第12回大会報告

シンポジウム パフォーマンスと/しての展示

報告:竹田恵子

日時:2017年7月1日(土)13:30-15:30
会場:シネマまえばし

門林岳史(関西大学)
中島那奈子(ダンス研究、ダンスドラマトゥルク)
星野太(金沢美術工芸大学)
三輪健仁(東京国立近代美術館)

【司会】加治屋健司(東京大学)


本シンポジウム開催にあたって、会場となったアーツ前橋館長の住友文彦の挨拶のあと、加治屋健司より趣旨説明がなされた。

美術の分野では未来派周辺から、身体表現を用いた作品は創作されてきたが、近年、身体表現が再び注目され、美術館の展示・収蔵の対象になっている。美術の最新の動向として、SEA(Socially Engaged Art:社会を志向する芸術)があるが、こうした潮流のなかで非物質的なパフォーマンスが多く創作されている。こうした動向は決して美術だけではなく舞台芸術のなかでも注目されており、演劇や舞踊の立場から美術の分野に進出する例もある。

美術と舞台芸術を横断する文脈を、両者の文脈から考えていく際、考えたいことは以下の点である。いかにして、非物質である身体表現をアーカイヴ化/歴史家するか。また自由に動き回れる美術館とある程度固定化される劇場では、身体性はどのように異なるのか。こうしたトピックについて「パフォーマンスの展示」という点から考えていく、ということが当該シンポジウムの狙いである。

三輪は、美術館においてパフォーマンスが行われるときに、一般的に言及されがちな「ホワイトキューブ/ブラックボックス」、「展示/上演」、「決められた開始・終了時間がない/あるといった時間性」の二項対立はもはや有効ではないと述べた。また三輪はパフォーマンスの収蔵/歴史化について言及し、そこに可能性を見ていると述べる。収蔵=歴史化においてはコレクションのなかで他の時代の作品や、同時代の他の作品と関係づけ文脈化することが必要になるが、このときに時間性をめぐって起きることが予測される齟齬自体が、美術館のコレクションや歴史化において逆に可能性となる場合があることが指摘された。

中島那奈子は、ダンスの美術館化の流れについて紹介した。この流れの筆頭となったボリス・シャルマッツは美術館がダンスを排除してきたことを非難しながら、美術館とダンスの再定義を促す。加えて、中島は、現在まで美術館が収蔵してこなかったポストモダンダンス作品の振付家たちが高齢となり、ダンスのアーカイヴ化が緊急の課題となっていること、が一連の流れを生んでいると指摘する。しかしこの流れはダンスからアートへという一方向に過ぎないとも考えられている。さらに、クレア・ビショップが「ティノ・セーガル・エフェクト」と名付け述べるように、ダンスが美術館生命を吹き込んだとしても、ダンス経験を均質的なものにしてしまうのではないかという懸念も指摘された。中島が現在取組んでいるプロジェクトは、このようなダンスの美術館化の流れをひっくり返し、もう一度ダンスを劇場に引き戻すものである。ポストモダンダンス振付家のイヴォンヌ・レイナーの作品や記録映像を春秋座に展示・上演する。

星野太はアーティストによるパフォーマンスに焦点をあて、理論的言説についての整理を行った。アラン・カプローによるハプニング以来、アーティストによるパフォーマンスは珍しくなく、20世紀前半の前衛芸術にその起源を求めることができるだろう。しかし90年代以降のアーティストによるパフォーマンスは、それ以前のハプニングやボディアートとは異なってきている。

ひとつに、シャノン・ジャクソンが「パフォーマンス的転回」と述べるような傾向がある。パフォーミング・アーツの分野では、ポストドラマ演劇が前世紀の後半に生じ、一方で現代美術の分野ではソーシャル・プラクティスや参加型アートという言葉で表現されるような作品が生じており、演劇と美術の交差がなされてきている。また、クレア・ビショップが「委任されたパフォーマンス」という言葉で示したような、アーティスト自身の身体を使うのではなく他者に委任して行うパフォーマンスの在り方が新しい傾向として生まれたとされた。

星野は、最後に、パブロ・エルゲラやビショップの意見を参照しながら、パフォーマンスを手法として用いたSEAは、公的な施設のイベントとして用いられることが珍しくないが、単なる「客寄せ」的な通俗的なイベントとして消費されてしまう可能性を述べた。かつてのパフォーマンス・アートはイベントとして物質性から逃れることにより、市場から距離を置いたわけであるが、今日のパフォーマンス的なアートはその逆となる可能性を指摘した。 

門林の報告は鑑賞者(観客)に焦点を当て、展示/上演空間における身体性の問題を考える際、展示/上演される身体だけでなく、それを観る身体も議論の俎上にあげたものであった。門林は鑑賞には時間がかかるということ(時間性)、鑑賞の経験はいつでも誰でも同じとは限らない(偶発性)が本質的な問題だと考える。渡辺裕『聴衆の誕生』など近代的鑑賞者の誕生に関する諸議論を挙げながら、能動的な身体性の抑圧と規律的で均質的な勘客の在り方について言及し、美術館における観客の身体性について考察した。美術館における観客は歩き回ることが前提であるため、能動性を完全に奪うことは難しいのではないかと述べる。今回のシンポジウムにおける報告者3名は、観客によるパフォーマンスの回復についても述べているのではないか。

最後に門林は自身がアーカイヴ・プロジェクトにかかわっているマドリン・ギンズと荒川修作の実践について述べた。彼らの作品/建築は、観客が一定期間「住む」ことを作品経験としての条件としており、彼らが観客の身体の作り変えについて真剣に考察していたことに言及した。

報告後の議論では、パフォーマンスが美術館での収蔵対象になったことにより、かつてメディアアートが収蔵されはじめたときのように、美術館の収蔵システムそのものが変化する可能性が指摘された。さらにダンスの場合、師匠から弟子への伝承のように体のなかにある情報を伝える“body to body transmission”は果たして美術館では収蔵できるのか、といった疑問が提出され、現在では舞踊譜(ノーテーション)の研究も進んでおり、身体表現独自の伝達方法の試みがなされつつあることも述べられた。

竹田恵子(東京大学)


シンポジウム概要

本シンポジウムでは、美術と舞台芸術を横断する諸問題について、とりわけパフォーマンスと展示に注目して考察する。美術の分野では、20世紀初頭の未来派以来、身体表現を用いた作品の長い歴史があるが、近年、身体表現が美術館の展示や収集の対象となり、再び注目を集めている。ニューヨーク近代美術館は2009年からパフォーマンスの展覧会を行い、テート・モダンも2012年にパフォーマンス、映像、インスタレーションのための空間を作った。そして、両館ともパフォーマンス作品の収集を行っている。日本では東京国立近代美術館が2012年にパフォーマンスの展覧会を行っている。また、ソーシャリー・エンゲージド・アートにおいても、行動や実践を中心とする非物質的な作品が作られ、アーティストとは別の者にパフォーマーを委任するパフォーマンスが一般化している。本シンポジウムでは、こうした美術における近年のパフォーマンスの前景化を、美術の文脈だけで考えるのではなく、舞台芸術の動向も踏まえて考察したい。身体表現の歴史化・アーカイブ化、新たな観客の身体経験の登場、映像メディアの発達による展示や記録の変化などの問題といった、美術と舞台芸術を横断する諸問題の検討を通して、パフォーマンスと展示の問題を領域横断的に議論したい。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行