第12回大会報告

パネル2 日本映画におけるマイナーの系譜 ──クィア理論を拠りどころにして

報告:伊藤弘了

日時:2017年7月1日(土)16:00-18:00
場所:前橋市中央公民館5階502学習室

・2010年代の日本映画においてゲイ男性を描写すること/演じることについて
久保豊(京都大学)
・ 小津映画をクィアする──『彼岸花』にみるモノたちの潜勢力
伊藤弘了(京都大学)
・ 『夏子の冒険』における娯楽的演出と女性表象
須川まり(奈良県立大学)

【コメンテーター】ミツヨ・ワダ・マルシアーノ(カールトン大学)
【司会】木下千花(京都大学)


クィア・セオリーの知見を頼りに、日本映画におけるマイナーなものの系譜に光を当てるというのが本パネルの基本的なコンセプトである。久保豊が『怒り』(李相日監督、2016年)のゲイ男性描写、伊藤弘了が小津安二郎の映画におけるモノ(とりわけ時計)、須川まりが『夏子の冒険』(中村登監督、1953年)の女性表象にそれぞれマイナー性を見出し、発表を構成した。活発な質疑応答に恵まれた本パネルの実態を伝えるべく、本報告では実際になされた質問やコメントにも十分な紙幅を割いて紹介していきたい。

久保豊「2010年代の日本映画においてゲイ男性を描写すること/演じることについて」では、『怒り』の分析を通して、性的マイノリティであるゲイ男性カップルを描写する際の空間設計とその効果が検討された。具体的には、映画の大部分を占めている居抜き撮影(スタジオに組まれたセットではなく、実際に営業している店舗や、人が生活している住居を使用した撮影)と、例外的に使用されているセット撮影の対比を通して、それぞれの効果を浮かび上がらせた。前者の例としては、ハッテン場におけるゲイ男性同士のセックスをシネマ・コンプクレックスという異性愛規範が支配する空間で上映することの意義が指摘され、後者に関しては、マンションの一室内で繰り広げられるいくつかのシーンが「新しいホモ・ノーマティヴィティ」と呼ばれる脱政治化されたゲイ表象を体現しているものとして批判的に分析された。

コメンテーターのミツヨ・ワダ・マルシアーノ氏からは、1990年代以降のゲイ映画の台頭というコンテクストと本作『怒り』の占める位置について問いかけがあり、これに対して久保はニュー・クィア・シネマの輸入、女性誌による積極的な紹介、橋口亮輔の活躍といった歴史的事実を紹介した。また、クィア理論において重要な概念の一つである空間のポリティクスに関して、久保が参照した「クィア・スペース」というギミックが「何を可視化したのか」をめぐる応答があった。

フロアからの質問では、まず千葉雅也氏が、本作のゲイ男性描写が従来の誤った性的マイノリティ描写をある程度脱していることを認めつつも、室内ハッテン場のセックス描写が過剰に暴力的であることに疑義を呈し、依然として実態と映画との間に齟齬があることを指摘した。さらに久保が用いたいくつかの概念の適用に関して、考察をさらに推し進め、本作が持つポジティヴな可能性をより引き出すような議論の構築に期待するコメントがなされた。久保に対しては、他に畠山宗明、北村紗衣、角井誠の各氏からも質問とコメントが寄せられ、活発な議論が交わされた。

伊藤弘了「小津映画をクィアする」では、小津映画に見られる規則と逸脱を言説化してきた先行研究に、ジュディス・バトラーのジェンダーをめぐる理論的枠組みを接ぎ木することで、新たな小津像の構築が試みられた。初期のサイレント映画から、後期のカラー映画に至るまで、作品内に登場する時計の表象に着目し、それらが作り上げているモノの秩序をどう構想しうるかを検討した。時計の運動およびそれが体現する時間は、いずれも人間のために作られた機械かつ尺度でありながら、同時に人間から自律してもいる。この両者の関係性をある種のマトリックスとして把握できないかという方向性を示したが、緒に就いたばかりのプロジェクトであり、マルシアーノ氏のコメントにもあったように今回の発表自体がある種のブレインストーミングに留まっていた感は否めない。学会発表という場にあっては、もう数段階練り上げられた状態の議論を披露するべきだったろう。また、クィア理論の知見を脱政治化した形で単に枠組みだけ参照している点について、そもそもクィア・セオリーがアイデンティティ・ポリティクスのツールとして登場したという歴史的意義を骨抜きにしていることの妥当性が問われた。

この点に関連して、千葉氏からは、セクシュアリティの話をしないにも関わらずジュディス・バトラーの議論を援用することの恣意性が糾され、今回の発表内容であれば、バトラーよりもドゥルーズやフーコーといったポスト構造主義の理論装置を用いるべきであったのではないかと指摘された。あるいは、モノのエロス的側面にまで踏み込んで考察することができれば、クィア理論を参照する正当性が担保できるだろうという建設的な提案もなされた。確かに小津映画におけるオブジェクトのなかには、アキ・カウリスマキ監督を魅了してやまない赤いヤカンのように、ほとんどエロス的な存在感を放っているものがある。この方向性の可否についても、今後研究を深めていきたい所存である。

須川まり「『夏子の冒険』における娯楽的演出と女性表象」では、そもそも従来の批評・研究において相対的に軽視されてきた中村登の監督作品のなかでも、とりわけ言及されることの少なかった『夏子の冒険』という作品のヒロインが、同時代の規範的な価値観を逸脱しうる特異な女性像を提供していることの意義が議論された。三島由紀夫の同名の小説を原作とする『夏子の冒険』は、ヒロインの夏子(角梨枝子)が、恋人を熊に殺された男性(若原雅夫)に共感し、ともに仇討ち(つまり熊退治)に向かう物語をコミカルに描いた喜劇作品である。夏子は周囲に恋愛対象となるような情熱的な男がいないことを嘆いて突然修道院に入ることを宣言したり、人食い熊の仇討ちに魅力を感じたりするような破天荒な人物として造形されている。

こうした逸脱した女性像の問題にくわえて、現存するこの作品のフィルム状態の悪さも考察の対象たりうる。本作は、『カルメン故郷に帰る』(木下惠介監督、1951年)に続く、松竹による国産第二作目の長篇カラー映画である。初の長篇カラー作品として知られる『カルメン故郷に帰る』に比べて、本作の知名度は著しく低く、それが劣悪なフィルムの保存状態と軌を一にしていると考えられる。現存する『夏子の冒険』には、映像が欠如して音声だけが残っている部分と、逆に映像は残っているが音声が欠如している部分が随所に見られる。

マルシアーノ氏は、本作の女性表象に着目するよりも、むしろそうしたフィルムの保存状態に議論を発展させる可能性があるのではないかと指摘した。すなわち、映画産業内のポリティクスのなかで、マイナーなものとして杜撰に扱われ(フィルムの欠損などにより、文字通り)表舞台から姿を消してきた無数の作品に光を当てていく研究の可能性である。司会の木下千花氏もこれに関連して、映像と音声がちぐはぐに欠損した本作の「奇妙な」保存状態がどのような経緯でもたらされたのかについて、より具体的なリサーチを行うことの意義が示唆された。フロアの千葉氏は、失敗やもたつき、欠落が孕むクィア性を指摘したジュディス(ジャック)・ハルバースタムの議論を挙げ、フィルムの欠損、あるいは人間と映画との間の何かが欠落した関係とクィアネスを結びつけるような視点を提供した。

途切れることなく続いた質疑応答からも、現在クィア・セオリーと映画をめぐる議論が高い関心を集めていることが伺えるだろう。クィアの諸概念は単に映画のテクスト分析に適用されるだけでなく、映画を取り巻く状況論や自律したモノ(オブジェクト)の存在論、あるいは映画(フィルム)というメディウムとそれを受容する人間との間のある種の失敗を宿命づけられた関係性について、さまざまな方向へと、さらに議論を発展させる可能性を秘めているように思われる。

伊藤弘了(京都大学)


パネル概要

テレサ・ド・ラウレーティスが「クィア・セオリー」を旗印に掲げ、レズビアン・ゲイ研究の更新を呼びかけたのは1990年2月(カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校)のことである。ポスト構造主義の強い影響下に生まれ、フェミニズムの知見とも手を携えてきたクィア理論は、パフォーマティヴィティ(ジュディス・バトラー)やホモソーシャル(イヴ・コゾフスキー・セジウィック)といった重要概念を練り上げ、異性愛規範を所与のものとみなす社会認識(ヘテロノーマティヴィティ)への異議申し立てを行ってきた。

「本質なきアイデンティティ」(デイヴィッド・ハルプリン)を標榜するクィアを正確に定義するのは困難だが、ジャック・デリダの散種(脱構築)やミシェル・フーコーの偏在的かつ流動的な権力モデルを色濃く受け継いだその概念の中核には、既存の社会構造の内部に攪乱の契機を見出し、構造内の序列を転覆しようとする姿勢が置かれている。

このような来歴を持つクィア理論の射程はLGBTQの社会学的な分析にとどまらず、文学作品や映画作品にまで及んでおり、芸術作品をクィアな視点から読解する刺激的な試みが既に数多く提出されている。こうした先行研究に多くを依りつつ、本パネルでは過去と現在の日本映画に見られるマイナーな存在に注目し、広い意味でのクィア・リーディングを実践する。近年の日本映画におけるゲイ男性表象が異性愛規範を(久保)、小津映画にあらわれるモノたちが人間中心の世界観を(伊藤)、中村登の描き出す女性/観光表象が従来のジェンダー観を(須川)、それぞれ逆照射し、転覆させる契機を探っていく。

発表概要

2010年代の日本映画においてゲイ男性を描写すること/演じることについて
久保豊(京都大学)

 日本の視覚文化において、性的マイノリティはどのように描かれ、またその表象の陰に何が隠されてきたのか。視覚文化研究者・菅野優香(2017)が示唆するように、私たちはまだ日本の視覚文化、とりわけ映画というミディアムと性的マイノリティをめぐる歴史性を十分に捉えているとは言いがたい状況に直面している。たとえばアジアにおけるクィア映画研究の潮流においても、日本映画に関しては大きな空白が存在し、その空白が容易に埋められる気配はない。

一方、「LGBT」をめぐる議論は、長年のジェンダー・セクシュアリティ研究の成果をもとに、盛んに繰り広げられている。こうした状況のなか、ゲイ男性を主要キャラクターに含む、橋口亮輔監督『恋人たち』(2015)と李相日監督『怒り』(2016)が公開された。これら二作品は、興行成績的には恵まれなかったものの、(少なくとも都市部における)ゲイ男性の「リアル」を捉えたとしてゲイ・コミュニティから高い評価を得た。同時にこれらの作品は、「誰が誰を演じるのか」という問いを投げかける点で、演技と労働の問題にも光を当てている。

以上を踏まえ、本発表では製作、演技、興行、そして受容という四つの観点から、クィア制作研究を参照しつつ、上記二作品におけるゲイ男性の表象の比較検証を試みる。ゲイ男性のみに限定した議論の限界を認めつつも、日本の視覚文化における性的マイノリティの表象を捉え返す契機の一つとしたい。

小津映画をクィアする─『彼岸花』にみるモノたちの潜勢力
伊藤弘了

小津安二郎の映画が「変」であることは衆目の一致するところだろう。その奇妙さの感覚は、正面切り返しショット、静止したフレームやカットつなぎ、低いカメラ位置をはじめとする小津の執拗なこだわりが独自の様式に昇華されていることに由来する。古典的ハリウッド映画と呼ばれる規範が同時代の主流であったとすれば、小津は明らかにそこから逸脱している。

そうしたずれは新たな規則を呼び込む。デイヴィッド・ボードウェルはそれらの逸脱が従っている規則体系を「内在的規範」と名付けた。一方、ボードウェルのいかにも研究者然とした手法をよしとしない蓮實重彥は、「説話論的な構造」と「主題論的な分析」という批評的な枠組みを駆使して、小津の奇妙さをより生々しいものとして取り出そうと試みた。

ところで、規則は常に事後的にしか把捉できない。繰り返しあらわれる細部は遡及的にある規則の起源を仮構する。J.L.オースティンとジャック・デリダの衣鉢を継いでパフォーマティヴィティの概念をフェミニズムに取り入れたジュディス・バトラーは、反復可能な実践の束こそがジェンダーを形成すると喝破した。

本発表では、バトラーの概念を参照することで、小津の映画的実践が独自の様式を立ち上げていった過程を捉え直す。その際、小津映画におけるマイノリティとして、モノ(事物)の次元を設定する。『彼岸花』(1958年)の分析を通して、人間の俳優たちとは異なる水準で(ときに相補的に)モノたちの世界が描かれていることを明らかにし、それが映画という大衆娯楽装置の内部から人間中心的な世界観を食い破ろうとする契機を探る。

『夏子の冒険』における娯楽的演出と女性表象
須川まり(奈良県立大学)

本発表では、松竹の天然色映画2作目の『夏子の冒険』(1953年)を取り上げる。本作は、三島由紀夫の同名小説(1951年)を、娯楽映画作家のイメージが強い中村登監督が映画化したものである。一方で、演出面から前作『カルメン故郷に帰る』からの技術進歩を確認できるが、興行成績は期待されるほどには振るわず、映画史においてもほとんど注目されてこなかった。そのことは、現存するフィルムが、部分的に、音のみや音がない状態のものを継ぎ接ぎしたような保管状態の悪さからも分かる。

しかし、1970年代のジェンダー論からクィア論までの理論的蓄積を踏まえて現代から『夏子の冒険』を読み直すと、新たな意味が見出される。戦後の傷跡が残る1950年代の日本では若い女性に期待されることは結婚でしかなかった。主人公の夏子は裕福な家の令嬢で家族から堅実な結婚を期待されていた。しかし、夏子自身はおしとやかな典型的花嫁でもなく、猪突猛進の行動力があり、北海道で熊退治に参加するほどの破天荒ぶりで家族を振り回すことになる。

中村登は、女性表象を評価されたが、日本映画史において軽視されてきた存在である。発表者はこれまで中村を観光映画作家として捉え直し再評価を試みてきたが、本発表ではジェンダー論を意識し、『夏子の冒険』の女性像と同年に公開された小津安二郎の傑作『東京物語』における女性像を比較分析する。テンポの全く異なる両作品には相違点が存在し、それらを探ることで『夏子の冒険』を新たな観点から日本映画史に位置づける。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行