研究ノート

グレーバーとクロポトキンをつなぐもの──相互扶助の倫理的感性

小田透

水の入ったバケツをつかみ、燃え盛る隣の家に駆けつけるようにわたしを誘うのは、隣人愛ではない……それよりずっと広がりはあるものの、もっと漠然としている人間的連帯や社交性の感覚または本能 a far wider, even though more vague feeling or instinct of human solidarity and sociabilityが、私を動かすのである。(クロポトキン『相互扶助論』)

コミュニズムはあらゆる人間的社交性の基礎 the foundation of all human sociabilityなのだ。(グレーバー『負債論』)

2020年9月に亡くなった人類学者デヴィッド・グレーバーは、大著『負債論 Debt』(2011)のとある註の中で、マルクスにとっての「コミュニズム」が、来るべき未来社会を到来させることを目指す政治運動であると同時に、そのような社会そのものでもあったことを指摘しつつ、それに続けて、自らが依拠するのは「それとは別の革命理論の系統」であり、そのもっとも著名な例としてクロポトキンの『相互扶助論──進化の一要因 Mutual Aid: A Factor of Evolution』(1902)を挙げている*1。奇しくも、グレーバーの最後の仕事のひとつは、AK Pressから刊行予定のクロポトキンの『相互扶助論』に寄せた序論であった*2

*1 Graeber, David. Debt: The First 5000 Year. Melville House Publishing, 2014. p.413n9(酒井隆史監訳、高祖岩三郎、佐々木夏子訳『負債論――貨幣と暴力の5000年』以文社、2016年。660‐61頁註9)。 訳文を一部変更。
*2 デヴィッド・グレーバーとアンドレイ・グルバチッチによる序論に加えて、ルース・キンナによるまえがき、GATSによる序文、アラン・アントリフによるあとがき、N. O. ボンゾによる挿絵のついたエディション──『相互扶助論──進化の輝ける一要因 Mutual Aid: An Illuminated Factor of Evolution』──は、PM Pressから2021年5月に刊行予定。グレーバーとグルバチッチによる序論はPM Pressのサイトで全文が公開されている(https://blog.pmpress.org/2020/09/03/in-loving-memory-david-graeber/)。現代を代表するクロポトキン研究者であるルース・キンナによるまえがきの一部は、ROARのウェブサイトで公開されている(https://roarmag.org/essays/kropotkin-mutual-aid/)。

グレーバーとクロポトキンをつなぐもの、それは、コミュニズムを、経済体系や政治形態として(だけ)ではなく、モラル的なものとして、わたしたちの生のもっとも基礎的な共同的力能──連帯と社交性 solidarity and sociability──として捉える態度だろう。ここでモラルというのは、定式化された命法としての道徳というよりも、日常生活においてほとんど無意識のうちに表出される感性やふるまいに近いものである*3

*3 『負債論』の訳者たちが訳注のなかで指摘しているように、moralやmoralityはラテン語のmores──(1)「集団の慣習や慣行」、(2)「それらによって育まれた個人の道徳的意識、心情、態度」、(3)「共同体の倫理的規範の意」──を起源とする言葉であり、「集団的次元と個人的次元の両者をまたぎ、さらにそれらの交錯する次元をも示唆する」広い意味をもつ言葉として解すべきものである(9頁)。「社交性」「連帯」「協同」なども、当然ながら、「相互扶助」も、このように交錯的に定位すべきだろう。クロポトキンは、「道徳感覚 the moral sense」は、嗅覚や触覚と同じように「自然な能力 a natural faculty」としてわたしたちのなかにある、と主張する。Kropotkin, Peter. “Anarchist Morality” in Fugitive Writings. Black Rose Books, 1993, p. 141. 同テクストで、クロポトキンはアダム・スミスの『道徳感情論』にも言及している(p. 138)。

19世紀後半から20世紀初頭にかけてアナキズムの一般理論を整理したP・クロポトキン(P. Kropotkin; 1842–1921)の仕事は、近年、アナキズムという狭い文脈にとどまらないかたちで見直されてきている。レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア A Paradise Built in Hell』(2009)は、災害のなかで立ち上がる相互扶助的な臨時の共同体の歴史的事例を詳述するなかで、クロポトキンに触れている。クリスティン・ロスは『共有の贅沢 Communal Luxury」(2015)のなかで、地理学者としてのクロポトキンの業績を、パリ・コミューン以後の左翼思想運動との絡みで論じている。マイク・デイヴィスもまた地理学者としての側面を前面に押し出しつつ、『マルクス 古き神々と新しき謎 Old Gods, New Enigmas』(2018)では、気候変動を自らの世界観の根底に据えた先駆的な存在としてクロポトキンを再定位している。クロポトキンが分節した「相互扶助」は、パンデミックが既存の福祉国家制度の限界や隙間を露呈させるなか、ふたたび大きな注目を集めている*4

*4 たとえばSpace, Dean. Mutual Aid: Bulding Solidarity During This Crisis (and the Next). Verso, 2020. Tolentino, Jia. “What Mutual Aid Can Do During a Pandemic.” New Yorker. May 18, 2020 (https://www.newyorker.com/magazine/2020/05/18/what-mutual-aid-can-do-during-a-pandemic)など。

本研究ノートは、『相互扶助論』の思想史的かつ内在的な文脈化を試みることで、「相互扶助」という感性/実践/思想を、現代において批判的に捉え直すための準備作業を行う。


思想史的位置づけ──社会ダーウィニズムに逆らって

『相互扶助論』は、イギリスの高名な月刊文芸誌『19世紀 The Nineteenth Century』に1888年2月に掲載されたトマス・ハクスリーの「人間社会における生存闘争 The Struggle for Existence in Human Society」──「剣闘士的 gladiatorial」なダーウィン解釈──への反論として構想されたものだった*5*6。同誌の創刊者にして編集者であるジェームズ・ノウルズから反論掲載の許諾を取り付けたクロポトキンは、それに加えて、アルフレッド・ウォレスとともにアマゾンへ動植物の収集旅行に出かけたこともあり、チャールズ・ダーウィンの誤読に憤る博物学者ヘンリー・ウォルター・ベイツから、ハクスリーとは異なる解釈──個体間の競争だけではなく、個体間の協力をも進化の要因とする多元的な解釈──こそが「真のダーウィニズム」であるという励ましを受けていた*7。『相互扶助論』の背景には、19世紀を根底から揺るがす一大事件であったダーウィンの進化論をめぐるひとつの解釈戦争──「闘争」は比喩的なのか字義的なのか──があった*8。そして『相互扶助論』の遠大なる目的とは、社会ダーウィニズムには逆らいつつ、しかしダーウィンには寄り添いながら、競争や闘争に代わるオルタナティヴな倫理的可能性を分節化することであった。

*5 『相互扶助論』は同誌に連載されたテクストをまとめたものである。「動物のあいだの相互扶助 Mutual Aid Among Animals」(1890年9月、11月)、「野蛮人のあいだの相互扶助 Mutual Aid Among Savages」(1891年4月)、「蛮族のあいだの相互扶助 Mutual Aid Among the Barbarians」(1892年1月)、「中世都市における相互扶助 Mutual Aid in the Mediaeval City」(1894年8月、9月)、「現代人のあいだの相互扶助 Mutual Aid Among Modern Men」(1896年1月、6月)。1902年の刊行時に、最後のパートは「わたしたちのあいだの相互扶助 Mutual Aid Among Ourselves」と改題され、「序論 Introduction」と「結論 Conclusion」と「補遺 Appendix」が付け足されている。1914年版には短い「前書き Preface」が付け加えられた。『相互扶助論』には広く入手可能なクリティカル・エディションがないため、本研究ノートでは便宜的にKropotkin, Peter. Mutual Aid: A Factor of Evolution. Dover Publications, 2006(1914年版のリプリント)を用いる。クロポトキンのテクストの大半は、Anarchy Archives(http://dwardmac.pitzer.edu/Anarchist_Archives/)やThe Anarchist Library(https://theanarchistlibrary.org/)から入手可能である。
*6 ハクスリーとクロポトキンの関係については、Kinna, Ruth. “Kropotkin and Huxley.” Politics, vol. 12, no. 2, 1992, pp. 41-47を参照。
*7 Mutual Aid, pp. xvi-xvii.
*8 Mutual Aid, pp. 1-3. 生物学と人類史を連続的に語っている点で、『相互扶助論』は、『種の起源』のダーウィンというより、『人間の由来』のダーウィンに連なるものである。

とはいえ、自然から、協力や協同という善良そうな理想を引き出すというのは、自然から、万人の万人にたいする闘争という血生臭いイデオロギーや、利己的で功利主義的で合理主義的なホモ・エコノミクスを引き出そうとするのと同じくらい、いかがわしい行為である。自然から倫理を引き出そうとする態度──「ある」から「べき」への横滑り──は、つねに問題含みである。進化生物学者にして優れたエッセイストでもあったスティーヴン・ジェイ・グールドが、クロポトキンのことを僻目でみていたのも無理のないことだった*9

*9 Gould, Stephen J. “Kropotkin Was No Crackpot.” Natural History, vol. 97, no. 7, 1988, pp. 12-21.

しかし、科学史家ダニエル・P・トーデスによれば、『相互扶助論』はクロポトキンというひとりのアナキストの奇説ではなく、ロシアにおける正統的なダーウィン批判──ダーウィンに内在するマルサス的世界観(人口は増加し、食料は不足するがゆえに、闘争は不可避である)の問い直し──を引き継ぐものである*10。ダーウィンやウォレスの生きられた経験である熱帯の過剰なまでに豊饒な自然ではなく、ロシア人にとっての共通認識である寒冷で峻厳な自然を梃子にして、クロポトキンは、「自然淘汰」の争点や力点を、個体同士の生存闘争から、個体群とその自然環境のあいだの生存闘争(とそこで生存戦略として立ち上がってくる個体群のあいだの協力と協働)へとシフトさせる。

*10 Todes, Daniel P. “Darwin’s Malthusian Metaphor and Russian Evolutionary Thought, 1859-1917.” Isis, vol. 78, no. 4, 1987, pp. 537-51. トーデスはこの論文での議論をDarwin Without Malthus: The Struggle for Existence in Russian Evolutionary Thought. Oxford UP, 1989(垂水雄二訳『ロシアの博物学者たち──ダーウィン進化論と相互扶助』工作舎、1992年)でさらに展開している。


内在的位置づけ──超域性、生きられた経験

『相互扶助論』は、19世紀が収集した膨大な知の総合的アレンジメント──進化論、動物学、人類学、歴史学、社会学──であると同時に、数ヶ国にまたがるさまざまな知的潮流──ロシアの博物学、非ヨーロッパ社会の民族誌、スラヴ-南欧のアナキズム、ヨーロッパの実証主義科学──の特異な結節点でもあった。そこに、『相互扶助論』の魅力的な雑多さと厄介な捉えづらさがある。

『相互扶助論』をはじめ、アナキズム=コミュニズム の立場から社会経済の問題を総体的に論じた『麺麭の略取 La Conquête du Pain; The Conquest of Bread』(仏語版1892;英語版1906)、肉体労働と頭脳労働の融合や都市と田舎の再編成を構想する『田園、工場、仕事場 Fields, Factories, and Workshops』(1899)、序文を寄せたデンマークの批評家ゲーオア・ブランデスがゲーテの『詩と真実』に比して激賞した自伝『ある革命家の思い出 Memoirs of a Revolutionist』(1899)といったクロポトキンの主著はすべて、内容のうえで相互に響き合っている。大杉栄が「動物界の相互扶助」のなかでわたしたちの注意をうながしているように、『相互扶助論』の冒頭に置かれた東シベリアと北満州の峻厳なる冬の自然風景は、1860年初頭に数年にわたって東シベリアや北満州でフィールドワークを行い、将来を期待された若き地理学者として北欧へ実地調査に出かけていたクロポトキンの生きられた経験なしには表象されえなかった箇所だろう*11

*11 大杉栄「動物界の相互扶助」『大杉栄全集』第3巻、ぱる出版、2014年、158頁。

『相互扶助論』は、クロポトキンの生の経験と知的な冒険との両方を集約するテクストである*12

*12 進化と革命の問題は、同時代のアナキストたちの共通関心でもあった。クロポトキンと同じく在野の地理学者であったエリゼ・ルクリュは、1880年に“Evolution et révolution”を発表している。明治期の日本に来訪し、2年ほど東京外国語学校でロシア語を教えたレフ・メーチニコフは、イギリスの評論誌『同時代評論 The Contemporary Review』の1886年7月号にのRevolution and Evolution”を発表している。


二重の意味での倫理の進化

『相互扶助論』の論点はいくつかあるが、そのひとつは、競争や闘争とならんで協力や相互扶助もまた進化の要因であること、もうひとつは、相互扶助の感覚や道徳感情それ自体が生命史のなかで発展していく傾向にあるということだ。

クロポトキンの議論をやや乱暴にまとめれば、次のようになるだろう。相互扶助は、前段階における限界を克服し、別のものに姿を変え、その適応範囲を拡大していく。動物における相互扶助は、生物的に限界づけられている。野蛮人の相互扶助は、血縁的な同胞相手にしかおよばない。蛮族のあいだの相互扶助は、村落共同体という地縁的な仲間にまで拡大される。中世都市では、相互扶助が職能団体という次元でも機能する。現代では、血縁、地縁、職縁とはまたべつの、趣味や関心などに由来する相互扶助的な団体が観察されるし、そのような相互扶助は国際的な広がりさえ持ち始めている。相互扶助は、生物史、人類史に遍在する自然な現象であり、逸脱や異端などではなく、常態である*13

*13 とはいえ、『相互扶助論』には別の対抗ナラティヴもあることは指摘しておかなければならない。相互扶助の感性や実践を解体し、瓦解させるような傾向もまた、歴史に遍在する。共同体の感覚を解体する利己的な個人主義であり、自発的な相互扶助の実践をすべて吸収して管理してしまおうとする国家である。クロポトキンは、序論部分で、1)拡大的な包摂という普遍化をめざす前進と、2)そのような自発的な拡充を特定利害のためにエンジニアしようとする権威主義的な方向と、3)旧来的な限界のなかに踏みとどまろう保守的な後退の3つの傾向のせめぎ合いに言及している。『相互扶助論』の現代における相互扶助についての論考と同時期にフランス語で書かれた「国家――その歴史的役割 L'État: son rôle historique」(1897)は、ふたつめのラインから、『相互扶助論』の裏面を描き出す補完的テクストである。肥大化するエゴイズムにたいするクロポトキンの危機意識は、アナキズムを越える一般倫理を目指した未完のテクスト『倫理学 Ethics』に収められることになる「今日の倫理的必要 The Ethical Need of the Present Day」、「自然の道徳性 The Morality of Nature」に色濃く現れている。それぞれ、1904年8月、1905年3月に、『19世紀』の後継誌である『19世紀とその後 The Nineteenth Century and After』に掲載されたこれらのテクストには、詳細な註のついた大窪一志訳『相互扶助再論』同時代社、2012年がある。

クロポトキンは、ダーウィンのテクストにおいて比喩的に使われていた「闘争」を字義的に解釈する社会ダーウィニズムを批判したが、『相互扶助論』におけるクロポトキンの「進化」という用語にも、比喩的な含みがある。クロポトキンは自然と文化を相補的に捉えていた、ということができるだろう。文化は自然的与件のうえに成立するが、自然が与えた条件を乗り越えていくことができるし、そのようにして後天的に獲得された感性やふるまいは、後代に伝えられていく。裏を返せば、相互扶助は放っておけば必然的に進化するものではない。可能性は教育される必要がある。「人は、遺伝する本能と教育の両方の産物である。」*14

*14 Mutual Aid, p. 228. ネオ・ラマルキズムに接ぎ木された『相互扶助論』の生物学的アップデート版ともいうべき1910年から1915年にかけてのいくつかの論考は、単著としてはまとめられることはなかった。これらの論考については、Kropotkin, Peter. Evolution and Environment. Black Rose Books, 1995を参照。


日常的な相互扶助、自由な贈与

『相互扶助論』は、相互扶助を「すべき」であるという強制的な義務として正当化しようという試みではないし、相互扶助を理想に祭り上げるものでもない。なぜなら、相互扶助はつねにすでに、動物界から人間界を通底するものとして、わたしたちの生の事実のなかにあったからである。

決して完全にひとり孤立することのなかった生命には進化の産物として社交性 sociabilityという力能が備わっており、わたしたちのなかには相互扶助の感覚が、何か抗いがたいものとして息づいている(現代的な用語を使うなら、それは情動と呼んでよいものかもしれない)*15。それは、いわば、抽象化された感情──人間的連帯の意識である。

*15 「脳の屁理屈は相互扶助の感覚に抗えない。なぜならこの感覚は、数千年におよぶ人間の社会生活、数十万年におよぶ先行人類の社会生活によって養われてきたからである。」(Mutual Aid, p. 228)

愛、共感、自己犠牲はたしかにわたしたちの道徳的感情の前進的展開において大きな役割を演じている。しかし、人類 mankindの社会の基礎は、愛ではないし、共感でさえない。人間的連帯の意識 conscienceである。そのような意識がほんの本能的な段階にしかないとしても、である。相互扶助の実践からひとりひとりが借りてくる力、ひとりひとりのしあわせとすべてのひとのしあわせのあいだの密接な絡み合い the close dependency of every one’s happiness upon the happiness of all、自分と対等 equalな存在として他のひとりひとりの権利を考えるように個人をうながす正義または平衡 justice or equityの感覚──それらにたいする無意識の承認 unconscious recognitionである*16

*16 Mutual Aid, p. xvi. このconscienceは、フランス語の場合の二重の意味──「意識」と「良心」──を踏まえているように思われる。この語は『相互扶助論』のなかで数回繰り返されており、「意識」の意味が優勢だが、「良心」のニュアンスもある。滞在先の言語を執筆に選んだクロポトキンは、ロシア語、フランス語、英語の著作を残した多言語作家であり、自己翻訳者であり、その意味では、多和田葉子が言うような、母語の外へ出ることを選んだ「エクソフォン」な書き手でもあったと考えることもできるだろう。この箇所のフランス語の残響がどこまで意図されたものであるかはともかく、ここに多言語の交錯を見てとることは、充分正当化できる解釈ではないだろうか。

『相互扶助論』のなかでクロポトキンが倦むことなく主張し続けるのは、生物的社会的な与件である本能的な限界の意識的な克服である。愛や共感といった自明に思われるような絆や繋がりを押し広げ、人類という抽象的な類的存在をあえて意識することなく意識し、ありとあらゆる人と連帯できるようになること。

『相互扶助論』の仏訳タイトルがEntr’aide(『間-助』)となっているのはきわめて示唆的だ*17。重要なのは、「あいだ」なのだ。孤立的な個体ではなく、相互に頼り合う個の関係であり、そのような個の関係性から立ち上がってくる共同的な倫理の可能性が重要なのである*18。わたしたちのしあわせにかなう至高の倫理のかたちとして、クロポトキンは、「隣人から受け取ることを期待する以上のものを自由に贈与すること freely giving more than one expects to receive from his neighbours」を想像するが、それは交換関係はおろか、正義や平衡といった互酬性の先にあるものであり、数量化や功利主義を越えるものである*19。ここでのポイントは、「贈与」ではなく、「自由に」のほうにある。

*17 このタイトルを提案したのはルクリュだという。s’entraiderという動詞形は17世紀から使われていたが、名詞形の用法は、19世紀末から20世紀にかけてまだ珍しいものであった。Enckell, Marianne. "Note sur l'histoire d'un mot." Réfractions, no. 23, pp. 5-8を参照。

*18 たとえばジュディス・バトラーは『自分自身を説明すること』(佐藤嘉幸、清水晶子訳、月曜社、2008年)で、そのような相互依存的で脆弱な主体性を分節し、そこから倫理的な思考を立ち上げようとしている。バトラーがこのテクストで依拠する哲学者のひとりであるエマニュエル・レヴィナスの思考にも、前政治的なアナキズム的契機があるが、それについてはミゲル・アバンスール、松葉類、山下雄大訳『国家に抗するデモクラシー』法政大学出版局、2019年を参照。
*19 Mutual Aid, p. 247.「互酬性とはわたしたちが正義を想像する主要なやり方である」(『負債論』171頁; Debt, p. 114)。ここにジャン・マリー・ギュイヨーの義務論の影響──「横溢する生命の…自己贈与 a superabundance of life…o give itself」──を見てとることもできるだろう(Kropotkin, Peter. “Anarchist Morality” in Fugitive Writings. Black Rose Books, 1993, p. 149)。クロポトキンにとってのギュイヨーの重要性は、大窪も指摘している(『相互扶助再論』283‐84頁)。

『相互扶助論』は、極限的なとっさの行動を倫理的な理想として掲げているように見える部分もある。たとえば、自らの命をかえりみず赤の他人を助けようとする行為。しかし、そのような英雄的で自己犠牲的と呼べるかもしれない行為とともに、わたしたちのだれもが自分の経験のなかではよく知っていながら、歴史には記録されることのない日常生活のなかのちいさな出来事としての相互扶助にも、クロポトキンは光を当てようとしている*20。それは、すべてのひとのひとりひとりのしあわせ the happiness of all/ le bonheur de tous が、クロポトキンにとっては決して譲ることのできない究極的な目的だからだ*21。この具体的な普遍性──「すべてのひと」を比喩的かつ字義的に受け止めること──にこそ、クロポトキンからグレーバーにつながる「別の革命理論の系統」のすべてが賭けられているように思われる。

*20 Mutual Aid, pp. 96-97. グレーバーは、日常におけるこまごまとした頼み事──テーブルのうえの塩を取ってください──に応えるときに、わたしたちは同量の好意による返礼を期待しないだろうと言う。このようなふるまいを、彼は、「基盤的コミュニズム baseline communism」と呼んでいる。(『負債論』149頁; Debt, p. 98)。
*21 この傾向は『麺麭の略取』にはっきり現れている。だが、このような態度は、19世紀の典型的なブルジョアや労働者階級から失笑を招くようなものだったのかもしれない。クロポトキンと同世代のエミール・ゾラの『居酒屋 L'Assommoir』(1877)のなかには、次のような一節がある。「ジェルヴェーズはすべてのひとのしあわせを嘲笑った Gervaise se moquait du bonheur de tous」(Zola, Émile. Les Rougon-Macquarts. Gallimard, 1961, vol. II. p. 537)。

小田透 (静岡県立大学、比較文学・批判理論

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年3月7日 発行