第16回研究発表集会報告

研究発表5

報告:小田透

日時:2022年11月12日(土)13:30-16:00(一部ハイブリッド開催)

  • その恋闕を見るのは誰か?──三島由紀夫作品を通して見る『刀剣乱舞』のまなざしの構造/渡部宏樹(筑波大学)※オンライン発表
  • 「逆シミュレーション音楽」における物語とその解釈における(非/)身体性/大久保美紀(パリ第8大学)※オンライン発表
  • 機械の外の幽霊──関係論的アプローチとアニメイテッド・ペルソナ/伊藤京平(立命館大学)
  • 「出来事」の解釈学──フレドリック・ジェイムソンのサルトル受容/客本敦成(大阪大学)

司会:小田透(静岡県立大学)

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研究発表5は、オンライン発表2つ、対面発表2つが入り混じるハイブリッド開催となった。4つの研究の対象──ゲームと小説、現代音楽、現代哲学、文学理論──はきわめて多様で、共通点らしい共通点がなかったこと、しかしながら、どの研究も自らの対象にたいして何かしらの意味で理論的なアプローチを試みていたことは、まったく表象文化論学会らしいところでもあった。

渡部宏樹によるオンライン発表「その恋闕を見るのは誰か?──三島由紀夫作品を通して見る『刀剣乱舞』のまなざしの構造」は、映画理論における「まなざし」の議論をゲーム研究に応用することによって、ゲームから舞台までマルチメディア展開されている『刀剣乱舞』を、三島由紀夫の小説や論説と比較分析するものだった。しかしながら、そこで目論まれていたのは、両者の内容的な類似性を指摘するというよりも、両者が内包している快楽のメカニズムの構造的な相同性を明るみに出すことであり、そうすることで、両者に通底する日本の歴史のデータベース的な消費と享受の問題性を問い質すことであった。または、こう言ってみてもいいかもしれない。三島が分節した「文化概念としての天皇」──多数から一方的にまなざれるとともに、そのすべてをまなざし返す存在──という関係性を前景化することによって、『刀剣乱舞』における多幸的な恋闕──プレイヤーの操るゲーム内存在(審神者)と刀剣男子のあいだの関係性をゲーム外存在であるプレイヤーが特権的にまなざし返す──にはらまれている政治性を明るみに出そうとする試みであった、と。

しかしながら、視覚重視の構造分析が、ゲームにおけるキャラクターの「声」や、観客が声を上げる「応援上演」のミュージカル舞台にも適応可能なのかどうか、「まなざし」理論がそもそも前提としていた男性性の問題が、コンテンツの実際の消費者層と実証的に整合するものなのかどうかという疑問も提起された。

大久保美紀によるオンライン発表「「逆シミュレーション音楽」における物語とその解釈における(非/)身体性」は、作曲家の三輪眞弘のアルゴリズミック・コンポジション──偶然性や創作者の意図の原理的かつ方法論的な排除──を、トータル・セリエリズムから電子音楽につらなる20世紀の西洋音楽史に位置づける一方で、そのような合理主義的傾向にたいして三輪の初期作品《またりさま》が示す距離感を測定しようとするものだった。それは、不完全な人間には不可能なものを可能にするコンピューターによる音楽を、人間がその身体を手段として出現させるために、三輪が何を要請したのかを明らかにしようとする試みにほかならなかった。大久保によれば、三輪は一方において、技術的環境が切り開いた可能性に応える新たな身体性の創出──反復的な集団行為を、正確かつ高速で行うことができる肉体を訓練によって作り出すこと、不完全なものを完全なものに近づけていくこと──を求めたが、他方においては、そのような合理化を包み込むような非必然的な虚構の枠組み──仮想的物語──をも求めたという。

内的必然性をもたらすアルゴリズムそれ自体の恣意性を、その外的な非必然性にもかかかわらずこの世に受肉させるためには、何かしらの超越論的な枠組みが要請されるからだろうか。こうして、教会音楽に内包されていた宗教性が、三輪の作品に再導入されることになるという。しかしながら、三輪の要請する仮想的物語とアルゴリズムを、伝統的な教会音楽と比較において、とくに、それらのわかりやすさ/わかりにくさ、感覚的に理解可能/不可能という観点から、どのように位置付けることができるのかという問いが投げかけられた。

伊藤京平による対面発表「機械の外の幽霊──関係論的アプローチとアニメイテッド・ペルソナ」は、ロボットやAIの道徳的地位を現象学的に捉えるのか(認識者の問題とするか)、それとも、存在論なものとするか(ロボットやAIに内在するものとするか)という議論を踏まえつつ、森岡正博によるアニメイテッド・ペルソナ(animated persona)についての理論を補助線とすることで、関係論的なアプロ―チ──存在論的に在るはずだが、現象学的にしかそうと認識できないもの──を分節しようという試みだった。伊藤はそのような第三の可能性のうちに現れるものを「祈りのような信念」と呼び、そうすることで、ロボットやAIに霊魂を見出そうとするが、ここで彼が前景化しようとしていたのは、間主観的な認識の問題──わたしひとりがそのように捉えているのではなく、わたし以外の人々もそのように捉えている(のかもしれない/ではないか)という共通認識の可能性──ではなかっただろうか。それは、さらに突き詰めて言えば、表面性それ自体を感知することと、そこから出現する倫理の可能性を、レヴィナス的な絶対的な他者性の倫理とはべつのかたちで取り出そうとする試みでもあったはずである。

森岡の「アニメイテッド・ペルソナ」は、「動くもの」を生や心の対象とする西洋的な捉え方を批判するものであり、伊藤もまたそのような批判的視座を受け継いでいるようだが、「anima」という西欧の用語を「霊魂」と翻訳することの問題性が充分に検討されていなかったのではないか、いまあるのとはべつのかたちでロボットと人間の関係を分節させるために霊魂という経由は必要なのか、そのような経由を前提としない倫理的な関係もありえるのではないか、という疑問も提起された。

客本敦成による対面発表「「出来事」の解釈学──フレドリック・ジェイムソンのサルトル受容」は、サルトルを精読するジェイムソンを精読する試みであると同時に、ジェイムソンに逆らってジェイムソンを読む試みでもあった。というのも、ジェイムソン自身は、博士論文をもとにしたデビュー作『サルトル──文体の起源』(1961年)の再刊にさいして追加した「あとがき」(1984年)のなかで、『サルトル』には「分析的能力と対立させた意味での解釈的能力の弱さ」があったと認めているが、客本はむしろ、そこにすでに解釈的な種子が埋め込まれていたと主張する。人称や登場人物やアンガジュマンの問題系を焦点化するジェイムソンのサルトル読解は、単なる文体分析にとどまらないものであり、読者と文体の絡み合いを前景化していた。そこでは、個々の作品の解釈を越えた、解釈それ自体の問題化が試みられ、政治性を引き受けた解釈の可能性が示唆されていた。客本が目論んだのは、ジェイムソンが『政治的無意識──社会的象徴的行為としての物語』(1981年)において十全に発展させることになる政治的解釈学の萌芽を、最初期の仕事のなかに読み取ろうとする遡及的読解であった。

それは、読むという行為(とその中断)にはらまれている微妙な余剰のなかに、読者の問題や解釈の問題を読み込むことであると同時に、それらの架橋は『サルトル』においてはいまだ不充分であること浮き彫りにする試みでもあったのだろう。しかしながら、だとすれば、客本のジェイムソン論は、ニュークリティシズムや読者論や読むことの理論と比較することで、さらに明らかにされるものがあるのではないか、というコメントも提出された。

技術的な問題や会場の事情により、発表者4人を交えての全体討議は行われなかったこと、オンライン発表2つと対面発表2つにたいしてそれぞれ別々の討議が開かれたこと、それから、対面参加者は対面とオンラインの両方に参加できたが、オンライン参加者はオンライン部分にしか参加できないという非対称性があったことを、最後に言い添えておく。


その恋闕を見るのは誰か?──三島由紀夫作品を通して見る『刀剣乱舞』のまなざしの構造/渡部宏樹(筑波大学)

2015年にブラウザ・ゲームとして発表され2.5次元舞台など多メディアに展開している『刀剣乱舞』は、現在でも人気を博し日本刀ブームを引き起こしたと言われている。プレイヤーが審神者(さにわ)となって日本刀に込められた思いを「刀剣男士」として顕現させ、歴史の改変を目論む「歴史修正主義者」と名付けられた敵と戦うという設定であるが、ゲーム性よりも、「刀剣男士」同士の関係性や元の持ち主である歴史上の人物に対して彼らが抱いていた思慕の情がプレイヤーに向けられることが快楽の中心となっている。審神者によって日本の歴史的過去のエピソードを呼び出すという設定は三島由紀夫の『英霊の聲』(1966年)を強く想起させるものの、「刀剣男士」たちはプレイヤー=審神者に対して強い忠誠心を示すのに対して、三島が召喚する二・二六事件の青年将校と太平洋戦争末期の特攻隊員が示す感情は素朴な思慕ではなく天皇制を強く支持するからこそその勤めを果たさなかった昭和天皇に呪詛を述べる。

本発表は、三島にあったねじれが『刀剣乱舞』に存在しないことを出発点に、天皇に対する恋愛にも似た強い感情を意味する恋闕に注目し関連する三島作品と比較することで、『刀剣乱舞』におけるまなざしの構造を分析する。映画学におけるまなざしの理論、『憂国』(1961年)における麗子と武山の見る/見られる関係、『文化防衛論』(1967年)における見かえす全体性としての「文化概念としての天皇」といった議論を参照することで、プレイヤー=審神者が「刀剣男士」の恋闕をまなざす『刀剣乱舞』の中でどのように天皇制がポピュラー文化としての表象を与えられているかを議論する。

「逆シミュレーション音楽」における物語とその解釈における(非/)身体性/大久保美紀(パリ第8大学)

作曲家の三輪眞弘(1958-)は、西洋音楽が前提とする伝統的な身体鍛錬や固定化されたオーケストレーションの枠組みを超え、「機械−身体」の関係性に拠る芸術論を展開している。彼は、コンピュータを用いたアルゴリズミック・コンポジションという手法を用いて、コンピュータ空間で検証されたある法則に基づく現象を現実空間で生身の人間が模倣する「逆シミュレーション音楽」を考案した。このような音楽作品は、作曲家が規定するアルゴリズムを解釈・実践するパフォーマーによって、しばしば舞台芸術的演出を伴って実演されてきた。テクノロジーの時代の新しい身体性に拠るこうした音楽は、国際的に高く評価される。

三輪は2002年から04年まで参加した還元主義的芸術運動「方法主義」において、「方法マシン」を提案する。そこで、「逆シミュレーション音楽」初期作品である《またりさま》の演奏を通じて、論理計算に基づく規則を現実世界で実現する重要性を強調した。異なる「逆シミュレーション音楽」はそれぞれ、コンピュータが行うXOR演算のような規則に加え、「という夢を見た」と締め括られ、架空の古代文明や民間伝承にインスピレーションを受けたと思われる物語を持つ。演奏される音が精神性や感覚に依拠することを否定する「逆シミュレーション音楽」が、一見規則と無関係のフィクションを纏うのはなぜか。作曲家は、身体が演算を完璧に遂行するためには認識の枠組みとしての物語が必要であると説く。

本発表では、「逆シミュレーション音楽」作品が「あり得たかもしれない」物語に紐づけられる意味に着目し、人間の機械への憧憬と認識の問題を検討した上で、現代における新しい(非/)身体性に基づく芸術表現の可能性を考察する。

機械の外の幽霊──関係論的アプローチとアニメイテッド・ペルソナ/伊藤京平(立命館大学)

ロボットやAIの道徳的地位に関する理論の多くは内的性質──例えば意識・感じ感覚する能力の有無──に基づくものであるが、それらの性質を所有していることの実証可能性は低く、少なくとも現状のロボットやAIは該当しない。一方、近年提唱された外的性質に基づく関係論的アプローチは、内的性質に基づく理論とは別の仕方で道徳的地位に関する問題を探究する新しい潮流と言えるが、どのようなときに人間とロボットやAIの間に道徳的関係が成立するのか曖昧な点が残されている。 

本発表は森岡正博によるアニメイテッド・ペルソナ(animated persona)についての理論を補助線として、関係論的アプローチにおける道徳的関係の一つの極致を示す。森岡によれば、アニメイテッド・ペルソナは心の帰属が必ずしも叶わない対象(脳死患者、木、仮面)にも見出される。さらに生物・無生物を問わず適用可性を持つ3つのレイヤーが存在する。それらは1. 生物学的対象物のレイヤー、2. アニメイテッド・ペルソナのレイヤー、3. 自己意識的存在のレイヤーである。本発表は心理学における心の理論を用いて1.と2.の境界問題に回答し、主体にとって心の理論の埒外の状況にある対象に心を帰属する、届かないものへの祈りのような信念──唯物論的に説明可能だが対象の物理的身体には存在しない性質──を霊魂(anima)と位置付ける。これにより、関係論的アプローチにおける道徳的関係の極致とは、ロボットやAIに霊魂を見出すことであると結論づける。

「出来事」の解釈学──フレドリック・ジェイムソンのサルトル受容/客本敦成(大阪大学)

本発表はアメリカの理論家フレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson 1934-)の著作『サルトル 文体の起源』(1961年)におけるサルトル論を検討し、ジェイムソン理論の内容を明らかにする。

ジェイムソンは主著『政治的無意識 社会的象徴的行為としての物語』(1981年)において、自らの「政治的解釈学」の理論を解説している。「政治的解釈学」は芸術作品や文化事象の歴史的位置を定める(「歴史化」する)理論だが、その内容が十分に理解されているとは言い難いだろう。

そこで本発表では『サルトル』を検討することで、ジェイムソンの理論が、解釈対象における不在を解釈することで対象の歴史的位置を定めるものであることを明らかにする。具体的には、「出来事」概念を中心に『サルトル』の議論を整理し、同書における「出来事」と「出来事」の「解釈」が、「政治的解釈学」の原型であることを示す。

『サルトル』の議論は以下のように整理される。サルトルの文学作品では物語上の「出来事」が不在として描かれる。読者はサルトルの作品を読み、この不在に直面する登場人物の意識を共有する一方で、意識には還元されない、登場人物の偶然的な性質も認識する。意識と性質の隔たりは読者の「解釈」において埋められる。この時、性質を偶然的なものとしていた既存の解釈枠組みが変化し、新たな解釈枠組みによって作品の歴史的位置が定められる。
以上の整理を行ったうえで、『サルトル』での議論が修正されつつも「政治的解釈学」にまで受け継がれると結論する。

広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、髙山花子、福田安佐子、堀切克洋、角尾宣信、居村匠
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年2月22日 発行