研究ノート

誰が『10話』を所有するのか?

山本久美子

2022年8月26日、翌週の9月3日に予定されていたアッバス・キアロスタミ監督作品『クローズ・アップ』(1990)の劇場公開が延期された。イラン人アーティスト・映画監督・アクティビストのマニア・アクバリが、主演作『10話』(2002)の盗作と性加害を理由に、キアロスタミを告発していたことが判明したためである。延期はたちまち反響を呼び、キアロスタミは性的虐待者のレッテルを貼られることとなった。キアロスタミ初の女性映画である『10話』に性加害・盗作疑惑が投げかけられた形となるが、事実関係の確認や検証はまだ十分になされているとは言えないのが現状である。そこで本研究ノートでは、性加害と盗作は不可分の関係にあることを踏まえた上で、性加害については真偽の検証が不可能であるから、盗作疑惑を中心に検証を行う。

1. これまでの経緯

2020年9月10日、ペルシア語の文化ニュースサイト「エンサーフ」に、アッバス・キアロスタミが『10話』を盗作したというマニア・アクバリの告発に対する応答が掲載された*1。このサイトによれば、アクバリは当初、キアロスタミがミソジニストで「無数の女性が彼の性加害の被害者だった」とツイートしたが、これといった反応がなかったため、ほどなくしてツイートを削除したという。その後、『10話』は精神分析療法の一環としてアクバリが撮影した素材から成っていること、キアロスタミは編集しかしていないことを、Twitter上で主張した。ところが、著名な写真家のカムラーン・アドルがアクバリの夫役で出演した『10話』の撮影現場について目撃証言をし、アクバリの主張を馬鹿げているとして退けたのである。キアロスタミの長男アフマド・キアロスタミも、精神分析療法でなぜカメラを2台使う必要があるのかと疑問を投げかけた。トルコのサイトでのインタビューでは(後述)*2、アクバリはカメラが1台であったことを強調しているが(“a small camera,” “the camera”)、『10話』では明らかに2台のカメラが使われている(後述)*3

*1 http://www.ensafnews.com/256326/واکنش-عدل-به-ادعاها-علیه-کیارستمی-مهمل/ (accessed on 17 December 2022).
*2 https://fasikul.altyazi.net/in-english/mania-akbari-tells-her-own-story/ (accessed on 17 December 2022).
*3 MK2 Filmによれば、撮影に使われた最新鋭のデジタルカメラは当時イランでは入手不可能だったため、映画のプロデューサーが自らパリのFnac(rue de Rennes)で2台のデジタルカメラを購入してキアロスタミに送ったという。

エンサーフはまた、アクバリがその主張の根拠となる証拠をネット上に提出することを拒んでいるとも報じた。なお、証拠は現在執筆中の書物で明らかにするとのことである。

イランでの試みが失敗した後、マニア・アクバリは現在拠点とする英国でツイートを再開した。そのなかには、MK2 Film宛てと思われる手紙が含まれていた*4。MK2 Filmは『クローズ・アップ』以外のキアロスタミ作品の権利を所有するフランスの配給会社である。2022年6月15日、手紙のスクリーンショットがソーシャルメディアで拡散され、先に触れたアクバリのインタビューが2022年7月25日付でトルコのサイトに掲載された。手紙では(当然のことながら)キアロスタミの盗作に重点が置かれ、今後『10話』の上映に際してはアクバリの許可を得るように要請している。一方、トルコのサイトは盗作に加えて、キアロスタミによる性加害を前面に押し出し克明に描写するというセンセーショナルな内容となっている。性加害についてはイランではあまり報道されず、このトルコのサイトがおもな情報源になっていると思われる。

*4 https://twitter.com/roamingwords/status/1536785103178825728?s=46&t=rgKigZnm7BKPk9i7i6jPPw (accessed on 17 December 2022). なお、手紙はアクバリの娘アミーナ・マーヘル(撮影当時は息子アミーン・マーヘル)との連名で出された。

冒頭で触れたように、この疑惑を受けて2022年8月26日、日本の配給会社、東風とノームが共同声明を発表し、『クローズ・アップ』の公開を延期した*5。声明によれば、「現時点で知りうる情報は限られていますが、このような状況で『クローズ・アップ』の公開を予定通り行うことは不誠実であるだけでなく、社会に対して誤った、意図せざるメッセージを送ることになると判断しました」とのことである。

*5 https://tofoofilms.co.jp/file/closeup0826.pdf (accessed on 17 December 2022).

他方、2022年9月15日、株式会社カノアはアッバス・キアロスタミが製作に携わった2冊の絵本──アッバス・キアロスタミ絵・アフマド=レザー・アフマディー文・愛甲恵子訳『ぼくは話があるんだ、きみたち、子どもたちだけが信じる話が』とアッバス・キアロスタミ絵・文・愛甲恵子訳『いろたち』──の出版を前に以下の声明を発表した*6。「キアロスタミ氏の著作『ぼくは話があるんだ、きみたち、子どもたちだけが信じる話が』と 『いろたち』の初版刊行がそれぞれ1970年と1984年であることから、本疑惑との相関関係は認められないと判断しました。同氏は故人であり真偽のほどは不明であるため、当初の予定通り、2022年10月4日にこの 2 冊の邦訳版を同時刊行いたします」。2022年10月9-10日、同社は「キアロスタミが遺した2冊の絵本」出版記念イベントを東京で共催した。9日にはキアロスタミの短編映画『いろたち』(1976)の上映に続いて、トークイベントが開催され、執筆者も登壇した。

*6 https://www.ka-noa.co.jp/assets/pdf/ouropinion.pdf (accessed on 18 December 2022).

ここで、2022年6月以降、告発が海外でのキアロスタミ受容にどのような影響を及ぼしたのかを確認しておこう。主要報道機関の一社として告発を取り上げた気配はなく、キアロスタミ回顧展も二、三開催された。ACMI(旧オーストラリア映画センター)は2022年6月6-20日に『10話』を含む「アッバス・キアロスタミの映画」を開催した*7。これに対し、英国映画協会(the British Film Institute, BFI)は2022年9-10月に予定していたキアロスタミ回顧展を延期した。その理由を問い合わせたところ、「残念ながら、私ども〔The BFI programming team〕が望むように回顧展を組織すると9月の内部締め切りに間に合わないので、今回は開催を見送ることにしました」との回答を得た*8。アクバリによれば、BFIは2022年6月にキアロスタミ回顧展から『10話』を外したというが、しかし6月には回顧展はまだ開催されていなかった。北米では、アッバス・キアロスタミの映画は以前と変わりなく上映された。2022年9月2-18日にHarvard Film Archiveが「初期キアロスタミ」を開催し*9、2022年10月9日〜2023年4月23日、「キアロスタミ映画回顧展」がOklahoma City Museum of Artで開催中である*10。もっとも、これらの回顧展は『10話』を含まないが、初期作品を中心に扱うからだろう。

*7 https://www.acmi.net.au/whats-on/the-films-of-abbas-kiarostami/ (accessed on 18 December 2022).
*8 筆者の問い合わせに対する2022年8月27日付のBFIの回答。さらに回顧展はいつ日を改めて開催されるのかとの質問に対し、「上映チームに確認を取ったところ、現在次期シーズンはプログラムが目白押しのためまだ未定です。これから数ヶ月先のアップデートをチェックすることをお勧めします」という回答が寄せられたが、2022年12月末現在、いまだに回顧展は実現していない。
*9 https://harvardfilmarchive.org/programs/early-kiarostami (accessed on 18 December 2022).
*10 https://www.okcmoa.com/visit/events/kiarostami-film-retrospective/ (accessed on 18 December 2022).

補遺

2023年1月6日、告発に対する見解を求めていたMK2 Filmから回答があった。MK2 Filmによれば、 BFIが回顧展を延期したのは、イギリスの有力紙の女性記者がこの件の調査を2021年5月に開始したためであるという。女性記者はアフマド・キアロスタミなど関係者に取材した上で記事を公表しないことにした。その後、BFIは『10話』を外して2022年8月に回顧展を企画したが、MK2 Filmが『10話』の除外を認めず、回顧展は延期されたという(この意味で、BFIの期限までに素材が集まらなかったというのはその通りである)。また、マニア・アクバリも娘のアミーナ・マーヘル(映画では息子のアミーン・マーヘル)も告発の根拠となるような証拠を提出したわけでも、訴訟を起こしたわけでも、『10話』の上映に反対する以外は、特に何かを要求したわけでもない。Emailその他で文書のやり取りはいかなる形態においてもなされていない。MK2 Filmとしては、映画の公開から20年、アッバス・キアロスタミの死から6年が経過している現在、あらゆる点で告発に驚きを禁じえないとしている。

2. 映画

『10話』はユニークな実験映画である。自動車のダッシュボードに固定された2台のデジタルカメラ、そのうち1台は運転席に、もう1台は助手席に向けられている。あるショットを別にすれば、カメラは車内から外へ出ない。映画は10のエピソードから構成され、各エピソードの開始は(10から1まで降順の)カウントダウンリーダーとボクシングの試合で聞こえるようなベルの音によって示される。

開始から18分もの間、カメラは暴力的に母親に口答えする怒りまみれの少年だけを捉え続ける。画面外にいる母親もまたなかば喚き散らすかのようにヒステリックにやり返している。少年はよく「典型的な男性ショーヴィニストのミニチュア版」と評されるが*11、母親も逆上して抑制が効かないという点で、2人はとてもよく似ている。観客は2人の会話から次のことを理解する。母親は少年の父親と離婚し、モルテザーと再婚したが、少年はこのモルテザーを嫌っており、現在はおもに父親と暮らし、時折母親のもとを訪れる。『10話』は、運転する母親が乗客(少年を除けばすべて女性)との出会いを通じて変化していき、それにあわせて息子との拗れた関係性も変わっていくという映画である。

*11 Geoff Andrew, 10, BFI Film Classics, London, 2021, p. 55. 息子は父親の言説ひいては「男性優位のイラン社会」を反映・反復するとも言われる。Agnès Devictor et Jean-Michel Frodon, Abbas Kiarostami: L’oeuvre ouverte, Paris, 2020, p. 171.

車の運転者(マニア・アクバリ)は文字通りにも比喩的にも迷っており*12、助手席に乗せた女性たち(または息子)から道案内を受ける。エピソード9では、姉(妹)が家への道順を指示し、前方にある穴に注意を喚起する。エピソード8では、運転手は本当に道に迷い行き止まりに差しかかるが、そこで敬虔な老婆を車に乗せ、寺院まで道案内をしてもらう。エピソード7では、娼婦を車に乗せるが、娼婦は降りると言い張って車を止めさせようとする。(娼婦と少年は自動車から降りたがり、車から車へ移動する点で相似形をなす)。エピソード6では、運転手は画面外の人物から自動車が反対車線にいることを指摘される。エピソード4では、夫に捨てられた女性がずっと嘆いているが、それでも食事をするはずのレストランを通り過ぎたことを注意するのは忘れない。エピソード2では、若い友人への連帯から自動車を停める。エピソード5, 3, 1では、息子(アミーン)がおばあちゃんの家へ行って、と命令する。

*12 マニア・アクバリはアンドリューとのインタビューで、「自動車のように、彼女〔運転者〕は少し道に迷っている」と指摘している。Andrew, 10, p. 47を参照。

これらのナヴィゲーターの中で一番重要なのは老女である。なぜなら、老女は運転手を寺院へ導き、そこで運転手が外面的・内面的変化を被るからである。エピソード8では、まだ寺院へ行って祈るのを拒んでいるが、エピソード6では、慎み深い衣装に身を包み、イスラーム的に正しいスカーフをして、サングラスをかけずメイクもなしという出立ちで登場し、すでに寺院へ詣でてきたことが示される。参詣の効果は外見の変化だけにとどまらない。老女は運転手に子どものために祈ることを教えていた。運転手は寺院で運命の一語を口にする若い女性とも出会い、それとなく諦めることの大切さを感じとる。エピソード3では、すでに祈りの効果が現れ、運転手は息子を手放すことを決意し、父親に任せることを受け入れる。続くエピソード2における運転手の静かな諦念は、スカーフの下から不意に露呈する髪を剃った若い友人の姿に重なり合う。ラストのエピソード1では、おばあちゃんの家へという息子の命令を、母親は「chas(m)(了解)」の一語とともに受け入れ、2人の関係性に一区切りがついたことが示される。

老女は『友だちのうちはどこ?』(1987)と『そして人生はつづく』(1992)に登場するキアロスタミ的人物たるルーヒーさんの女性版である。ルーヒーさんは『桜桃の味』(1997)のトルコ人剥製師や『風が吹くまま』(1999)のバイクに乗った医師となってキアロスタミ映画に繰り返し立ち現れる。ルーヒーさんや彼の化身たちは道案内としての役割を果たし、文字通り主人公に道を教えるが、主人公がこれまで通ってきた道よりもずっと美しい道をとることが多い*13。男性主人公たちは、新たな道に沿って広がる新たな景色にはまったく目もくれず、どの道を通っているのかさえ気にかけないか(『友だちのうちはどこ?』のアフマドは美しく照らされた窓を見上げることさえしない)、道案内の老人がもたらす恩恵にまったく無関心である(『桜桃の味』のトルコ人剥製師の説教に対するバディー氏の反応は曖昧なままだ)。対して、『10話』の女性主人公はおそらく宗教的な含意のためか、老女の導きに素直に応じる。このように効果の現れ方にジェンダー差が認められるものの、道案内としての老女の機能に変わりはない。老女は運転手を自動車ごとキアロスタミ的世界へ移送する。老女の存在のおかげで、われわれは『10話』をキアロスタミ作品に分類できるのである。

*13 「道案内」としてのルーヒーさんを神秘主義的(スーフィー的)に読み解く批評家は多いが(cf. Youssef Ishaghpour, Le réel, face et pile: Le cinéma d’Abbas Kiarostmai, Paris, 2000, p. 71; Alberto Elena, The Cinema of Abbas Kiarostami, London, 2005, pp. 75-79)、ここでは現実に(世俗的に)道を教えていることに着目している。なお、「道案内」の存在は主人公がしばしば道を聞くことに起因し、映画全体が旅としてあることを示しているだろう(Mehrnaz Saeed-Vafa and Jonathan Rosenbaum, Abbas Kiarostami, Urbana and Chicago, 2003, pp. 18-19)。

3. 起源

『10話』はもともと自動車の中で行われる精神分析療法として構想された。ある日、女性分析家がいつも通り出勤すると、クリニックは当局によって閉鎖されたとの張り紙がある。分析家の忠告を信じて離婚訴訟を起こした患者が後悔して当局へ訴えたためだ。呆然とする分析家のもとへ別の患者が訪れ、治療を受けると言い張り、分析家の自動車へ乗り込んでしまう。そうして分析家は自動車で患者を診るようになり、それが一週間ほど続いた*14。キアロスタミはこのアイディアを「5、6行のメモ」の形で受け取った*15。イギリスの映画批評家でBFIのプログラマー・協力者、ジェフ・アンドリューによれば、キアロスタミはそれを「友人」からもらったというが、詳細は不明である*16。ともかく彼はこのアイディアが気に入った。自動車というお気に入りの映画的装置(後述)の中で出来事が起きるからだ。キアロスタミは『ABCアフリカ』(2001)を編集しながらこの未来の作品の準備に取りかかったが、じきに精神分析家は診療のあいだ滅多に話さないことに気づくことになる。それでは映画が対話どころか独白になってしまうだろう。しかし新作の準備期間中に十分面白い人物たちと出会っていたので、複数の登場人物と自動車というアイディアはそのままに計画を変更した*17

*14 Abbas Kiarostami, “Préface” in 10 (Ten) Scénario, Petite bibliothèque des Cahiers du cinéma, Paris, 2002, pp. 5-6. この序文はほぼそのまま『10 on Ten』(2003)で繰り返される。
*15 Kiarostami, “Préface,” p. 5.
*16 Andrew, 10, p. 45.
*17 Kiarostami, “Préface,” pp. 6-7.

面白い人物たちの1人は間違いなくマニア・アクバリだった。2002年〜2004年に『10話』の制作過程についてキアロスタミとアクバリそれぞれにインタビューを行ったジェフ・アンドリューのモノグラフ『10』によれば、アクバリは「キアロスタミ作品のファン」で、「キアロスタミが女性についての映画を制作していると聞きつけるや、カメラの前でも後でも、御用はないか、と手紙を書いてよこした」*18という。2002年9月にロンドンで行われたアンドリューとの単独インタビューでアクバリは次のように語っていた*19

*18 Andrew, 10, p. 45.
*19 このインタビューについて、アクバリはキアロスタミが同席して発言をチェックしていたと主張したが、その場に居たのはインタビュアーのジェフ・アンドリューと通訳のRose Issaだけだった。(2023年1月8日付筆者宛ジェフ・アンドリュー氏のメールに拠る)。なお、ジェフ・アンドリュー氏には小論の英語版にお目通しいただき貴重なコメントを頂戴した。記して感謝する。

映画については大して教えてくれませんでした。キアロスタミは私の人生について話してくれといい、私の意見を知りたがりました。つまり、私がフェミニストなのか、女性の役割をどう見ているのか、女性が抱える困難や強さについて話してほしいと言いました。私がもう3、4年も精神分析に通っていると知って驚いていました。それで、いくつかというから、27ですと答えると、私の経験はもっと年上の、成熟した女性のそれではないかと感じたようです。
しかし現実には、私は10歳の息子の母親でした*20

*20 Andrew, 10, p. 45.

アンドリューは同じことをキアロスタミの視点からも語っている。

最初、マニアはわたしが俳優を探していると思い込んで、ちょっとスター気取りでした。誤解したようですが、それで、ありのままにしてください、と言ったら、帰っていき、翌週ヴィデオ・カセットを持って戻ってきました。それが素晴らしかったのです。マニアなら主人公になれると気づきました。それから、よかったら、知り合いを映画に誘ってくれませんか、と聞いてみました。そうすれば、映画のために新たな関係を築き上げる必要はありませんからね*21

*21 Andrew, 10, p. 46.

マニア・アクバリは同意し、(当時は)息子のアミーンを含む家族と友人をキアロスタミに紹介した。彼女の夫もキアロスタミのアシスタントとして働いた。映画で用いた自動車、衣装、アクセサリ、メイクはすべて彼女のものである。

撮影は3ヶ月かけて行われた。以下は2002年5月にカンヌで行われたアンドリューとのインタビューで、キアロスタミが撮影を回想したものだ。

一週間に2、3日撮影しました。カメラの準備はできていて、わたしは家でじっと座って電話を待っていました。マニアが息子や友人が撮影に参加できると電話をかけてきて、それでわたしたちも出かけていき撮影をしたのです。だいたい1、2時間撮影すると家に戻ってラッシュのチェックをし、出来がよくなかったら、また出かけていくという感じでした*22

*22 Andrew, 10, p. 46.

キアロスタミは撮影のとき滅多に自動車に同乗しなかった。運転手と乗客に「自分自身を演じ」させるためである。アンドリューとのインタビューによれば、キアロスタミは、

感情の入る重要なシーンでは一緒にいませんでした。別の自動車で追いかけ、ヴィデオで演技をチェックしました。というのは、2人の人物が自動車の中で話すとき、第3者──とりわけ監督!──がいるときよりも、ずっと正直で親密になれると考えるからです。
 シーンがうまくいかないときは難しいですが、わたしが1人で考えるよりもずっといいことを思いつくのを少し待ちます。というわけで、わたしはたいてい自動車の中にいないようにしていました*23

*23 Andrew, 10, pp. 47-48.

4. オートモビリティ

キアロスタミに撮影のあいだ姿を消すことを可能にしたのは、アクバリの自動車のダッシュボードに搭載された2台のデジタルカメラから編成された、一種の自動映画撮影装置だった。私はかつて別の論文でこれを「オートモビリティautomobility」と名付けた*24。auto-は撮影と運動という2つの自動プロセスを指し、-mobilityは動く映像と動く乗り物という二重の可動性を意味する。オートモビリティは、キアロスタミ映画の流れからして当然の帰結だった。長年にわたりキアロスタミは映画に自動車を使用してきたが、それが次第にデジタルと組み合わされるようになり、オートモビリティに行き着いたのである。オートモビリティの最初期の例は『クローズ・アップ』に見られる。映画の冒頭近く、観客の方へぐいぐい迫ってくるタクシーを前方から捉えたショットがある。タクシーの前進運動と、これからトクダネをものにしようする助手席の記者の興奮が見事に同期する。『そして人生はつづく』はロードムービーといっても過言ではないし、『桜桃の味』は動く自動車の中で交わされる会話に基づくほか、コーダはヴィデオカメラで撮影されている。『風が吹くまま』では、テヘランにいる上司から電話がかかってくるたびに、主人公は車を電波のいい丘の上まで走らせなければならない。『ABCアフリカ』は全編がデジタルカメラで撮影された最初の映画だが、2台のカメラの使用に伴う視点の二重化により、カメラの視点に一体化する傾向のある観客は不断にはぐらかされる。

*24 山本久美子「オートモビリティと介入──アッバス・キアロスタミ『10話』」『表象文化論研究』東京, 2006, pp. 40-46.

オートモビリティはトラヴェリング装置、動く映画館、乗客が互いの目を見ずに語り合えるサロンなど多くの目的に役立つが、とりわけ重要な機能は、アンドレ・バザンの機械的再現を実現する写真的モデルに運動性を付与して拡張することである。バザンによれば、

対象となる事物とその表象のあいだに、もうひとつの物以外には何も介在しないという事態が初めて生じたのだ。外部世界のイメージは初めて、人間の創造的介入なしに、動かしがたいプロセスに従って自動的に得られるようになった。写真家の個性が関係してくるのはもっぱら、対象の選択や方向づけ、そこに込められた教育的な意図においてである。それが最終的な作品にどれほど明白に見て取れようが、写真家の個性は画家の個性と同じ資格で表れているわけではない。あらゆる芸術は人間の存在の上に築かれている。写真においてだけ、私たちは人間の不在を享受する*25

*25 アンドレ・バザン、野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳「写真映像の存在論」『映画とは何か』上、岩波文庫, 2015, p. 16; André Bazin, “Ontologie de l’image photographique,” Qu’est-ce que le cinéma?, Paris, 2002, p. 13; “The Ontology of Photographic Image” in What is Cinema? Essays selected and translated by Hugh Gray, vol. 1, Berkeley, 1967, 2005, p. 13.

写真のように、オートモビリティは「人間の創造的介入なしに」世界のイメージを捉えるが、写真とは違って、世界の動くイメージあるいは動く世界のイメージを捉える。写真においてと同様に、監督の個性が関係するのはオペレーター(操縦者)と乗客の選択やオートモビリティの方向づけ、そこに込められた教育的意図(キアロスタミは長年教育機関で映画を撮ってきた)においてである。最後に、オートモビリティは写真と同じく、そしてキアロスタミ自身が証言するように、監督の不在を享受する。

オートモビリティはキアロスタミに演出家の排除について語ることを可能にした。彼によれば、演出家とはいまや映画を楽しむ最初の観客の位置に身を置く人物である*26。特権的な観客として演出家は非職業俳優に演出らしからぬ演出を与える。2002年9月にロンドンで行われたアンドリューによるインタビューでマニア・アクバリはこう述べていた。

*26 Kiarostami, “Préface,” pp. 8-9.

私は映画がどうなるのか本当に知りませんでした。言われたことをしただけです。ときには何を言って欲しいのか、キアロスタミが私にしっかり教えることもありましたが、そういうことは滅多にありませんでした。撮影の後で何かしら私のしたことが気に入らないと言われることもあれば、大喜びでそのまま撮影を続けることもありました。映画の最初のシークェエンスでは、キアロスタミが教えてくれたのは、私が演じる人物は離婚した母親──私がまさにそうでした──だということだけでした。でも後のシークエンスでは以前のシナリオからとった素材も使っていました。息子と何を話したのか私には絶対教えませんでしたし、息子にも私と何を話したのか言いませんでした。サプライズを仕掛けたかったのです*27

*27 Andrew, 10, p. 47.

一方で、オートモビリティのメカニズムは、マニア・アクバリがフッテージを撮影したのは自分で、キアロスタミは編集しただけだ、と主張するのを拒みはしない。自動撮影である以上、誰が撮影しようと結果は同じであり、この意味で『10話』は撮影監督不在の映画であるからだ。アッバス・キアロスタミ自身は2002年5月の『カイエ・デュ・シネマ』のインタビューでこう述べていた。「この映画〔『10話』〕はわたしの映画ではありません。あれはグループの映画です。クレジットロールで監督と名乗ることすらしていません。すべての名前が次から次へと出てきます。あの作品は集団の作品です」*28。2002年9月にロンドンで行われたアンドリューとのインタビューでは、キアロスタミはむしろ編集としての役割を強調している。「わたしは監督というよりは編集者でした。撮影のときに演出をしていないですからね。ただタイミングよく正しいセリフを言い終わるようにはしましたが」*29。これは驚くべきことだが、アッバス・キアロスタミはわれわれの問いにすでに応答していたのである。誰が『10話』を所有するのか──映画の制作に携わった誰もが所有する(ということは、誰も所有しないと言うに等しいだろう)。

*28 Entretien par Partrice Blouin et Charles Tesson les 20 et 29 mai 2002 in Abbas Kiarostami: Textes, entretiens, filmographie complète, Petite bibliothèque des Cahieres du cinéma, Paris, 2008, p. 163.
*29 Andrew, 10, p. 48.

***

『10話』では、運転手の母親が乗客との出会いを通じて変わっていくことで、息子との関係も変化してゆく。母親を変化へ導いたのは寺院へ案内してくれた老女である。この老女こそキアロスタミ的世界の優れた道案内であるルーヒーさんの化身であり、『10話』をキアロスタミのフィルムグラフィに分類することを可能にするのである。

オートモビリティはキアロスタミの「自動車=映画」の論理的帰結として、監督の介在なしに動く世界の自動的生成を実現する。この機制によって撮影されたフッテージは、クレジットロールに示されるように、映画に関わったすべての人に帰属する(あるいは誰にも帰属しない)。このようにキアロスタミは二重に、一度は監督として、もう一度は作品の「所有者」として、自身の立場を否定してみせる。それはとりも直さず従来の映画撮影のあり方を疑問に付し、非職業俳優をよりよく演出するためである。しかし、これはキアロスタミがその作家性を放棄したことを意味しない。キアロスタミはよく書かれた物語の作者として、オートモビリティを発明した作者として、またその独占的使用者として、映画のうちに断固として留まり続ける。そうして彼は非職業俳優と、「作品」と、そして映画そのものと新たな関係を取り結ぼうと試みるのである。

広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、髙山花子、福田安佐子、堀切克洋、角尾宣信、居村匠
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年2月22日 発行