第13回研究発表集会報告

研究発表3

報告:菊池哲彦

日時:15:20 - 16:40
場所:山形大学小白川キャンパス 人文社会科学部1号館 205教室

  • 記録写真の不透明さ──ウジェーヌ・アジェの「黒い縁」をめぐって/久保和眞(大阪大学)
  • 歌声聴取と聴診──身体内部にひらかれる音のパースペクティヴ/堀内彩虹(東京大学)

司会:細馬宏通(滋賀県立大学)


研究発表3のパネルでは、写真史における美学の問題を扱う研究と歌声聴取という経験のプロセスを明らかにする研究、二件の発表が行われた。

「記録写真の不透明さ──ウジェーヌ・アジェの「黒い縁」をめぐって」と題された久保和眞氏の発表は、「近代写真の父」とも呼ばれるフランスの写真家ウジェーヌ・アジェの評価を決定づけたアメリカの写真家ベレニス・アボットの美学を再検討する。ここで久保氏が注目するのは、アジェの写真の四隅に写った「黒い縁」である。

アボットは、大判カメラを使ってパリの街を客観的に捉えようとするアジェの写真を、撮影者とカメラとが一体となって現実を透明に反映しているものとして高く評価し、その理解にもとづいてアメリカに紹介した。この「写真の透明性」を強調するアボットの美学が、20世紀におけるアメリカ写真の方向性を決定づけた。

しかし、パリの街を客観的に捉えるアジェの写真において、アオリ撮影によって生じる像の歪みを技術的に補正することで写り込んでしまう「黒い縁」は、カメラという機械装置の存在を際立たせ、写真に不透明さをもたらしてしまう。アボットはこの「黒い縁」をアジェの不注意として扱い、彼女の尽力で1930年に刊行された最初のアジェの写真集でもこの黒い縁はトリミングやレタッチによって排除されている。  

久保氏は、アボットが「写真の透明性」という美学を発見したアジェの写真に、「黒い縁」という不透明な要素が生じてしまうことを重要視する。そして、20世紀アメリカ写真史を方向付けたアボットの「写真の透明性」という美学が、それを支えるアジェの写真において裏切られるのであれば、アボットの美学について、それが孕むイデオロギー性を含め、より多角的に再検討する必要があることが示される。

質疑では、「黒い縁」が生じる技術的な問題から、その美学的解釈の余地まで、さまざまな視点からの質問や意見が寄せられた。アボットの美学がアメリカの20世紀写真史に大きな影響を与えてきたことを考えれば、「黒い縁」に着目してその多角的な再検討の一端を開く本研究は、アメリカ写真史を再構築する可能性を持っているのではないだろうか。


もう一件の堀内彩虹氏の発表「歌声聴取と聴診──身体内部に開かれる音のパースペクティヴ」は、音楽の聴取が医学における聴診という行為と似ていることから出発して、聴き手に対して音楽がどのように現前しているのかを、音楽のなかでも特に(器楽ではなく)歌声の聴取から明らかにしようとする。

本研究は、まず、(他者の歌声ではなく)自分の歌声を聴く主体において、聴取する歌声がどのように現前するかを確認する。歌う主体は、自身の歌声を聴きながら、その声の発生と変化の原因を自身の身体内部器官の運動に求めつつ発声している。そうすることで、出したい声に対応した身体の運動イメージを想起しつつ、身体内部の運動イメージと発声された音を照合しながら声を生成する。自らの歌声を聴く主体は、身体内部の運動を三次元イメージとして想像しながら、自身の声を操作しているのである。

そして、自身の歌声の聴取における音の現前を踏まえて、他者の歌声の聴くことにおいて音の発生がどのように三次元イメージとして立ち上がっていくのかを明らかにしていく。聴く身体は、発声する歌い手の身体内部を直接みたり感じたりすることはできないが、自分自身の歌声を聴くことを通して、音を発生させる運動や現象を身体経験として知っている。他者の歌声を聴く主体は、あらかじめ知っている自身の身体経験と照らし合わせることで、歌い手の身体内部の運動を三次元イメージとして想像し、聴取する音を現前させる。こうして、歌声の聴取において、歌声の現前は、歌い手の声の現前ではなく、聴き手の身体の現前としてあらわれることが結論として示される。

質疑応答では、音を発生させる運動や現象を身体経験として知っている状態の定義や、歌声と器楽を聴くことの差異について、歌声聴取における音の現前と触覚との関係、音楽の聴取を「聴診」という行為を介して理解することの意義といった点が議論された。報告者としては、歌声の聴取においては歌い手の声ではなく聴き手の身体が現前するという指摘は興味深く、この知見に立つことによって「音楽を聴くこと」がどのように解釈可能になるのかが気になった。

両研究は、司会の細馬宏通氏がパネルの冒頭で「だいぶ違う内容の発表」と表現されたように、美学の問題と経験の問題という一見すると異なるテーマを扱っている。しかし、ここでの議論を振り返ってみると、どちらも「表象の不透明性(物質性)」という論点に触れているというのが報告者の実感である。

久保氏は、「写真の透明性」という美学を揺るがす「黒い縁」というカメラという装置=物質の機構に由来する不透明性を積極的に扱おうとしており、そこに20世紀アメリカ写真史の再検討を促すという本研究の可能性があった。

また、堀内氏の研究は、歌声聴取のプロセスには歌い手の声とそれを三次元イメージとして理解することのあいだに介在する聴き手の身体の物質性(不透明性)を問題にすることもできるだろうし、こうした問いの立て方によって、本研究の視点が器楽や音声合成技術によって加工された歌声を聴くことの分析へと開かれていくように思われる。

時間の関係もあり、このような横断的な視点から両研究の議論を深めることができなかったのは残念だが、それぞれの研究に対しては活発な意見交換が行われ、今後の発展を期待させるようなパネルだった。

菊池哲彦(尚絅学院大学)


記録写真の不透明さ──ウジェーヌ・アジェの「黒い縁」をめぐって
久保和眞(大阪大学)

本発表では、フランス人「写真家」ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)の写真群に見られる「黒い縁」について多角的な分析、考察を行うことで、アメリカ写真史におけるアジェの受容の在り方とそこに生じた言説の諸特徴を再検討したい。

1920年代末、アメリカに持ち込まれたアジェのプリントやネガは、ベレニス・アボットをはじめとする多くの写真家に受容され、いわゆる「記録写真」の美学的な価値の向上に大きな貢献を果たすこととなった。従来のアジェの実像をめぐる議論は彼の自伝的な側面を中心に展開してきたが、それもまたアメリカ写真史における「記録写真」の社会的、文化的制度化と密接に関わる問題であることが分かる。とりわけそれは、写真というメディアにおいて「撮影者」がいかに位置づけられ、20世紀初頭に「観察者」の概念がいかに再構成されたかという問題を示唆することとなる。

アジェの多くの写真には彼の用いた大判カメラのフレームが「黒い縁」となって映り込む。例えばアボットはそれを技術史的な文脈で語り、ジョン・シャーカフスキーは形式主義的な解釈を試みたが、「撮影者」の物理的状況を考察するそれらの言説は、近代西欧の「観察者」についての議論の一部を形成している。それぞれの批評と併せてイメージを読むことで、「記録写真」をめぐる言説空間の内部にどのような「観察者」が形成されたのか、アジェのイメージがそこにどのような矛盾を生じさせるのかを検討する。


歌声聴取と聴診──身体内部にひらかれる音のパースペクティヴ
堀内彩虹(東京大学)

医学における聴診とは、身体に聴診器を差し向けて聴く射程を定め、聞こえる複数の音の重なりのなかから聴くべき対象に焦点を絞り、対象の音の質を注意深く聴いた上で、その質が意味するところを知識に照らして判断する一連の行為である。このとき、聴診者は、聴いた音の発生源を身体内部にもとめ、その音を生みだしたと考えられる身体内部の構造や運動をめぐる可視的イメージに結びつけてその音を聴いている。人類学者トム・ライスは、本来、音の存在が意識されない身体内部に音が鳴り響く空間が「見出された」状態を身体のサウンドスケープと呼び、それを可能にする聴診の技能を「聴覚的まなざし(auditory gaze)」と表現する(Rice, 2011)。

本発表では、こうした聴診における音の空間の現れ方が他者の歌声聴取における音の空間の現れ方と共通する性質をもつものであると指摘した上で、その共通点のひとつ、聴く者にとっての音のパースペクティヴが音発生をめぐる可視的イメージとして身体内部において現れる現象をとりあげる。これまでにも音楽聴取が聴診における「探索」的聴き方と似た聴き方をもつことは指摘されてきたが、本発表では、歌声に特化して聴診と比較するとき、そこには他者の身体そのものから直接的に生まれでた音を把握しようとする行為に特有の聴き方が存在することを指摘したい。


広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年2月17日 発行