研究ノート

まぼろしの「古典」──18世紀における「古代音楽の効果」の観念をめぐって

岡野宏

西洋音楽史における「古代」は他の芸術ジャンルとはいささか異なったあり方をしている。詩や演劇あるいは彫刻においては、古代ギリシア・ローマの具体的な作例が残存し、それらは「古典」として参照されてきた。これに対し音楽においては、そもそも具体的な作例がほとんど残存しなかった*1。空白の「古典」の地位はパレストリーナ、バッハ、ベートーヴェンなどの後代の作品が占めることになる。

*1 津上(1994)によれば、ヴィンチェンツォ・ガリレーイやアタナシウス・キルヒャーによって古代の旋律の紹介がなされ(キルヒャーのものは現在、偽作と考えられている)、19世紀に解読法の解明も進んだが、実作にまで影響を及ぼすものとはならなかった。しかし、ある「美的理念」として様々な局面で影響力を持つこととなった。

とはいえ音楽史において、参照項となる「古代」が全く存在しなかったわけではない。フィレンツェの知識人・音楽家グループ「カメラータ」を中心に成立したオペラが古代演劇を手本にしていたことはよく知られるが、彼らは文献によって得られた情報に基づき、その再現を図ったのである。音楽理論書や諸文献における音楽関連の記述を通じて後世にもたらされた情報は、一定の(ときに不正確な)「古代音楽」の観念を形成することに寄与した。

本稿でも、こうした文献を通じた「古代音楽」の観念が検討対象となる。ただし具体的な音楽作品を検討するわけではない。注目するのは、音楽のもたらす「効果 effect, effet, Wirkung」をめぐる18世紀の議論である。18世紀の音楽家・音楽著述家にとって、音楽のもつ効果の重要性は計り知れない(cf. Grant 2020)。そもそも音楽の目的は聞き手の情動を動かすことや徳を涵養することに設定されていたし、音楽療法に関する文献もしばしば刊行されている。17世紀半ば以降の娯楽としてのオペラの発展、器楽音楽の興隆など音楽文化が多様化するなかで、音楽による効果の意義は改めて問いなおされるべきものであった。


古代という参照項

18世紀の人々が「音楽のもたらす効果」について議論する際、もちろんゼロから行ったわけではない。そこには古代以来、伝承されてきた膨大な逸話の集積があった。古代ギリシアからは、その音楽によって動物や無生物までも魅了したオルフェウス、竪琴の響きによって石を動かし、テーベの町に城壁をめぐらせたアンフィオン、歌声によってアレクサンドロス大王の情動を次々と変化させたティモテウスの逸話などが、ユダヤ・キリスト教からは竪琴によってサウル王から悪霊を追い払うダビデの逸話などがもたらされ、降っては「ハーメルンの笛吹き男」などの中世の怪異譚のたぐい、さらにはパリの王立科学アカデミーの公刊誌に発表された最新の報告もそこに加わる。それらはある種のデータベースのように共存しており、各論者はそこから取捨選択を行い、肯定的もしくは否定的に言及することで持論の補強に用いるのである。

なかでも古代における音楽の効果がいかに重要な参照点であったかは、例えばチェンバーズ『百科事典』(1728年)、ツェドラー『あらゆる学術と技芸の完全なる普遍大辞典』(1732~1750年)、ディドロ/ダランベール編『百科全書』(1751~1772年)、ルソー『音楽辞典』(1767年)、ズルツァー『一般芸術理論』(1771~1774年)、コッホ『音楽辞典』(1802年)における「音楽 music, musique, Musik」項(『百科全書』はルソー執筆)、あるいはホーキンス『音楽の学および実践の通史』(1776年)、バーニー『音楽通史』(1776~1789年)、フォルケル『音楽通史』(1788~1801年)における古代音楽の箇所で、この点が論及されていることからも分かる。そもそも音楽一般を考察するうえでも、欠くことのできない論点だったのである。

しかしながら、18世紀において「古代音楽の持つ効果」は無条件で理想的なモデルとはならなかったのである。それには大きく二つの理由がある。第一に、伝えられるような驚異的な効果が現実に起こったとは「信じ難かった」からである。17世紀半ばのアタナシウス・キルヒャーのように超自然的な力を許容するならばいざしらず、合理的自然観と経験を重んじる18世紀人にとって、そうした効果が現実に起こるとは直ちに信じ難いものだった。

しかし伝承された逸話はある種の公共的な知識としてあり、単にこれを「偽」として退けることは容易ではない。むしろ何らかの解釈を通じて、それを「真」にすることが要請されるのである。例えばチャールズ・バーニーによれば、アンフィオンの逸話は、その韻律と助言によって人々が秩序に従うようになり、共同体を形成し野蛮な民から街を守るために防壁を築いたことの「寓意」に他ならない(Burney 1776: 191)。この場合、音楽の超自然的な効果は否定されているが、そのかわりに韻律の道徳的効果がより信じうるものとして提案されているのである。また17世紀末の英国の数学者・音楽理論家ジョン・ウォリスは自らが刊行したプトレマイオス『ハルモニア論』(1682年)に付した「付録」で、古代人にとって音楽は珍しいものであり、それゆえに超自然的なものに感じられたという説を提示する(Wallis 2014: 130)。これは効果を聴き手の主観に帰することで、主観的には「真」とする措置といえる*2

*2 本稿では、こうした「説明」の生成に関して、まとまった整理を行うことはできない。しかし今後の見通しとして、以下のような視点は確保されうるように思う。第1に、それぞれの「説明」が説得力を持つためには「なぜその効果(ないし効果の報告)が古代には発生し、現在では発生しないのか」という疑問に応答できるものでなくてはならないということ。この条件は「現在でも、それは発生しうる」という主張がなされる場合には解除されるが、新たに「一般的には現在発生しないのに、なぜ特定の場合には発生するのか」という疑問に応答できる必要が出てくる。第2に「説明」の手法は、効果の原因を音楽の客観的性質に帰する場合と、受容する人間の主観的気質に帰する場合に大別されるということ。この点は、後述の「古代音楽の完全性」の議論と相関する。

古代音楽の効果の「古典性」に関して、もう一つ問題となりうるのは、そもそも同時代音楽に較べて古代のそれは圧倒的に貧弱に思えることであった。すでにキルヒャー『普遍音楽』(1650年)第4巻において「古代の音楽は今日のものより完全で優れていたのか」という問いが提示され、使用される楽器や和音の種類など、多くの点で同時代の音楽のほうが優れているとされている。また新旧論争の発端となったシャルル・ペロー「ルイ大王の世紀」(1687年)では、和音を持たなかったために古代ギリシアの音楽は不完全であったとされる(中島 2018:76-77)。そもそもウォリスが上述のような推測を行ったのも、古代ギリシアの音楽が単声のみで構成されていたという認識を前提としている。単純な音楽が大きな効果を持つとはとても信じられない、というわけである。18世紀には古代音楽の素朴さはある程度、合意事項になっていたと思われる。


まぼろしの「古典」

このように古代音楽の効果の「古典性」はごく不安定なものであった。その実在性も信じ難く、そもそも音楽自体も完全性とは程遠い・・・。しかしながら、こうした困難を踏まえてなお筆者がそれを「古典」と呼びたいのは、そこに一種のパフォーマティブな性格を見いだすからである。つまりその「信じ難さ」は、却ってそこに適切な「説明」を与えなければならないという歴史における一種のオブセッションとなるのである。それをめぐって様々な反応が繰り広げられる空白の中心こそ、本稿でいう「まぼろしの古典」に他ならない。

古代音楽の効果はたしかに信じ難いかもしれない。しかし、ときにそのことが逆に現代に対する問いを喚起するのである。デュボス師『詩と絵画に関する批判的考察』(1719年)第1部第45章「いわゆる音楽について」では、以下のように説かれる。

われわれのオペラのサンフォニーは、とくにわれわれの音楽作品中最大の詩人であるリュリのオペラのサンフォニーは、古代人の音楽のもっとも驚くべき効果を真実らしいものに仕上げている。おそらく『テゼ』の戦争の騒音、『アルミード』の弱音器[付き弦楽器]およびおなじ作者の他の多くのサンフォニーは、アテーナイ人とおなじような活発な性格の人たちにこれを聞かせたら、古代作家の話のなかでわれわれに作りごとにみえた効果を実際に生じただろう[註:過去の事実に反する仮定として]。[...]これらのサンフォニーがわれわれを興奮させ、心を静め感動させるのを、つまりコルネイユやラシーヌの詩にほぼちかくわれわれにはたらきかけるのを感じないだろうか?(デュボス 1985:245、一部訳文を変更した)

ここではオペラのサンフォニー、とくにジャン゠バプティスト・リュリのそれが持つ効果が話題となっている。言及されているのは『テゼ』第一幕第九場「戦士の入場」および『アルミード』第二幕第三場「プレリュード」と考えられる。前者では高揚、後者では沈静の効果が、古代ほど鮮明ではないが──じっさいに観客自身が戦闘したり、寝入ったりすることはないので──、ある程度実現しているというのである。あまつさえ、リュリこそが古代音楽の逸話を信憑性のあるものにすると賛辞を惜しまない。

こうした主張には、ある同時代批判が込められている。一般的な同時代音楽は「模倣」の原理に従っておらず、それゆえ十分な効果を達成することがないのである(Grant 2020: 41)。デュボスにとって、リュリこそはそうした閉塞状況を打ち破った存在であった。

デュボスの論述は注目に値するものである。彼は古代音楽の効果の信じ難さを承認するが、そのことは逆にそれを真実らしく思わせてくれるリュリへの憧憬をもたらしている。ここで古代音楽の驚異的な効果の観念とリュリのオペラのそれは不思議な均衡を作りだして、互いを実体化させているようにみえる。

みずから音楽家でもあったジャン゠ジャック・ルソーは「言語起源論」(1781年死後刊行)第12章「音楽の起源」において、以下のように記す。

われわれは、ギリシャ人たちにおける雄弁と詩と音楽の不思議な効果について、つねに驚くのである。そのような効果はわれわれの頭の中では整理がつかない。というのは、われわれにはもはやそのような効果を味わうことがないからである。(ルソー 2007:105)

ルソーは古代音楽の効果の信じ難さを表明するが、その「信じ難さ」はむしろ同時代への問いを喚起するものである。彼によれば、ラモーに代表される同時代のフランス音楽は純粋に感覚的なものに偏重しており、真の効果を得ることがない。

彼等がこの芸術を純粋に物理的な印象に近づければ近づけるほど、ますますその芸術をその起源から遠ざけ、そして原初の力強さを奪いとるのである。言葉のアクセントを離れて、和声的な制度にだけしがみついた音楽は[...]もはやわれわれにはなんの効果も及ぼさないであろう。(ルソー 2007:135)

ルソーにおいて、原初の音楽が力強さを持っていたのは制度として確立する以前、いまだ言葉との境界が不分明な時代であった。言葉の抑揚はそのまま旋律線であり、感情をあるがままに表出した。これに対し、感覚に訴えるだけの同時代の音楽はより高度であるにも関わらず堕落している。「学問芸術論」を執筆したルソーにあって、この「堕落」がひとり音楽のみならず、社会全般にかかるものであることは言うまでもない*3。過度に文明化してしまった近代は音楽の効果を信じること「すら」できなくなっているのである。

*3 古代と近代の対比はすでに『百科全書』「音楽」項にみられる。内藤(2002)第4章では、詳細なその分析がなされている。

しかし、この「堕落」からの救済も音楽によるのである。『告白』第8巻において、ルソーは自作のオペラ『村の占い師』(1752年)が初演された際のことを回想している。

しかしこれほど完全で、甘美で、心を打つような陶酔が、とりわけ宮廷で、初演の日に、上演中ずっと支配したのを知らない。この上演を見た人たちは、それを覚えているに違いない。というのは、その効果は類がなかったからである。(ルソー 1979:411)

この箇所について、スタロバンスキーが「ここに、かつて人類最初の祭りにおいて存在したような人々の融合[...]が、再発見される」(スタロバンスキー 1993:239)と述べているのは至当であろう。一時的だとしても、音楽を通じて宮廷に古代的な和合のまぼろしが生じるのである。本稿の論旨にひきよせれば、このとき「古代音楽の効果」が「近代を古代にしてしまう音楽の効果」へと変異していることは見逃せない。音楽は強制的に近代人を「信じ難さ」から連れ去ってしまうのだ。


おわりに

本稿でみた「まぼろしの古典」は、なにも古代の観念にとり憑かれた18世紀人だけのものではない。音楽による「ディオニソス的陶酔」を言挙げする『悲劇の誕生』(1872年)のニーチェも然りであろうが、ここでは現代の事例として、科学者・音楽家である大橋力=山城祥二(1933年~)が提起する「ハイパーソニック・エフェクト」について検討を加えてみたい。

「ハイパーソニック・エフェクト」(以下、HEと略記)とは可聴域を超えた超高周波音を含む音響によって発生する独特な美感を指す。その特徴は超高周波音それ自体は聴取することができないということである。このためにHEは「不可思議な発現条件」*4を持つといわれるのだが、このことは決して否定的に捉えられていない。というのも、この「不可思議さ」こそが、それを見逃してきた近代的な「明晰判明知」へのカウンターたりうる根拠だからである。近代知にあっては「連続性、渾然性、流動性」(大橋 2017:499)が排除されていたが、HEはその限界を乗り越える可能性を秘めているとされる。

*4 大橋 2017:ⅵ。じっさいHEの発現メカニズムは完全には解明されていない。本稿はこれを事実として承認するというよりは、一つの観念として捉えるものである。

さらに、このカウンター性は空間的・時間的な対比によって強化される。大橋は現代の都市空間を超高周波音を含まない不自然な状態にあるとする。これに対比されるのが熱帯雨林の音環境である。そこには豊富な超高周波音が含まれており、様々な良質な効果を心身にもたらすとされる。さらにそれは時間的な対比も内包することになる。というのも熱帯雨林は人類の原初の音環境とされるからである。そこから現生人類は本来的な音環境から遮断されており、それゆえ不健全なのであるという理論が導かれる。

18世紀における「古代」が、21世紀には「熱帯雨林」となっているといったらいい過ぎだろうか(失礼!だが、じっさいに熱帯雨林の音環境を体験したことのある人はそう多くないと思う)。ある驚異的で信じ難い効果の観念が提示されたとき、ひとは「自分は本当の効果を音楽から受けとっていないのではないか」というかすかな疑念を抱くだろう。そして、いまだ知らぬ「本当の効果」を体感するために、ハイレゾ音源を手に取るかもしれない。そのとき働いているのは、18世紀と同様の、しかしまた別種の「まぼろしの古典」であるに違いない。


参考文献

デュボス、J. B.『詩画論Ⅰ』木幡瑞枝訳、東京:玉川大学出版部、1985年。
キルヒャー『普遍音 調和と不調和の多いなる術』菊池賞訳、東京:工作舎、2013年。
内藤義博『ルソーの音楽思想』東京:駿河台出版社、2002年。
中島潤『知られざる論客 シャルル・ペロー 新旧論争における童話作家』名古屋:三恵社、2018年。
大橋力『ハイパーソニック・エフェクト』東京:岩波書店、2017年。
ルソー、ジャン・ジャック『言語起源論 旋律および音楽的模倣を論ず』小林善彦訳、東京:現代思潮新社、オンデマンド版、2007年。
ルソー『告白(上)』小林善彦訳、東京:白水社、1979年。
スタロバンスキー、ジャン『病のうちなる治療薬 啓蒙の時代の人為に対する批判と正当化』小池健男・川那部保明訳、東京:法政大学出版局、1993年。
津上英輔「ヴィンチェンツォ・ガリレーイと古代音楽断片―西洋古典音楽における古典の伝統の一断面―」『美学』、第45巻第1号、31~41ページ、1994年。
Burney, Charles, A General History of Music: From the Earliest Ages to the Present Period, Vol. 1, London: Printed for the Author, 1776.(https://archive.org/details/generalhistoryofburn、2021年2月4日最終閲覧)
Grant, Roger Matthew, Peculiar Attunements: How Affect Theory Turned Musical, New York: Fordham University Press, 2020.
Wallis, John, Writings on Music, ed. by David Cram and Benjamin Wardhaugh, London: Routledge, 2014.

岡野宏(東京大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年3月7日 発行