研究ノート

トリスタン・ガルシア紹介

栗脇永翔

本稿はフランスの哲学者・作家トリスタン・ガルシアTristan Garciaの紹介をその目的としている。

1981年生まれのガルシアは現在、フランスで注目される若手哲学者のひとりである。南西部の都市トゥルーズに生まれ、幼少期には北アフリカのアルジェリアに住んだこともあると聞くが、進学時には多くのエリート哲学者たちと同様、パリのユルム通りにある高等師範学校(École normale supérieure)に進学している。そこで指導教員のバディウや、アグレガシオンの指導をしていたメイヤスーらの教えを受けるが、博士論文の指導教員は、現在はパリ第1大学で教鞭をとるサンドラ・ロジエSandra Laugierである。ウィトゲンシュタインやオースティン、カヴェル、バトラー、ケアの倫理、可傷性の哲学など、分析哲学・英語圏哲学の専門家であるが、管見では、こうした哲学の影響はガルシアの著作にも少なからずみられるものである。この意味においてガルシアは、例えば、フランス哲学の伝統に多くを負うシモンドン──「技術的対象」(objets techniques)の主題などが近年再発見されているが、これはラトゥールらが注目する美学者エチエンヌ・スーリオÉtienne Souriauの「存在様式」(mode d’existence)に関する議論などと近い──とは別の系譜に位置づけられるべき哲学者であろうし、ヘーゲル研究の大家であるベルナール・ブルジョワBernard Bourgeoisに師事したメイヤスーともまた毛色が違うと言うことができよう。

2008年には博士論文「古い芸術、新しい芸術──写真の発明から現代までの私たちの表象の形式(Arts anciens, arts nouveaux : Les formes de nos représentations de l'invention de la photographie à aujourd'hui)」の審査会──『形式と対象』の謝辞でも名前が挙がるフランシス・ヴォルフFrancis Wolffが審査員のひとり──が実施されているが、前年の2007年にすでに、(アグレガシオンやCAPESなど)教授資格試験のための参考書の一冊として、ごくシンプルに『イメージ』(L’image, Atland, 2007)と題された小著が刊行されている(本書の編者はカヴェルの専門家でフクシマ以後の日本映画を研究するエリーズ・ドムナックElise Domenachである。ドムナックもまた同時期にロジエの下で博士号をとっていることは興味深い。こうしたことからも、現代フランス哲学の動向を理解する上で、アメリカの哲学・思想からの影響が無視できない一要素であることがわかるだろう)。

この最初の著作においてガルシアは、「主体としてのイメージ」(image-sujet)/「客体としてのイメージ」(image-objbet)というごくシンプルな二元論を提示しつつ──そしてそれぞれについてその「表」(recto)と「裏」(verso)を語るという構成上の二層構造も面白いのだが──、西洋哲学史における伝統的なイメージ論からゲシュタルト心理学(「形式としてのイメージ」)、フッサールやサルトルの現象学(「主観的なイメージから主体としてのイメージへ」)、ベルクソン(「イメージとしてのすべて」)に代表される20世紀フランス思想における「イマージュ」論、プルーストの小説を特徴づける「イマージュの出来事的性質」(caractère événementiel de l’image)、アラスの「細部」にこだわる絵画論、ウィトゲンシュタイン『哲学探求』の名高い「ウサギ‐アヒル」の絵、洞窟壁画、パースの記号学、(ジャック・モリゾJacques Morizotの紹介も挟んだ)グッドマンの美学、プラトン『国家篇』を読み返しながらの「対象」(objet)に対する「存在論的な形式=大文字の形式」(forme ontologique ; Forme)と「図像的な形式=イメージ」(forme iconique/picturale ; image)の区別、ボードリヤールの「準対象」(quasi-objet)としてのイメージ、フーコーのマネ論、現代美術における絵画と「オブジェクト」の共存、バルトやバザンの写真論、「客体としてのイメージ」による「出来事の錯覚」(illusion d’un événement)としての映画、ドゥルーズやカヴェルの映画論、「物語るイメージ間の関係性」(un rapport entre des images qui raconte)としての漫画、「信号としてのイメージ」(image-signal)としてのテレビ、「合成イメージ」(image de synthèse)としてのコンピュータグラフィックス、さらには医療画像からパパラッチによる隠し撮り写真にいたるまで、文字通り網羅的に──この「網羅的に」ということがガルシアの思考法を理解する上で重要である──現代におけるイメージの問題を「整理」している(ただし例えば、ブランショやナンシーのイメージ論、デリダの「パレルゴン」、リオタール『言説、形象』、あるいはディディ=ユベルマンの一連の著作などが抜け落ちていることは兆候的な欠如として指摘しておく必要があろう)。

全体的な傾向について書けば、「主体としてのイメージ」では大陸系の参照が、「客体としてのイメージ」では英米系の参照が、主役になっているとみることもできる。また、一見するとイメージ論とは無縁のヴォルフ『世界を言うこと』(Dire le monde, PUF, 1997)をかませ議論にニュアンスをつけている点(137-140ページ)や、結論部の「絶対的にイメージがない世界」(Le monde absolument sans images)と題された節で前年に出たばかりのメイヤスー『有限性の後で』(2006)をいち早く取り上げている点(285-288ページ)などは──やや力業という感もないではないが──注目に値しよう。英語圏のテレビドラマへの参照はガルシアの視覚文化論を特徴づける一要素であろうが──この関心はロジエも共有しているし、話題の書『なぜ世界は存在しないのか』(2013)の「エンドロール」なども記憶に新しいだろう──、ガルシアの著作ではこれに加え、北斎の浮世絵や浦沢直樹『20世紀少年』、『ファイナル・ファンタジー』等、今日の日本人読者になじみ深い参照も豊富に挿入されている(後述の『形式と対象』では、「生の年代」(âges de la vie)に割かれた章で「元服」の風習が言及されている)。

このように、ガルシアにとって美学は重要な問題系のひとつであり、現在はリヨン第3大学哲学部の准教授(maître de conférences)として「テクスト分析」(explication du texte)など基礎的技術の教授に加え、『イマージュの肉──絵画と映画のあいだのメルロ=ポンティ』の著者マウロ・カルボーネらとともに、「芸術の哲学」や「現代の美学」に関する授業を担当している。しかしながら、その関心は全くもってこの枠組みにはとどまらない。上述の教育システムに沿った仕事の後、ガルシアは多様な対象を扱う理論書を矢継ぎ早に刊行していく。まず重要なのは現時点での主著『形式と対象──物についての試論』(Forme et objet. Un traité des choses, PUF, 2011)であろう。近年しばしば言及されるフランス大学出版会「(複数形の)形而上学」(MétaphysiqueS)シリーズの一冊であるが、メイヤスーやハーマンの著作にも言及がなされている通り──ハーマンはガルシアに極めて高い評価を与えている(Voir G. Harman, Object-Oriented Ontology : A New Theory of Everything, A Pelican Book, 2018, p. 243-245)──、まずは「思弁的実在論」(SR)や「オブジェクト指向存在論」(OOO)の流れに──見方によってはより後者に近い方に──位置づけられる著作とみることができる。

「物」(chose)──「事物」さらには「物事」と訳していい場合もあるかもしれない──というこれ以上にないシンプルな主題を、「形式的に」(formellement)そして「対象的に」(objectivement)、ふたつの側面から捉えてみるというのが本書の主眼であり、ふたつの副詞はそれぞれ、第1部と第2部のタイトルに採用されている。第1部「形式的に」では、「物」や「世界」といった主題、「存在すること」(être)や「包含すること=理解すること」(comprendre)などの動詞について、極めて抽象的な議論が展開される。さらに、ウィトゲンシュタインばりの命題の列挙を含む複数の異なる種類の文章が各節ごとに配置されるので、読者には過酷な読書経験が要求される。考察がフランス語特有の表現に依拠している場合などもあり、日本人読者が容易に咀嚼できるものではないことも否定しがたい事実であろう。例えば、n’importe quoi(「なんでも」)というフランス語特有の表現が取り上げられると今度はすぐに、動詞のimporter(「重要である=輸入する」)が考察される。また、「即自存在」(être en soi)の「凝結」(le compact)──と仮に訳しておく──という新概念を提示する際には、「あるところのもの」(ce qui est)と「それがそうであるところのもの」(ce que c’est)との混同が問題にされる、といった具合である。ガルシアはこの箇所で展開されるようなそれぞれの「物」のあり方に区別を設けない自身の哲学を「平坦な存在論=フラットな存在論」(ontologie plate)と呼んでいる(Voir Cités, numéro 56, 2013, p. 146)。

これと比べると第2部「対象的に」は、「宇宙」(これは第1部の「世界」と対置される──ガルシアにとって「世界」(monde)は形式的な問題であり、「宇宙」(univers)は対象的な問題である)、「表象」、「芸術と規則」、「価値」などより具体的な主題に沿っての論考なので、ひとによっては第一部よりも読み進めやすいかもしれないが、それぞれの主題について広範な、またときとして予期せぬ参照文献が挙げられており、この箇所の読書もまた一筋縄ではいかない。参照文献は理科系のものも多く含み、これまで「フランス現代思想」が踏まえてきたものとも大幅に異なる。翻訳が俟たれることは言うまでもないが──英語圏ではすでに2014年に翻訳が刊行、2017年には『ガルシア的省察』(Voir J. Cogburn, Garcian Meditation: The Dialectics of Persistence in Form and Object, Edinburg University Press, 2017)と題された研究書も刊行されている──、相当に骨の折れる作業になるだろうことは想像に難くない。

(ガルシアはその後、2016年11月にパリで開催されたコロック「(複数形の)物自体──今日の実在論と形而上学(Choses en soi : Réalisme et métaphysique aujourd’hui)」に登壇。タイトルの通り、カントに由来する概念を複数の視点──フランス哲学と分析哲学の専門家の共同討議という側面もある──から再検討することが主眼であるが、ガルシアが最初のパネルで問題系を「整理」する様子は現在、ウェブ上の動画でも見ることができる。メイヤスーの『有限性の後で』をルイスの『世界の複数性について』と比較する件など──議論の余地はあろうが──説明は鮮やかである。2018年には副題のみ「実在論の形而上学(Métaphysique du réalisme)」と変更され、「(複数形の)形而上学」シリーズから本コロックをもとにする論集が刊行された。同書もまた、翻訳が俟たれる一冊であろう。)

メイヤスー以後の新しい哲学者ガルシアは──すでにSNS上では数年来若い読者たちに注目されている通り、また『現代思想』誌の「総展望」特集などでも時おりその名が言及されている通り──日本でも関心が持たれる可能性が高い。また、81年生まれのこのフランス人哲学者は、すでに熱狂をもって迎えられた80年生まれのドイツ人哲学者ガブリエルとの比較を誘引するかもしれない。しかしながら、ガルシアをいわゆる「新しい実在論」の文脈でのみ捉えようとするのは必ずしも適切ではないだろう。例えば、『形式と対象』と同じく2011年に出された『動物であり人間である私たち──ジェレミー・ベンサムの現代性』(Nous, animaux et humains. Actualité de Jeremy Bentham, François Bourin, 2011)は、古典的な哲学者の現代性を探るシリーズの一冊であるが、現代の動物倫理などと照らし合わせながら18世紀の哲学者を再読する試みであるし、小著なので世界的にみても広く読まれていると思われる『激しい生──近代の強迫観念』(La Vie intense. Une obsession moderne, Autrement, 2016)は、とりわけ西洋近代の文化における「激しさ=強度」(intensité)の問題(とその限界)を文化史的に考察するものである(リベルタン文学やロマン主義、ロック音楽、ウエルベックの小説、さらには近年の度数の高いアルコール飲料などが挙げられる)。また、ポストヒューマンの思考にも開かれた『形式と対象』に対し、『私たち』(Nous, Grasset & Fasquelle, 2016)のように比較的人間主義的で、ことによっては政治的でさえあるような著作もある。男性哲学者ではあるがフェミニズム理論に通じていることもガルシアのひとつの特徴であろうし、社会学者ブルデューへの言及なども「思弁的実在論の哲学者トリスタン・ガルシア」というイメージに多少の修正を求めるものかもしれない。なお、本書には上述のヴォルフの著作『私たちの人間性──アリストテレスから脳科学へ』(Notre humanité. D’Aristote aux neurosciences, Fayard, 2010)などとの対話がうかがえるほか、2017年には文学批評の『クリティーク』誌が同じ「私たち」に関する特集を組んでおり、「エセー」や「生の形式」を研究する文学者マリエル・マセMarielle Macéがガルシアの著作に──批判も含め──言及している(Voir Critique, numéro 841-842, 2017, p. 470-471)。

(ただし、この3冊を『形式と対象』第2部からの派生・展開と見なすことは十分に可能である。例えば「強度」の主題について、同書366ページではすでに下記のように書かれている。「何ものも形式的に他のものより美、より真、あるいはより善ということはない。それぞれのものは形式的には孤立しており、等しいのだから。強度の意味はそれゆえ、まさしく対象的である。これこそが「価値」と呼ばれるものである」。このほか、「動物」という章もすでにここに含まれているし、『私たち』で展開される「階級」や「ジェンダー」などの主題もすでに、この箇所の主題をなしている。だとすれば問題の所在は、『形式と対象』第1部と第2部の関係性に存するということになろうか。)

その他、同じくバディウに影響を受ける──あるいは『バディウ以後』(Après Badiou, Grasset, 2011)という著作のタイトルに従えば受けていた──在野の哲学者メディ・ベルハジ・カセムMehdi Belhaj Kacemの著作にいくつかのテクストを寄せているほか、すでに述べた通り、テレビドラマに関心を寄せるガルシアはその評論シリーズの編纂も行っており、自身もまた『シックス・フィート・アンダー』(2001-2005)に関する小著(Six Feet Under. Nos vies sans destin, PUF, 2012)を著している。ヘーゲルの『法哲学』などで問題化される「家族」の主題などに着目しつつ、「感情移入による写実主義」(réalisme empathique)といった形容を行いながら、19世紀ヨーロッパの小説に比する新しい表象文化として現代のテレビドラマを位置づけることに挑戦している(副題の「運命なき私たちの生」はもちろん、ルカーチの小説論を念頭においている)。また漫画やコミックなど大衆な視覚文化への興味も伺えるほか、La Féline──ジャック・ターナー監督『キャット・ピープル』(1942)に由来──の名で歌手としても活躍するアドルノ研究者アニェス・ゲローAgnès Gayraud──しかしながら大衆音楽を評価することがなかったアドルノに抗し、昨年、記念碑的ともいえよう音楽美学の書『ポップスの弁証法』(Dialectique de la pop, La Découverte, 2018)を刊行──とのコラボレーションなどからは音楽への関心も伺える(なお、すでに幾度か言及したヴォルフもまた音楽論『なぜ音楽か』(Pourquoi la musique ?, Fayard, 2015)の著者と知られていることも書き留めておこう)。

ここまで書くと驚くこともないと思うが、ガルシアには小説家としての顔もある。80年代のエイズ危機の「状況」におかれた人々──登場人物のひとりは哲学者アラン・フィンケルクロートをモデルにしているとも言われている──を描いたフィクション・道徳小説『人間の最良の部分』(La meilleure part des hommes, Gallimard, 2008)でデビューした後、すでに7冊ほど刊行されており、読書人のなかにはむしろ小説家として注目している者も少なくない。ここでは一冊、実験的な作品『ジャングルの記憶』(Mémoires de la Jungle, Gallimard, 2010)を取り上げよう。ひと言でいえば、人間の言葉を覚えたチンパンジーが語り手の近未来小説である(ここでもまた、ナオキという日系を思わせる登場人物がいる)。ベンサム論で言及されるカフカの『あるアカデミーの報告』など、ヨーロッパの近代小説の伝統的な系譜に位置するものと考えることもできようが、管見では、ガルシアの動物表象は「グロテスク」なそれを目指すものではない。むしろチンパンジーの「人称」概念の習得の困難を、文学的な語りの中で生かすことなどに挑戦している。ここで忘れてはならないのは、ガルシアが動物の問題に関心を寄せる哲学者でもあることである。こうした文脈でガルシアがしばしば言及する哲学者としては、現在パリ高等師範学校で教鞭をとるドミニク・レステルDominique Lestelなどがおり、また、本稿で幾度となく言及されるヴォルフにも『闘牛の哲学』(Philosophie de la corrida, Fayard, 2007)があるが、本作もまた、こうした現代の動物論を読み込んだうえで執筆されているのである。小説家としてのガルシアは、最新の知見を参照しながら動物の視点を借りることで、人間を──さらには文学というその固有の営みを──実践的に再定義することを目指しているように見えなくもない。哲学探究の軸と文学創作の軸を明確に分けているようにみえるガルシアであるが、とりわけこの「動物」の問題に関しては、相互交流の可能性を垣間見せているのではないか。

(ガルシアの勢いは止まらない。今年に入り2冊の本が刊行された。『苦しみの歴史』(Histoire de la souffrance, t. 1, Gallimard, 2019)と題された長編小説、および『カレイドスコープ』(Kaleidoscope, t. 1, Léo Scheer, 2019)と題された評論集であるが、いずれも「第1巻」と表記されていることにも注目されたい。とりわけ前者は手塚治虫『火の鳥』などから語りの方法を学んだともいう長大な「叙事詩」である。一体どれほどの射程のヴィジョンが開かれるのか。潜在的読者のひとりであるだけでも眩暈がするような執筆量である。)

最後に、ガルシアの哲学を相対化する視点をいくつか提示しておこう。何より、ガルシアは極めて意識的に先行世代の哲学者──とりわけ日本では「フランス現代思想」と呼ばれるグループ──と自らのあいだに一線を画しているようにみえる。メイヤスーと同様、フーコーやデリダなど、ポスト構造主義に関する本質的な言及はあまり多くない。ラカンの精神分析についての言及なども実質的なものはないようにみえる。今日、大御所の感があるランシエールやナンシーにもあまり言及せず、関係するトピックに応じて必要箇所を参照する程度である。概して、言語偏重的な哲学(構造主義や記号論、脱構築など)にはやや否定的であるようにみえる。また、ドイツ語圏よりは英語圏の哲学からの影響が大きいことも改めて強調しておこう。

強いて影響が垣間見えるのはドゥルーズであろうか。映画への関心は共有しているようであるし──ガルシア自身、ドキュメンタリー映画のコースに登録していたことがあるようだ──、「マイナー文学」(ないしは「世界文学」)への関心は強そうである。筆者の伺うところ、特定の文化に偏愛を持つというよりは、究めて広範な地域と時代の書物を読んでいる(最近のインタビューでは古今東西の叙事詩への関心を明かしている)。哲学の教授資格は持つものの特定のディシプリンに依拠するわけではない点でも、文字通り「脱領土化」を実践していると言えるかもしれない。国際的というよりは学際的であるということだろうか。

それゆえ、本稿を閉じるにあたり64年にノーベル文学賞の受賞を拒否した往年の哲学者・作家ジャン=ポール・サルトルを評するドゥルーズの表現を借りるならば──事実、『イメージ』はふたつの想像力論を、『形式と対象』は『存在と無』を、『私たち』は例えば『弁証法的理性批判』を、あるいは動物論や『激しい生』はその浩瀚なフローベール論を、時代に即した形で「アップデート」していると言って言えないこともないではないか──、近い将来、ガルシアを評して「彼は師だった」という者が現れたとしても不思議ではないと思う。しかし、ガルシアは時代に即応する「知識人」では必ずしもなさそうである。時代の必要文献をひと並み以上に読みながら、すぐに、予期せぬ仕方で過去のテクストに立ち返り、そこから大胆な力業で未来を切り開いていくようなタイプの哲学者であるようだ。

トリスタン・ガルシアは哲学の昨日と、そして明日を見させてくれる──

本稿を結ぶにあたりこう書きつけてみよう。そしてこれは、独自の伝統を保持しながらも──例えば本稿の文脈で言うならば──英語圏の哲学・思想を貪欲に吸収し続けるフランスという国の知的風土とも決して無縁なものではないだろう。若い学生には是非、フランス語の学習に力を注ぎ、この地の知的動向への注視を続けてほしい。

栗脇永翔(東京大学・リヨン高等師範学校)

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年2月17日 発行