研究ノート

立体音響による“高臨場浮遊感”の表現

宮木朝子

序 “イマーシブ”な仮想空間

VR元年と呼ばれる2016年以降、ヘッドマウントディスプレイやVRゴーグルを装着することによって現実空間と仮想現実の空間がシームレスに接続されるようになる。ゴーグルをつけた瞬間、今この場所が一瞬にして仮想空間へと塗り変わる。同時に、視覚的・聴覚的にはその場にいないと知覚できないような在り方でその空間が存在しているものの、その場所を体感しているはずの自分の身体がその空間には存在しない、という奇妙な感じに襲われる。それは自分の身体存在に伴う皮膚感覚、重力の感覚、その他諸々の感覚の欠如による、高臨場浮遊感=透明人間感とでもいうべき独特の感覚だ。

一方で、そうしたVRゴーグルを使用した個々人による仮想現実への没入に対し、実空間に投影された仮想空間のリアリティを他者と共有するためのコンテンツも多くみられるようになる。毎年開催されるドイツ・イエナにおけるフルドームフェスティバル*1、カナダ・モントリオールにおけるSAT FEST*2、そしてアメリカ・オハイオにおけるイマーシブ・コンテンツの国際会議であるIMERSA*3などでは、フルドーム(全天周)映像とサラウンド音響による作品が公募され、世界各地から選出された作品が上演されている。それらの共通のテーマは“没入感”、すなわち映像と音響による“イマーシブな体験”である。ここでは、視覚つまり映像と、聴覚的つまり音響による没入感をいかに実現するか、そこに仮想でありながらリアルに体感される世界を生み出せるか、ということがコンテンツの内容いかんにかかわらず求められる。こうした現実空間と仮想現実空間が地続きとなる体験における実身体の所在についても着目すべき問題ではあるが、本稿で焦点をあてるのは、こうした“リアルな仮想現実感 “にまつわる音響表現の可能性である。自分をとりまく空間を認知するときの感覚に、その環境内の音、音響の在り方が大きく関与することは体験上周知のことであろう。実際に、高臨場感立体音響の追求がNHK放送技術研究所をはじめとする機関で行われ続けており、また2018年8月に東京芸術大学北千住校地と東京電機大学を会場にして行われたAES (Audio Engineering Society)国際コンファレンスでは、最新の空間音響に関する研究と実践の発表と、そうした空間音響を軸に芸術と工学がどのように結びつくべきかが議論された*4

一方で独立した音響表現としても、こうした立体音響による創作実践が行われている。例えば2017〜2018に行われた坂本龍一の『設置音楽展』*5におけるテーマは、複数個のモノラルスピーカーによるマルチチャンネル再生、あるいは5.1ch再生による、多次元空間表現への転換であった。

筆者の専門はステレオに端を発した立体音響表現、すなわち空間音響による芸術表現の実践と研究でもあるため、本研究ノートでは空間音響を対象とした創作・芸術表現の現場、実践の立場から考察したい。

*1 The international Jena FullDome Festival  全天周映像によるアート・エンターテイメント表現の著名な国際イベント。
*2 SAT(Société des arts technologiques) 先進的な没入型テクノロジーとVRの開発に特化したNPO団体として国際的評価される組織。イマーシブオーディオ・フルドームの国際フェスティバルなどを企画。
*3 IMERSA(Immersive Media Entertainment, Research, Science & Arts) デジタルフルドームシネマ、没入型エンターテインメント、パフォーマンスアート、仮想体験の領域に関する国際会議やイベントを企画する組織。
*4 AESAudio Engineering Society米国ニューヨークに本部を置き、日本をはじめ世界各地に支部を有するオーディオ技術者、研究者など専門家の団体で、オーディオに関する唯一の国際組織。
*5 2017~2018 5.1ch再生を想定してミックスされ、ステレオCDとして市販されたアルバム『async』の音楽を、ワタリウム美術館とICCにて5.1chサラウンドやマルチチャンネル再生、映像などを組み合わせて行なったサウンド・インスタレーション=設置音楽という形式で公開した音と映像による展示イベントのこと。

1.立体音響と創作──アクースモニウムとサラウンド

1.1.ステレオベースの立体音響──アクースモニウムの表現

筆者にとっての立体音響空間表現との出会いは、フランスのクレという街で毎年開かれるFUTURA国際電子音響芸術祭での多数のスピーカーによる電子音響音楽作品上演であった。

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【写真1】2016FUTURA国際電子音響芸術祭アクースモニウムイベントの様子(筆者撮影)

このフェスティバルで上演される作品群のジャンルは、「acousmatic music(アクースマティック音楽)」と呼ばれる。アクースマティックとは「見ることなしに聴く」という形容詞であり、音源の出所・所在がわからない状態で音のみを聴くという体験をもたらすことから、録音された音響を加工・編集し、完成物としてメディアに定着させた電子音響音楽作品のジャンル名に援用された。録音された音を聴く体験とは、それが実際に発音される瞬間に視覚的にも空間的にも立ち会うことなく、その音自体から推測される空間状況や、連想される映像による視覚情報を自ら作り出すことであるとも言える。アクースマティック音楽は、楽譜から演奏者によって引き出される現実の音響体験とは異なり、通常ステレオスピーカーによって再現される1次元音響空間として体感される。そのため、この2つのスピーカーの間に立ち上がる音像にいかに立体感や現実感を与えられるか、というのが一つの基礎技術・前提技術となって創作される音楽、と言ってもいい*6。そして、ライブ空間、コンサート空間のような多くの人と共有される空間においては、このステレオ表現が複数の組のスピーカー配置のリアルタイムコントロールによって空間展開される。こうしたステレオの複数組のリアルタイムコントロール=演奏による立体音響システムのことを「acousmonium(アクースモニウム)」という。1970年代前半にフランスの作曲家フランソワ・ベイルによって命名、実現されたこの方式は今も立体音響空間ライブの一つの方法として、全世界で応用され実現されている。創作の時点では2チャンネルステレオの環境で音像を形成してゆき、ライブの時点でその一つのステレオ空間を空間のあちこちに観客席を取り囲むように配置されたステレオの組のスピーカーに送り、いわば(ホールのサイズの範囲内における)極小・極狭のステレオ空間から極大・極広のステレオ空間がシームレスに浸透しあい、たえず伸縮しながら出現するような場を創出する。作られる音響作品の工夫によっては、そのコントラストが実際の空間サイズの限界やスピーカーの限界を乗り越えるかのように鮮やかに浮き出る場合もある。それは録音素材の質と扱い、いわゆるミキシングといった技術とも結びついている。

*6 ステレオ環境において、左右2つのスピーカーの間、センターに定位する音のことをファンタムセンター(虚音像)と呼ぶ。ベイルはこのファンタムセンターの定位する“何もない空間”の広がりを「音響スクリーン」と呼び、ステレオ空間が生み出す音像が“投影”される場として定義した。

1.22次元、3次元立体音響-サラウンドによる表現

筆者がこれまで携わった立体音響創作には、こうしたステレオをベースとしたアクースモニウムの方式とは異なるものも含まれる。それらは1次元音場による立体音響制作とは異なる2次元、さらに3次元立体音響の制作である。

その一つがNHK放送技術研究所制作による大画面スーパーハイビジョン映像のための22.2ch高臨場感立体音響の音楽制作であり、この場合スピーカーはリスナーの前方、側方、後方のみならず上方にも配置されるため、ステレオが1次元としたら、そこに奥行きと高さを加えた3次元の立体音響表現が可能となる。これはリスナーの前方に配置された大画面に広がるスーパーハイビジョンの2次元映像がもたらす没入感に対して音響による相乗効果を与え、あるいは映像のみでは伝わらない空気感のような体感を与えるためのシステムとも言える。

また、その後前述のイマーシブ映像・オーディオのフェスティバルに、フルドーム映像作家馬場ふさこ氏との協同作品が入選し、上演される機会を得る。ここではスピーカーの数は少ないものの、ドームという特性上上方からの音像投影が実現されるため、ある意味では3次元的な音響空間表現となる。同時に、映像自体が頭上を中心に全天周に広がるため、サラウンド音響の質によっては相乗効果によって高い没入感を得ることが可能である。このコンテンツにおける5.1chあるいは7.1chサラウンド音響の制作は、映像の質感、没入感から得られた空間の感覚が音響制作時にフィードバックされることによってなされた。

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【写真2】フルドーム映像と7.1chサラウンド音響による作品『Hidden garden』フルドーム投影時

このときの制作経験が、前述の『設置音楽展』における5.1chサラウンド音響作品公募にて最優秀賞を得た、音響のみで独立したサラウンド音響作品制作に活かされたとも言える。この作品は会期中ICCの映画上映用シアターで他の入選作品とともにあたかも「映像のない映画」のような状況で公開されたのであるが、このとき、5.1chというフォーマットでの様々な表現の違いを(もちろん、本篇である坂本龍一氏のサラウンド作品と共に)発見した。5.1chサラウンドはステレオよりもより安定した音場を得るために、前方ステレオ配置のスピーカーのファンタムセンター(虚音像)が定位する位置に実際にスピーカーをもう一台おくことで、実在のセンター=ハードセンター (実音像)を立ち上げる*7。また、ステレオの際ミキシング技術などによって、いわばイリュージョンとしての後方への広がりや奥行きを表現していた分、実際にリスナーの後方にL.Rのスピーカーを配置する。さらに、120hz以下の低域を再生するスピーカーを配置することで、低音域の皮膚感覚にも訴える空気振動としての音響効果を空間に付与することも可能である。ステレオに比べ表現の幅、いわば選択する音のパレットが増えると同時に、空間の使い方にもヴァリエーションが出てくるためもあってか、上演された複数の入選作品はそれぞれに全く異なる方向性を持ち、異なる音響空間を生み出していた。

*7 JAS journal 2002 vol.42 No8 特集 最近の音場再生への挑戦 ソフト制作側から見た家庭での音場再生環境と楽しみ方 NHK放送技術研究所 濱崎公男

創作対象としての音響空間-明確な“定位”か、曖昧な“空間“か?

これまでみてきたような音響のみのステレオベースのコンテンツによる立体音響と、映像と密接に関係し高臨場感をうるための3次元立体音響、そして映像のない音のみによる空間音響、そのどれもが共通の現実空間をキャンバスとして展開される音響創作表現の結果であるが、技術面のアプローチが異なることによって、表現内容にどのような影響をもたらすのだろうか。あるいは、そのアプローチの違いによって表現し得るものは変わるのか。もっといえば、その現実空間が、空間音響によって創作の対象となることで、どのような仮想空間へと塗り変わり、あるいはそれがどのような異なるリアルさ(=現実らしさ)で体感されるのか。そもそもそのリアルさの正体とは何なのか。技術的に目指される高臨場感というリアルさは、創作時においてどのような意味を持つのか。「(現実)空間」をいったん創作対象としてみた途端に、そこにおける「リアルさ」という意味合いやそれが持つ価値が一つではなくなってくる。作品世界というそもそも仮想である世界を、いかに高い現実感をもって、“イマーシブに”体感できるのか。そしてそのリアルさの質にはどのような違いがあるのか。

坂本龍一は『設置音楽展』に関連するインタビューにおいて「ステレオで聴くということは幻聴だと思う」と述べている*8。ここで言う「幻聴」とは、実際には音が出ていない何もない場所に、ファンタムとしての音像を「あたかも奏者が今奏でている」かのように定位させるということを指し、さらに5.1chサラウンドもまたそうしたステレオの幻聴性の表現の延長としている。そうした音のイリュージョンを駆使すること自体は否定しないが、自分が今求めるものとは異なる、と述べている。坂本の求めるリアルさとは楽器奏者がそこに実際に立って演奏している位置に一つのスピーカーがあり、その音がまさにそこからのみ出てくる、という一対一対応の状況を指す。これは、音の存在感、分離、実空間における位置どりという意味において、そのスピーカーの性能と放出される音の質によってはまさしく現実の楽器奏者による演奏に近いリアルな音の表現が可能になるだろうし、音自身の持つ存在感が立ち現れるだろう。

それに対し、聴覚的イリュージョンを作るステレオをベースに、それの複数組のリアルタイムコントロールを行うのがアクースモニウムの基本の考えであり、フランソワ・ベイルはまさにその「音によるシュルレアリスム」表現を行ったとも言える。聴覚による仮想現実空間、体感としてはリアルな没入感でありながら、その聴取環境は現実の尺度を逸脱している。その定位を明確に掴み難い空間の様態は、まさしくファンタムが生み出す「空間」自体の伸縮状況の結果と言ってもいい。

このような、ステレオ空間における音源の所在が特定できないまま何もないところに立ち上がる曖昧な空間(まさに幽霊のような透明人間のような気配?)と、坂本の求めるサラウンドあるいはモノラルベースのマルチスピーカー再生における明確な定位=そこに音源、発音体が確かに在る、という状況との違いは、生み出しうる音響空間の質を決定的に分けるとも言える。だからこそ、作り手にとってその違いは重要なのだ。坂本はいわば、複数のスピーカーからの音によって、現実の空間に、リアルな演奏者によるものと匹敵する発音行為とその存在感の関係性が生み出すライブ性のある音響空間を出現させようとし、ベイルはむしろ発音行為、音源の存在を消し去りつつ、その超現実的な関係性により生み出される仮想空間をステレオというイリュージョン、幻想を駆使することによって出現させようとするのだ。主役は個々の音の存在感と位置づけではなく、出現し刻々と変化する掴み難い空間そのものなのだ。

筆者自身は、坂本のいう明確な存在感を持つ定位-つまりリアルな音の所在なのか、あるいはベイルのいういわば曖昧で柔軟な空間性-仮想性の出現なのかの問題について、以下のように捉えて創作に臨んでいる。

各音像が各スピーカーと一対一対応によって空間内に定位される場合、その音自身がもたらす仮想空間性は薄いと感じる。筆者自身がそうしたフォーマットで制作した際に感じたこととして、明確な定位、マルチチャンネル再生による「あたかも音がまさにそこから発せられているかのような」リアルな再現空間では、音=発音源=空間内でのある一点としての存在感が強すぎて、生理的な反応として、acousmatic sound(起源の見えない音)*9の確認作業のように、空間内の一点に存在するモノとしての存在感が気になってしまった。筆者が探し求めている音響体験はむしろ、現象学者ゲルノート・ベーメのいう「襲いかかる雰囲気」としての音響の存在に近い。ベーメはその著書『雰囲気の美学』において、「身体的感知の広がりによって伸張する」音響空間について言及している。それによれば、楽音、声、物音をその音源と思われるものを度外視して聞くことで、その人は楽音、声、物音を自分自身が存在する空間を変容させるものとして感知し、その時人は「空間の広がりへと自らを出して」いくために、「危険なくらい無防備」で、「音響的事象に襲われる」こともある、としている*10

これはアクースマティックな状況の音が、主体にとってのその空間の意味合いを変容させる状況、とも言える。さらに、聴取者自身の身体的感知の広がりがその変容する空間と地続きになることによって生じる、極めて主観的でありながら受動的な状況を表しているとは言えないだろうか。

これは冒頭で述べた、仮想空間の中に自らの身体が溶け出して透明化したかのような“高臨場浮遊感”にも似た感覚かもしれない。ここでは過剰に与えられた聴覚刺激が、イリュージョンとしての他の知覚-例えば重力の感覚、皮膚感覚-を生み出すことによって仮想のリアリティとしての体験を生み出すだろう。そしてその感覚というのは多分に個人的な記憶と結びつく感触にも関係している。音響に包まれる-皮膚にその音響が触れてくる-その時に生じる皮膚感覚は、個々人の主観的な音にまつわる記憶と体験と、そのとき引き起こされた情動と結びつく。こうした体験において、しばしば音響のみの刺激からなんらかのイメージ-頭に浮かぶ映像-が連想される場合があるが、その映像というのはより心的映像、心象風景に近いものなのではないだろうか。これは音響空間のもたらす感触が身体感覚・皮膚感覚と地続きに繋がり、個人的記憶を触発させるような状況であり、曖昧な定位がもたらすイリュージョンとしての音響空間が創出する一つの可能性である、と筆者は捉えている。こうした制作実践や大学教育における現状についてはまた別の機会で触れられればと思う。

*8 Sound & Recording Magazine June 2017 p119
*9 Brian Kaneはその著書Sound unseen- Acousmatic Sound in Theory and Practice (2014) において、起源の見えない音=acousmatic soundについて、むしろそれが多くの音の起源についての推測や連想を呼び起こすことについて指摘している。
*10 『雰囲気の美学―新しい現象学の挑戦―』ゲルノート・ベーメ, 梶谷真司・斉藤 渉・野村文宏 編訳 (晃洋書房2006) p92

結び

創作側にとっては、立体音響をめぐる技術的アプローチにおいて最重要とされる「高臨場感=どれだけ現実と近いか」は音の実際の空間現象としては同じく求められるものであれ、そのもつ意味合いが異なる。創作である以上、現実に放出される音がいかに物理的にリアルな定位を持っていたとしても、そこには実際の奏者はいない、という点では、仮想の奏者による仮想の演奏であり、空間でもあるのだ。高いリアリティ(=高臨場感)を伴う音空間によって、現実には存在し得ない仮想の場を生み出したいと願った時、その思い描く音響空間は創作者によって異なるため、その方式が表現内容に応じて選択される。没入感ある(イマーシブな)立体音響による仮想空間表現の諸相は、未だ掴み難く、ゆえに未知の可能性を秘めているとも言えるだろう。

宮木朝子(東京大学・尚美学園大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年2月17日 発行