔的に囁く、昨今のゾンビ映画の一つのクリシェを想起させる。またはこういってよければ、砂漠の砂塵、ロンドンの大都会ではその代替としてのガラスの粉塵が主人公たちを追いかけてくる様は、CGによって作られた21世紀的なゾンビ、例えば『セル』(2016)や『ワールド・ウォー・Z』(2013)の、もはや大衆というよりは個々の身体性を失って一つの群れとなった、逃れようのないアポカリプスを創造するゾンビたちのようにも見える。

しかしながら、『マミー』における一見ゾンビのようなこのミイラたちは、正確には「ゾンビ的」ではない。そもそもゾンビとは死してなお動く身体、もしくは魂が奪われているにもかかわらず動く肉体であるが、一方でミイラとは、魂が戻ってくるための器として保持された肉体であり、またいわゆる「ミイラの呪い」とはそのような神聖な肉体やその墓を冒涜した人々が不審な死を遂げる、といった類の逸話であり、ゾンビとは全く異なる出自を持つ。そして、ゾンビが死のもっとも確実な証拠である「腐敗」という徴候をその身体に刻みつけているとすれば、ミイラはむしろ「腐敗」しないことを目標に作り出されたものであり、この二つのモンスターは全く正反対の性質を持つ。さらには、『マミー』の有象無象のモンスターたちに限っても、ゾンビの有する最も政治的な比喩、すなわちゾンビ化すれば皆平等に同じゾンビになる、という民主主義的な教義は反映されていない。すなわち、同じ呪いにかかりながら、いわば群れとなってうごめくしかないもの、もしくは友人ニックのように死ねない身体に苦しむものがいる一方で、主人公のトム・クルーズは、呪いの対象に入りながらも、腐敗することはなくむしろその肉体美はさらに強調され、「究極の悪」の王となる。さらには美しい姿のまま蘇った女ミイラ、アマネットも存在する。彼女は自身の呪いによって作り出したミイラや砂塵を意のままに操る女王であり、自身のつがいとしてトム・クルーズを選んだのである。このような格差に鑑みれば、本作のモンスターたちはゾンビ的というよりもドラキュラ的なものに近いと言えるだろう。すなわちドラキュラとは、その血によって人間を吸血鬼へと変えうるのだが、伯爵によって選ばれたものだけが見目麗しく人間らしさを完璧に保持した吸血鬼一族の一員になれる一方で、眷属と呼ばれるようななりそこないや、またはコウモリやネズミの大群が存在し、彼らは伯爵の忠実なる下僕として動く。つまりゾンビが民主主義的であると言うならば、ドラキュラは血によって成立する貴族社会なのであり、さしずめ『マミー』は婚姻や任命からなる王権制をとっていると言えるだろう。

とすれば、この『マミー』は、昨今のゾンビ映画ブームにのり、それによく似たモンスターや映像を提示しつつも、エジプトを舞台にした吸血鬼伝説の焼き直しであると言えるだろうか。または、トム・クルーズが選ばれた「究極の悪」という王と、ゾンビ的なミイラたちとの対比は、ドラキュラ伯爵とその眷属たちとの関係の再生産なのだろうか。もしそうであるならば、『マミー』のラストでは、なぜ悪となったトム・クルーズは倒されず、またトムの中に入り込んだ悪が追い出されることなく保持されたまま物語は終わるのだろうか。これらの問いを言い換えるならば、これまで多くの物語やモンスターものの映画が反復してきた、善と悪または正常と異常といった二項対立の枠組みに対して、『マミー』はそれらを転覆も再考もしないのはなぜか、というものである。

この問いに対し、ここで提示する答えは単純である。すなわち、本作での「モンスター」を演じる俳優が「トム・クルーズ」だからだ。トム・クルーズによるモンスターが、ダーク・ヒーローでもなく、CGによって面影だけを残した怪物でもなく、単なる「悪」の器としてそのままの姿で提示されるところに、この作品の新奇性があるのだ。これを説明するためにも、以下では『マミー』の元ともなった、1930年代の「モンスター」や「モンスター俳優」に立ち戻ることによって、現代のハリウッド・スターと、初代のモンスターを演じた俳優たちとに向けられたまざしの間に存在する差異を明らかにする。

そもそもこの『マミー』は、「ダーク・ユニバース」プロジェクトの第1作として構想されている。このプロジェクトは、1930年代から50年代にかけてユニバーサル社によって制作された一連のモンスター映画を現代に再生させること、を目標としている。現在のところ、第2作目にはハビエル・バルデムを主演に『フランケンシュタインの花嫁』、さらにはジョニー・デップを主演に『透明人間』を制作することがほぼ決定しており、その後の展開として『狼男』『ノートルダムの傴僂男』『魔人ドラキュラ』などのタイトルが挙げられている。これらの作品群は単なるリブートではなく、「マーベル・シネマティック・ユニバース」や「DCユニバース」、そしてゴジラとキングコングの世界をつなげる「モンスターバース」などのように、シリーズ中の作品同士が有機的につながり、ゆるやかに同じ世界観(ユニバース))を有するように構想されたプロジェクトである。いわば娯楽作品、B級作品と目されてきた「モンスター」映画を、ブロックバスター映画として取り上げるこのプロジェクトの新奇性は、モンスター同士の集結なのだろうか。しかしながら、モンスターもしくはホラー映画史において、それまで異なる物語に属していたモンスターたちが、対決、もしくは共闘することは珍しくない。古くは、『フランケンシュタインと狼男』(1943)または『キングコング対ゴジラ』(1962)が、身近な例としては『貞子vs伽倻子』(2016)が思い浮かぶように常套手段ですらある。ゆえに「ダーク・ユニバース」プロジェクトの特異点を探るためには、ここでは、モンスターの集結だけではなく、モンスターとして何が演じられていたかに着目する必要がある。

『マミー』は、1933年のボリス・カーロフ主演による『ミイラ再生』のリブート作品に位置付けられる*1。とはいうものの、本作で再生しているのはミイラだけではない。この30年代のハリウッドからはミイラの他に、ジキル博士(ラッセル・クロウ)が呼び出されている。さらには、彼のヴンダー・カンマーのような研究室には半魚人の腕、吸血鬼の頭蓋骨などが、シリーズ続編を示唆する小道具として復活している。その意味では、『マミー』でのミイラの呪いを受けた有象無象のモンスターたちは、ドラキュラの眷属たちの復活か、もしくは、残念なことに現在のところシリーズには入っていないゾンビたちが、主役級のモンスターでなくとも、その形態だけ復活させてもらっている、とも言えるかもしれない。一方で、『ミイラ再生』における「主役」のモンスターとは、ボリス・カーロフ演じるミイラ男であったが、実際には包帯で巻かれた姿で登場するのは冒頭のみで、ほとんどのシーンでは、少し挙動不審ではあるが優雅な物腰のエジプト人老紳士の姿をしていた。しかし彼が、イギリスの遺跡発掘調査隊の中でのマドンナ的存在を、呪術的な力で奪おうとしたために、白人男性たちに倒されるべき存在となるのである。ここで彼を「モンスター」とするのに妥当性を与えていたのは、ミイラ男という恐ろしい風貌だけではなく、その植民地主義やオリエンタリズムに根ざしたプロットと、カーロフという俳優の存在であろう。

*1 『ミイラ再生』のリブート作品としてはこれまでにも『ミイラ復活』(1940)『ミイラの墓場』(1942)『ミイラの幽霊』(1959)『ハムナプトラ』シリーズ(1999,2001,2008)がある。

この1930年代のハリウッドにおいて花開いたモンスター映画の制作を支えていたのは、カーロフと、ロン・チェイニー、ベラ・ルゴシの三人、そして夭折したロンの息子、ロン・チェイニー・Jr.といったスターたちである。といっても、トム・クルーズやジョニー・デップのように、そもそもスターとして存在したのではなく、彼らはあくまでモンスターとして受容され大衆の人気を博した、文字通りのモンスター俳優であった。

ロン・チェイニーは両親が聾唖者であったいう出自があってかパントマイムを得意とし、サイレントからトーキーへのこの過渡期においてどちらにも難なく対応しただけでなく、口のきけない怪物を得意とした。さらに、彼が「千の顔を持つ男」との異名で呼ばれたのも、その演技力もさることながら、『オペラ座の怪人』(1925)や『ノートルダムの傴僂男』(1923)で知られるモンスターメイクを自ら考案し、それを自身に施して恐ろしい風貌へと変身したためであり、ゆえにハリウッドにおけるモンスター史及び特殊メイク史の夜明けにおける功労者でもある。傑出した才能を有していたが、『魔人ドラキュラ』(1931)出演の話がきた時期には病に侵されており出演することはなかった。そのドラキュラ役に抜擢されたのが、ベラ・ルゴシである。彼はハンガリー出身の舞台役者であり、アメリカに渡った後もドラキュラ伯爵として舞台で活躍していたが、さらに映画出演によって彼のドラキュラ伯爵としての地位は確固たるものとなった。さらにその直後、『ホワイトゾンビ』で、ゾンビを作り出すヴードゥーの秘術を操る呪術者を演じ、さらに認知度を高めた。その次の作品としてルゴシには『フラケンシュタイン』(1932)への出演が打診されたが、予定されていた監督の交代や、ベラ自身が台詞の少なさを理由にこの役に乗り気ではなかったことから、怪物役にはボリス・カーロフが当てられた。彼は、ユニバーサル社の俳優ではあったが、端役の出演を主としており、それだけでは生活できなかったため他の仕事もしていた。だが、フランケンシュタインで名声を得たあとは、フランケンシュタインシリーズの続編のみならず、『月光石』(1933)や『歩く死骸』(1936)で歩き回る死者といった不気味な役や、ヴァル・リュートン作品にも抜擢されていたことからわかるように、長年にわたり人気を博した。

このようにチェイニーが土台を作り、カーロフとルゴシが跋扈することによって、1930 年代から40年代にかけて吸血鬼や人造人間、呪術師や怪人とあらゆるモンスターが登場した。しかしここで留意しておくべきなのは、彼らの演じたモンスターが大衆の人気を集めたからといって必ずしも彼らをハリウッドの代表的なスターだった、とは言えない、ということである。彼らのその後の出演作品を見てみても、いわば「普通の」映画はほぼ存在せず、そのほとんどがモンスター映画やホラー映画といったものである。すなわち彼らは「モンスター俳優」としてのスターであったと言えるだろう。

このことが示す「モンスター俳優」へ向けられた視線がいかなるものであったかは、ルゴシが演じたモンスターたちと当時のモンスター映画に深く根付いていた植民地主義的な意識を補助線に読み取ることができるだろう。ドラキュラ伯爵は、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)で代表されるように今でこそ美形の怪人と認識されており、ルゴシの演じたそれもその元祖となる神秘的な紳士とも見て取れるが、当時はあくまで、トランシルヴァニアもしくはハンガリーといったヨーロッパの辺境からやってきたものである。『ホワイトゾンビ』(1931)の呪術者も、ハイチという植民地に住まう非西洋人であり、また『モルグ街の殺人』(1932)では猿と人間の血の融合を偏執的に求める怪人である。さらに『獣人島』(1932)では、ついに人間と獣を合成させた毛むくじゃらの獣人となる。すなわち、ルゴシに向けられた視線とは、ドラキュラ伯爵に対しては魅惑的な外国の紳士という一面もあったかもしれないが、その裏側には、オリエンタルなものへの好奇のまなざしが存在していたことを忘れてはならない。それゆえに彼が獣人という、人間という領域の辺境に存在するものへと転化したことが納得できるだろう。

このように、ルゴシの例が顕著なものであるとしても、モンスター俳優へと向けられた視線には「モンスター」という人間以外のものや、辺境のものへと向けられた好奇な目線から完全に突き放して考えることはできないと言えよう。ここに1930年代のモンスター映画と、「ダーク・ユニバース」のスターたちの間の決定的な差異が現れている。すなわち「モンスター俳優」という、自身のうちにスターであることとモンスターであることを内在化せざるをえなかった存在と、いわゆる「セレブ」という表象的でしかないもの、時に世界を救い、時に海賊の船長となるマッチョな白人たちは、同じハリウッドが作り出した幻影であっても、向けられている目線の類が根本的に異なるのである。

「ダーク・ユニバース」のモンスターたちは、もはや大衆たちのまなざしによって倒される存在ではなく、むしろ「モンスター」や「悪」という名の新しい役柄を与えられたスターであり、彼らは憧れの対象ではあっても、同情や哀れみの目線を向けられるものではない。ジキルとハイドにおけるむき出しの欲望といったいわば小市民的な悪も、「究極の悪」なる概念的な悪ももはや隠されたり打倒されるものではなく、ひとつの新しい役名として、もしくはセレブのひとつの「個性」として受容されるのだろう。

『マミー』の舞台となったエジプトの遺跡とイギリスの自然史博物館という二つの対比的な場も、ヴンダー・カンマーという、辺境の地の怪異や神の啓示を示す驚異を収集してきた空間も、ロンドンの地下に突如現れた聖十字軍の騎士たちの墓標も、これまでは植民地主義や西洋中心主義を彷彿とさせる象徴であったものが、本作においては装飾過多で上滑りさえして見えるのはこのためである。我々が恐れと同情、すなわち自らと隔たったものに抱いてきた脅威と好奇心を両立させることで享受してきたモンスターはもはや存在しない。しかしながらこれこそが、モンスター映画をひとつのジャンルとして、再起させる方法であるとも言えよう。「ダーク・ユニバース」において再起したものは、もはや昔の姿や内面性を保ったままのモンスターたちではない。その変わり果てた姿を、集客のための「腐敗」ととるか、進化ととるかは「モンスター」や「スター」に向けられた私たちのまなざしのいかんによって異なるのだろう。

福田安佐子(日本学術振興会/京都大学)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行