第12回大会報告

パネル9 事件、捜査、物語 ──警察の表象

報告:高桑和巳

日時:2017年7月2日(日)16:30-18:30
場所:前橋市中央公民館5階504学習室

・写真と「真実」──犯罪捜査の歴史を手がかりに
橋本一径(早稲田大学)
・自殺の「発見」と変容──警察と死の社会的意味の歴史と現在
貞包英之(立教大学)
・公安とは何か──事件の不在と透明な組織
熊木淳(尚美学園大学)

【コメンテーター】高桑和巳(慶應義塾大学)
【司会】橋本一径(早稲田大学)


うっかり者の私は、このパネルを政治集会と勘違いし、「WAR IS OVER」Tシャツ(デモ用の一張羅)で会場を訪れた。安倍辞めろ! 安倍辞めろ!

この面妖な文章を万が一にも誰かが数年後に読むかもしれないので念のため記録しておくが、シンポジウム当日は都議選の投票日だった。会場が群馬県だったことから、都民である私は期日前投票を余儀なくされた。ちなみに、私の投票した候補者は落選した。私の選挙区は6人区だが、得票順に都ファ2、共産1、公明1、自民2という結果だった。「自民党がボロ負けし、その代わりに、新しさの見かけを帯びた第2保守勢力である都民ファーストが急激に擡頭した」ということで後世に記憶されるはずの選挙だが、私の選挙区の保守性は予想をはるかに超えて盤石である。自民は消えることなく、さらに都ファが2議席生まれた(そして生活者ネットと民進党が枠外に押し出された)。もともと、石原伸晃を20年以上にもわたって国政に送り出している地域でもあるし、納得の、とはいえやはり反吐の出るような結果である。

そんな結果はもちろん知らずにだが、コメンテイターとしてはじめて招かれた表象文化論学会を、もともと政治的に「中立」ではありえないはずの「表象文化」を論ずる場としてクソ真面目に捉えてみれば、警察をテーマとするパネルはまさしく「これだ!」と思わせるに足るものだった。私はこの2、3年というもの、「この「暗い時代」、「鉛の時代」には、学者が路上に出るだけでは足りない。アカデミア自体をいわば路上にして、時事で汚染しなければならない」と機会あるごとに口にしているが、そのような私の目には、これは必要な、ある意味で理想的なイヴェントと映った。

なるほど、時事によるアカデミアの汚染は明示的でなければならないわけではない。明らかな反体制的言辞を声高に表明する身振り自体が最重要だというわけではないし、逆に言えばそのような振る舞いが何かを(たとえばしかじかのパネルの内容的なつまらなさを)赦免するわけでもない。だが、その汚染は、「表象文化論学会」であってみれば、ましてやこのテーマであってみれば、多かれ少なかれ透かし見られてしかるべきである。この国で、およそ憲法を遵守する気のない、デタラメな自己クーデタ政権を前にして立ち上がっている人々が一定の割合におよんでいる以上は、現況は(いかに穏和な様相を呈しているとはいえ)内戦の名にふさわしい。だとすれば、人は必ず両派のいずれかに与していると見なされてよい(言葉を用いる権力を曲がりなりにも保持している者たちにとって、沈黙はすでに現状への賛同となってしまいかねない。たとえば、ここで私は、パネルの報告を書いてくれとイヴェント後に依頼され、不本意ながら引き受けたことによって、幸か不幸か言葉を得ている。だから、その件について沈黙せず、場違いな主張を公にすることができる)。後は、その立場表明をどのような文脈で、どのような修辞で口にするかということが残るだけである。

ここに至ってなお政治的な文脈づけを厭う人がいるのはたしかだが、その人はよほど鈍いか、愚かか、あるいは護り抜きたいアカデミアの純粋さとやらを信奉しているかのいずれか(あるいはそのいくつか、もしくはすべて)だろう。ぎりぎり許されるのは何らかの非政治性の政治的選択という迂遠な身振りくらいだろうが、それはもとよりいわゆる「中立」とはほど遠いし、その立場を選ぶ者は精妙な弁明を自ら開陳するはずである。単なる「中立」の場所など、もはや存在しない。後世は、「あのとき、おまえは何をしていたのか?」という厳しい問いを、生ぬるい「中立性」とやらに免じて容赦してくれるわけではない。要するに、私たちは過去の人々に向ける厳しいまなざし(表象文化研究ではおなじみのもののはずだが)を現在の自分たちにも差し向けてしかるべきだろうということである。

とはいえ正直に言えば、「表象」という単語は、一方でこのように政治性をあらかじめ帯びているはずだとはいえ、他方では政治性を逆に和らげてしまうものでもあって、直接に何かを論ずることを回避する役にも立ちかねない。そもそもなぜ、「警察」をではなく「警察の表象」を論ずるのか? もちろん「表象文化論学会」のパネルだからだが、それにしても、仮にそのようなテーマ設定が、現在の警察(ないし広義の警察的なもの)のさまざまな展開や様相への批判的姿勢を提示する代わりに、何か高尚らしいこと(いや、ひょっとすると「お洒落な」こと)をやるという身振りを正当化しかねないとすれば、それは残念なことだろう。

ところで、「警察の表象」という連辞は無用な曖昧さを帯びてもいる。これは、何ものかが警察をしかじかのしかたで表象するということなのか、それとも警察のほうが何ものかをしかじかのしかたで表象するということなのか? この曖昧さは、パネルの「概要」においても、おそらくは意図的に活用されている(以下、[ ]は引用者による)。

[……]我々が日常目にする写真およびそれをもとにした認証技術はいまや被写体そのものの復元というよりもイメージそのものの解析によってしばしばなされるが、それが警察の捜査との関わりでは非常に危うい技術となりうる[警察が表象する]。また近代においてその社会的なありようを大きく変容させた自殺は、警察による「事件化」との関連において、そしてそれをめぐる警察と警察外とのせめぎあいの中で語られるべきだろう[警察が表象する]。このような背景をもとに、日本のドラマや小説は警察を全面に出すことによって単に事件化の審級としての組織、というだけではなく事件の場としての警察を描き出すことになるのである[警察を表象する]。

この両義性を調停する役を果たしているのが、「概要」に読める「警察の肥大、遍在」、あるいは「言説としての警察の肥大、そしてその表象の偏在」という表現である。というより、この曖昧さは偏執的妄想──もしくは、すでにある程度まで政治化されている者に言わせれば、つねにとは言わぬまでも少なくとも今日ではもっともなヴィジョン──をおのずと導く、と言ったほうが正確かもしれない。要するに、「警察(ないし警察的なもの)は、実在としてであれ表象としてであれ、いまやいたるところにある。それはまた、あらゆるものを警察による表象として提示する」ということである。警察が社会を覆い尽くしてしまえば、あらゆる表象は警察による表象だということになるし、警察を表象したさまざまなものもまたいたるところに見いだされることになる。

いまからちょうど150年前の有名な冒頭句を変形して、いまや社会の富は「警察表象」(「が」と「を」の両方を含む、「表象するもの」かつ「表象されるもの」としての警察)という名の一種の商品の膨大な集積として現れる、とでも言えばよいだろうか? あるいは、さらに実感が湧きやすいかもしれない最近のヴァージョン(とはいえ、こちらももう50年前のものだが)のほうを「転用」して、いまや社会生活の全体が「警察スペクタクル」の膨大な集積として現れ、「かつて直接的に生きられていたものはすべて「警察表象」のなかへと遠ざかった」と定式化してもよいかもしれない。

このことは「概要」においても、「現代の日本にいる我々は多かれ少なかれ不可避的に生活の中で警察とかかわりをもっている」や、「[……]かつてなく現代を生きる我々[は]言説としての警察の肥大、そしてその表象の偏在を目の当たりにしている[……]」といった表現で示されている。要するに、表象するものも、表象されたものも、すべてが多かれ少なかれ警察的だ、ということである。もちろん、警察なるものにはこのばあい、尊敬や信仰や感嘆や追従の対象ではなく、疑念や不信や反発や抵抗の対象であるという含意がある。

故意に政治化された私の見立ても、この偏執的ヴィジョンに照らせばそれほど的外れでもなかった。パネルの成否は、この警察(ないし警察的なもの)の不明瞭な作用を、それぞれのテーマに即してどの程度白日のもとにさらすことができるか(また、ひいては現下の状況をどこまで透かし見せることができるか)にかかっていたということになる。

さて……おや、誰か来たようだ。

高桑和巳(慶應義塾大学)


パネル概要

いわゆる「警察の厄介になる」ことがなかったとしても、現代の日本にいる我々は多かれ少なかれ不可避的に生活の中で警察とかかわりをもっている。例えば我々が何気なく利用しているサービスを支える技術が、警察の捜査と極めて密接な関係を結んでいるだろう。また我々が目にする多くの報道は警察発表を経由しており、我々が触れる物語にはつねになんらかの形で組織、または個人としての警察が現れている。それはかつてなく現代を生きる我々が言説としての警察の肥大、そしてその表象の遍在を目の当たりにしているからであり、またとりわけ日本においては一つの組織以上のものとして現代社会に現れているからである。

このような警察の肥大、遍在の事例を様々な観点から捉えるのが本パネルの目的である。例えば我々が日常目にする写真およびそれをもとにした認証技術はいまや被写体そのものの復元というよりもイメージそのものの解析によってしばしばなされるが、それが警察の捜査との関わりでは非常に危うい技術となりうる。また近代においてその社会的なありようを大きく変容させた自殺は、警察による「事件化」との関連において、そしてそれをめぐる警察と警察外とのせめぎあいの中で語られるべきだろう。このような背景をもとに、日本のドラマや小説は警察を全面に出すことによって単に事件化の審級としての組織、というだけではなく事件の場としての警察を描き出すことになるのである。

発表概要

写真と「真実」──犯罪捜査の歴史を手がかりに
橋本一径(早稲田大学)

犯罪現場などで撮影された写真が証拠として利用されるようになるのは、乾板の技術等により露光時間が短縮され、「デテクティヴ」と呼ばれる小型のカメラが普及し始めた、1880年代以降のことである。しかしながら、たとえばディオン・ブシコー(Dion Boucicault)が1859年に発表した戯曲『オクトルーン』では、殺人現場の決定的証拠が写真によってもたらされるという場面が、すでに描かれている。つまり写真が「真実」を捉えることができるという理念は、実際に写真技術がそれを可能にするのに先立って存在したことになる。だとすればそこで問題となる「真実」とは、いったい何なのか。

本発表は、警察による犯罪捜査における写真技術の利用の歴史を手がかりに、写真と「真実」の関係の変遷を辿りなおす。それによって明らかになるのは、19世紀末のアルフォンス・ベルティヨンが発明した「口述ポートレート」以降、現実との物理的(インデックス的)な結びつきという意味とは異なる、もう一つの「真実」が問題になり始めたという事実である。そこで問題となる「真実」とは、警察のアーカイヴに保存された顔写真と、現実の人物との間の「整合性」である。デジタル時代を迎えて、このような「整合性」は、その重要性をますます増している。こうした現状を確認した上で、本発表が最終的に目指すのは、「真実であるという主張(truth claim)」(トム・ガニング)から写真を解放することである。

自殺の「発見」と変容──警察と死の社会的意味の歴史と現在
貞包英之(立教大学)

20世紀初頭、日本では自殺は初めてひとつの「社会的事実」として記録され始める。手段や様態、死者の階層に応じて「縊死」、「溺死」、「諌死」などと分散していた死が、意志的な死としての「自殺」というかたちでまとめられていく。その背景には警察の活動の活発化があった。警察は、犯罪捜査を止める便利な死として「自殺」を発見し、(ときには遺族の意志にさえ逆らい)積極的に記録していくのである。

その際、活用されたのが「厭世」という動機だった。自殺と認めるためには何かしらの「動機」が必要とされるが、曖昧ながら人の意志に死の原因をみる「厭世」という動機が重宝されていく。ただしその期間は長くはなかった。20世紀後半には、「厭世」は動機統計上から霧散し、代わって「精神障害」や「経済的貧困」などの原因が増加していく。その背景には、自殺に向かおうとするものを監視し、また事後的に意味づけする精神医学システムや生命保険システムの拡充があった。

だがこうした変化をたんに自殺を管理する主体としての警察の衰退に起因するものとみてはならない。そこにむしろ、市民社会の警察化をみるべきではないのか。警察がもはや主要な主体として必要とされないほどに、死を監視し、分類する力が医者や保険会社の捜査官のもとに拡散し、いわば警察が偏在するなかで、自殺の変容も起こったのである。

本論は、以上のように「自殺」を手がかりとして、死を見分け、事件化/非事件化することで、その表象を操作する警察の社会的力の変容について探っていく。

公安とは何か──事件の不在と透明な組織
熊木淳(尚美学園大学)

日本で90年代に確立したとされる警察小説は、いわゆるミステリーの一分野にとどまらずに現在では小説のみならず映画やドラマ、アニメなど日本のある種の物語のあり方を規定するにいたっている。いうまでもなく警察が他の組織と大きく異なる点は、ベンヤミンの言う法措定権力に基づいて「事件化」を行い、それを解決するという点であり、デイヴィッド・ミラーが指摘するように違法状態を「事件」の中に囲い込むことによって法が適応されない「事件」の外部を特権化するという社会的機能を持っているという点である。その中で日本の警察をめぐる物語がえぐり出したのはこの「事件」の特異点であるといえる。つまり警察そのものが事件の場になりうるということであり、このことがフランス語のロマン・ポリシエ、英語のディテクティヴ・ストーリーという語に収まりきらない「警察小説」という独特のジャンルを作り出したといえる。

本発表ではそのような日本の警察をめぐる物語のありようをもっとも極端な形で描き出した公安警察を舞台にした物語を中心に扱うことで、その特異さを明らかにしていきたい。麻生幾が「公安は終わらない」と主張するように、公安においては「事件」の概念が絶えず揺らいでいる。また組織内での情報が共有されないため組織の輪郭をほぼ誰も知ることがない。このように公安(場合によっては組対)は警察をめぐる物語における重要な概念である「事件」と「組織」が限界状態にまで追い詰められるのである。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行