研究ノート

廣瀬純氏による拙著『眼がスクリーンになるとき』書評について

福尾匠

先日刊行された『表象 13』に、廣瀬純氏による拙著『眼がスクリーンになるとき——ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社、2018)への書評が掲載された*1。この書評は一貫して拙著に対して批判的であり、本稿はその批判への反論をおこなうものである。したがって出発点として本稿は消極的な性質のテクストだが、廣瀬氏による批判の考察をとおして、われわれふたりのあいだにある前提のちがいを突き止め、それを問いとして立てることができれば本稿もたんに消極的なものではなくなるだろう。廣瀬氏が挙げる批判点はこれまでほかの論者から提起されたのと同様のものを多く含んでおり、ここでその代表として廣瀬氏の批判に応えることで、拙著に対するあるタイプの態度の根底にあるより一般的な問題を掘り当てることができるだろうからだ*2

*1 廣瀬純「書かれている順番で読むことの難しさ」、『表象 13』、表象文化論学会、2019年、204-207頁。
*2 たとえば拙著の合評会では特定質問者の堀千晶が、また、東京大学表象文化論研究室で開講された演習で執筆された書評では相馬巧と高部遼が廣瀬氏と同様の批判点を挙げている(小倉拓也・福尾匠・千葉雅也・堀千晶「『カオスに抗する闘い』『眼がスクリーンになるとき』合評会」、DG-Lab、クロスパル高槻、2019年2月8日。「書評による対論「大学院・表象文化論演習」成果の公開」URL: https://repre.c.u-tokyo.ac.jp/2019/02/20/ *最終アクセス2019/05/23)。


批判の検討に入る前に、この書評全体をとおして見られる偏りについて二点だけ触れておこう。まず、本書評でおこなわれる拙著への言及は、そのほぼすべてが「はじめに」(5-11頁)と第3章(104-156頁)に集中している。例外は拙著の結論に相当し「はじめに」の内容に還ってくる第5章第3節の一節(291-292頁)が引かれる箇所だけだ。そして、拙著で『シネマ』のつぎに頻繁に言及し、本書との比較が拙著の議論のひとつの核となっているベルクソンにこの書評はいちども触れていない。これらはあくまで形式的な偏りであり、このこと自体に問題があるとは言えない。限られた紙幅であらゆる論点を扱うのは不可能であり、実際に彼が批判の対象とするトピックは拙著にとって重要なものばかりだ。それにもかかわらずこうして論じ落とされた点を数え上げたのは、当の彼の批判に応えるような内容が彼が触れていない箇所にあるはずだからだ。


さて、書評の冒頭では、「運動イメージと時間イメージとのあいだには優劣など存在しない」(148頁)という拙著でなされた明言が引かれている。廣瀬氏はこの点について、私が実際には時間イメージを優位に置いているのではないか、宣言されたこととおこなわれたことのあいだにズレがあるではないかと難じている。なぜなら、『眼がスクリーンになるとき』というタイトルにあらわれているように、福尾は自身が時間イメージ的な視覚性の概念として用いる「眼−スクリーン」を運動イメージ的な「眼−カメラ」に対して優位に置いているからだ、と。この批判について検討することから始めよう。

まず「優劣など存在しない」ということについてだが、廣瀬氏も言及しているとおりこれはドゥルーズ自身の言葉を受けたものだ。ドゥルーズは戦前映画と戦後映画それぞれにおけるイメージの体制を特徴づけるものとして運動イメージと時間イメージという概念を考案したが、それぞれの体制は固有の可能性と危機を抱えており、後に生まれた時間イメージのほうが良いものであるわけでは必ずしもないと述べている。
そして時間イメージおよび眼−スクリーンの「優位」だが、これについてはひとまず、このふたつを即座に一致させることがそもそも拙著の議論にそぐわないのではないかと問い返すことができる。というのも、私は眼−スクリーン的な知覚の位相である「物の知覚」を、運動イメージと時間イメージ両方にとっての基礎として提示したあとで、それを差し引くことなく「十全なイメージ」として扱うことを時間イメージの本質としているからだ(138、142-147頁)。

こうした図式は『シネマ』で明示されているものではなく、私が本書の読解をとおして導き出したものなので、とうぜんその正当性に疑いを向けることは可能だ。しかしそれには物の知覚という概念を立てるに際して拙著でおこなった、ベルクソンの知覚論との比較が適切かどうかという視点がなくてはならないはずだ。
時間イメージを優位に置いていると考えている根拠について、廣瀬氏は拙著のタイトルを挙げることしかしていないが、仮にこのタイトルが時間イメージ的なもの「だけ」を指しているとしても、私は拙著第4章第3節でこの体制にある固有の危機をくりかえし説明し、それが第5章が書かれる理由となっている。さらに、廣瀬氏が言うように私が時間イメージ的なものを特権視しているのだとすれば、それは私がそれを「選択」したからであり、第5章で扱われたのはこの選択の意味、そして『シネマ2』における選択概念の意味である。異なる体制のあいだに価値の序列がないことを自覚したからといって、どの体制をも選択しないということにはならないし、選択しないなどということがはたして可能なことのかも、可能だとして有効なことなのかも私にはわからない。


以上の批判と関連して、廣瀬氏はまた、拙著が映画作品についての言及を排していることを批判している。その根拠は、異なる体制における解放と服従の論理は「具体的諸事例の分析からのみ」引き出され、この認識によってはじめて優劣などないと言えるからだと主張される。たしかに私は映画作品という具体的な対象を捨象しているが、他方で、ドゥルーズの『シネマ』やベルクソンの『物質と記憶』というきわめて具体的な対象を、くりかえし引用しながら具体的に分析をしている。映画は具体的で哲学は抽象的だという考えを批判したドゥルーズの言葉を紹介することから始まる拙著に対して、このような批判がなされるのは不思議だ(20-21頁)。ドゥルーズがベルクソンと映画作品を具体的に検討することで『シネマ』を書いたように、私は『シネマ』とベルクソンを具体的に検討することで拙著を書いたというだけのことではないだろうか。

拙著は『シネマ』を、とりわけ運動イメージと時間イメージの関係を、映画史的な理解から引き剥がして発生的な機序においてとらえるものだ。映画史的な発展の順序にそって論述が進められる『シネマ』を脱歴史化する拙著の態度にも廣瀬氏は批判を向けているが、その根拠は私が『シネマ2』から始めて『シネマ』を読んでいるという、先ほどの時間イメージの優位についておこなったのとおなじ反論が可能なものである。それに加えて拙著の目次を見れば明らかなように、私は第1章でベルクソンのイメージ論と運動論を扱い、第2章で運動イメージの分類の原理(種別化と分化)を扱い、第3章で運動イメージと時間イメージの関係を扱い、第4章で第一・第二の時間イメージを扱い、第5章で第三の時間イメージを扱うという、『シネマ』の論述の順序にそった構成にしており、書評のタイトルにも冠せられている順番に読んでいないという批判には同意できない。


廣瀬氏は『眼がスクリーンになるとき』を、具体的な対象を捨象し、『シネマ』を『シネマ2』から読む、具体性も歴史性もない書物だと考えているようだ。くりかえしになるが私にはどうしてドゥルーズとベルクソンのテクストが具体的なものではないと言えるのか見当がつかない。そして両者の関係は言うまでもなくきわめて歴史的なものであり、しかしなお、それを「哲学史」という、哲学者の能動性を想定することによって構築されるストーリー(ドゥルーズによるベルクソンの乗り越え)に回収せず、そこここに働いている受動的で眼−スクリーン的な「リテラリティ」をこそ概念創造の条件として考えるというのが本書の中心的な目的だ。

廣瀬氏は最後の段落で拙著を「ファシズム」だとまで言っているが、その根拠は判然としない。彼はまず拙著が宇野邦一の仕事にいちども言及しないと述べているがこれは事実に反する。拙著では彼に批判的に言及しており(239頁)、それに加えて宇野が監訳した『シネマ2』の翻訳の不備と思われる点を再三指摘している。それはともかく廣瀬氏は宇野が日本でのリゾームあるいは生成概念の安易な使用への注意をうながしたテクストを引いたうえで、リゾーム概念が生み出された歴史的な状況を考えなければならないと述べている。彼はつぎにアラン・バディウがリゾーム概念について「じゃがいもファシズム」と揶揄したというエピソードを紹介し、『眼がスクリーンになるとき』についても「誤読することなしに」(!)おなじことが言われるだろうと述べて、書評を閉じている。

まず、拙著ではリゾームにひとことも触れていないので、すくなくともここではリゾーム概念を批判したという共通点しかない宇野とバディウをつなげることで、どうして拙著への批判になるのかわからない。おそらく廣瀬氏は拙著が歴史を省みず無邪気に生成を語るものであり、したがってファシズムだと言いたいのではないかと推察するが、この「したがって」がなにによって可能なのかはまったく説明されていない。拙著では第5章で生成概念を扱っているが、それが引き合いに出されて「具体的に」検討されているわけでもない。


個別の批判についてはこれでひととおり検討できたので、最後に廣瀬氏と私のあいだにあると思われる、立っている前提の差異についてかけ足で考えてみよう。おそらく彼にとって『シネマ』はどこまでも映画(史)の本であり、私にとってはそうではない。この差異はどこから来るのだろう。

私は拙著の「はじめに」で現代のイメージのありかたについて短く言及し、消費やインタラクションやコミュニケーションばかりを求めてくる現代のイメージをあらためて「たんに見る」ことの難しさと創造性にこの本は向けられていると書いた(11頁)。重要なのは、「だからいまこそ映画館に行って、暗闇のなかで2時間イメージに撃たれる経験が大事なのだ」とは、私がひとことも言っていないということだ。
ユーチューブ、ソーシャルゲーム、インスタグラム、ネットフリックス、際限のないアダプテーションや二次創作といった、〈作品〉の経験を霧消させる状況のただなかにおいて、あらためてイメージの創造性を考えることこそが拙著では問われている。私が映画よりむしろ作品経験のあいまいさに自覚的である現代美術の批評を書くことが多いのもここに理由がある。言ってみればカンヌ映画祭とネットフリックスとのあいだにある対立とおなじものが廣瀬氏と私のあいだにあるのではないだろうか*3

*3 くしくも書評が掲載された同号の特集の座談会では、ファッション批評の難しさを語るなかでも同型の議論がなされていた(平芳裕子・蘆田裕史・牧口千夏・三浦哲哉・門林岳史「ファッション批評は可能か?」、『表象 13』、14-46頁。

作品の単位性、歴史の単線性(に対するマイナーな歴史による抵抗)、理論(抽象)と実践(具体)の分割といった前提を廣瀬氏は条件にしているように思われるが、私は作品の経験が霧消し、そもそもメジャーな歴史がなく、言葉とイメージが同一平面で干渉するような状況を前提としている。だからこそ、そこにある危うさにあたうかぎり自覚的でありながら、時間イメージ的な生成を映画から解き放ったうえで「選択」し、そこに賭けたのだ。「作品未満」のものに取り込まれることの貧しさ、そこにいる私たちに固有の創造性のために。

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年6月14日 発行