単著

劉文兵

映画がつなぐ中国と日本

東方書店
2018年7月

本書は第一部と第二部で構成されている。それぞれに登場する人物は、中国と日本の映画交流に貢献した映画人(第一部)と、現在の中国映画の第一線で活躍する監督たち(第二部)である。著者はこれまでにも、関連するテーマで『証言 日中映画人交流』(集英社新書、2011年)や『日中映画交流史』(東京大学出版会、2016年)などの著作を上梓しており、本書はこうした「日中映画交流」シリーズに連なる。表紙のカバーは高倉健のモノクロ写真だが、彼が本書の主人公というわけではない(高倉健のインタビューは『証言 日中映画人交流』に収録されている)。では、なぜ彼のイメージが前面に置かれているのか。その理由は本書を一読すれば明らかだ。すなわち、文化大革命後の中国で、資本主義国の映画としてはじめて一般公開された『君よ憤怒の河を渉れ』(1976)を中心に、高倉健が中国映画にもたらした影響が本書を通じて何度もくり返し語られることで、「「高倉健の時代」、それ以前、それ以後」(355頁)という日中映画交流史の姿が浮かび上がってくるのである。

文化大革命という特殊な事情があったとはいえ、なぜこれほどまでに日本映画が、高倉健が、中国の映画文化に深く浸透することになったのか。本書は、日中双方の様々な立場にある人物の視点から、「高倉健の時代」が生まれた背景に迫る。したがって、本書の論点は、日中の映画交流と同時に、中国における日本映画受容にあると見ることもできる。そのため、本書で言及される主要な日本映画は『君よ憤怒の河を渉れ』、『サンダカン八番娼館 望郷』(1974)、『遙かなる山の呼び声』(1980)といったように、日本映画研究においてはほとんど語られることがない作品たちであり、中国の日本映画受容を通じて、もうひとつの日本映画史を逆照射するという役割も本書は果たしている。また、佐藤純彌、山田洋次、木下恵介といった監督に視点を移してみても、彼らの重要性は、日本映画史という地平で見るか、日中映画交流史という地平で見るかで異なってくる。両者のギャップは、日本と海外における黒澤明の評価以上に大きいだろう。

日本映画を媒介とした日中関係のこのような不均衡性は、冒頭で著者が指摘しているように、本書のもうひとつのテーマでもある。本書に収録されている16人のインタビューや評伝のうち、日本人のものは3名のみであることも、その不均衡性を示唆している。前掲した『証言 日中映画人交流』は日本人の視点から見た日中の映画交流のみで構成されており、こちらで不均衡性を補正することもできるが、しかし、両者が相手を見る視線は決定的に隔絶している。つまり、著者も述べているように、中国側の視線は大衆的であるのに対し、日本側はシネフィルや研究者たちの視線に細分化されているのだ。はたして、日本はこれまでに中国映画を大衆的に受容したことがあるのだろうか(1980年代の日本における香港映画人気はこれに相当するのかもしれない)。

この不均衡性はどこに由来するのか。もちろん、戦争の記憶が影を落としていることはまちがいないが、これのみで説明することはできない。それ以上に、暗い過去を克服して交流を深めようとしていた1970年代後半以降の日中関係が重要であるように思われる。すなわち、「高倉健の時代」である。この時代の映画交流を積極的に推し進めていた徳間康快の評伝が本書に収録されており、ここで興味深い議論がなされている。

日中の映画交流事業は、中国側が国の支援を受けていたのに対し、日本側は民間会社である徳間書店が請け負っていた。徳間書店の経営者である徳間康快は、採算度外視で20年間にもわたってこの活動を続けていたという。彼の「謎めいた情熱」(186頁)は、戦争で蹂躙した中国に対する贖罪の意識からとするにはあまりに過剰ではないかと疑問が投げかけられる。その解答として、徳間の原動力には「中国で味わったナルシシズム的な全能感」(195頁)があったと結論づけられる。つまり、「プリミティヴ」な中国を啓蒙するという優位的立場にみずからを置くことができたからこそ、徳間は日中の映画交流事業に傾倒していったというのだ。徳間の主観は別にしても、技術的に日本映画は中国映画よりも優れているとされ、そこにおいて優劣関係ができていたのは事実である。こうした主観的あるいは客観的な優劣関係のバイアスを通じた交流で持ち込まれた日本映画や中国映画もまたこの構造のなかに落とし込まれ、不均衡性が生じたのかもしれない。ここから先は、当時のノンフィルム資料、批評言説、映画作品の分析をもとに考察する必要がある。

加えて、著者は「徳間が中国第五世代監督を「発見」したのとほぼ同時期に、宮崎駿の才能を見いだし、育てていたという映画史的事実」(p.207)に着目する。それによって、徳間が中国映画と宮崎駿作品に求めた「プリミティヴ」な表象の共通性へと議論は展開する。残念ながら、これ以上は本書のテーマから外れるため、あくまで問題提起をすることにとどめられているが、この「プリミティヴ」が片仮名で表記されていることから、レイ・チョウの『プリミティヴへの情熱』(本橋哲也/吉原ゆかり訳、青土社、1999)が念頭にあるように思われる。すなわち、徳間の「プリミティヴ」への「謎めいた情熱」とは、東洋が内在化するオリエンタリズムであり、文化の起源や始原を至高のものに捏造したいという欲望と軌を一つにするのではないだろうか。そうなると、中国第五世代監督と宮崎駿の同時性はけっして偶然ではなく、両者の国際的成功は共通の戦略によるものでもあるという仮説も提出することができる。それでは、民族誌として見たときの宮崎アニメはどのような姿となるのか、プリミティヴの捏造にアニメーションというメディアはどのように寄与したのか。

高倉健がこの世を去ってはや数年が過ぎた。本書を読み進めていくと、この大きくあいた穴を中心に旋回しているような印象を受ける。映画史は国境を越えて旋回する。本書は、ある国の映画史をその国の歴史のなかだけで捉えることの限界にあらためて気づかせてくれる。中国映画研究ならびに日本映画研究にとって、おおいに発展性のある書物である。

(雑賀広海)

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年2月17日 発行