第13回大会報告

パネル2 ラジオという劇場 ──ラジオ全盛期における語りの諸相

報告:北村匡平

日時:2018年7月8日(日)14:00-16:00
場所:人文学研究科B棟(B231)

・「一人称単数」の語りという実験──オーソン・ウェルズのラジオ・ドラマについて/川﨑佳哉(早稲田大学)
・ミュージカルの劇作法とラジオの関係──『ファン・ウィズ・ザ・レヴュワーズ』における語りと歌の機能分析/辻佐保子(早稲田大学)
・ラジオ研究の可能性──ライブ性と物語世界の構築をめぐって/仁井田千絵(早稲田大学)
【コメンテーター】川島健(同志社大学)
【司会】仁井田千絵(早稲田大学)


本パネルは、1930~40年代にかけてのラジオ番組を対象とし、ラジオを媒介とした「語り」の実践=パフォーマンス性を再考しながら、他のメディアとの関係における作家の実践や、同時代的なコンテクストにおけるリスナーの聴取の実態を浮かび上がらせようとするものであった。さまざまなメディアを横断して作品を演出したオーソン・ウェルズのラジオ・ドラマにおける「語り」の形式、ミュージカル作家としてのコムデン&グリーンによる劇作法とラジオ番組における「語り」と歌の機能、ラジオのライブ性と物語世界の構築についての発表で構成され、メディウムとしてのラジオのパフォーマンス性や受容のモードを捉える画期的な試みであった。

川﨑佳哉氏は、映画だけではなく演劇やラジオ、テレビ等、異なるメディアを横断して作品を作り続けたオーソン・ウェルズによるラジオ・ドラマ『宇宙戦争』を分析対象とした。とくに着目されるのが、キャリアを演劇から開始したウェルズにとっての観客性の問題であり、そこで追求されていた共同体的な経験を、ウェルズがいかにラジオで実践したかが考察された。よく知られるように、『宇宙戦争』において火星人の襲来の放送をニュース速報という形式で聞いた少なからぬリスナーがパニックに陥ったという神話がある。本発表で重視されたのは、そういった形式よりも、ラジオ・ドラマにおいて「一人称単数」で聴衆に直接物語を「語る」──聴衆と個人的な関係を結ぶこと──ウェルズの実験である。川崎氏は、これを「個人的な語り」とし、まず同時代のラジオ・ニュースにおいて、人気のアナウンサーやレポーターが、いかに「個人的なスタイル」による「語り」でリスナーと親密な関係性を構築していたかを確認したうえで、具体的にウェルズのテクストを分析した。古代ギリシア劇での合唱隊──物語展開のすべてを集団で目撃して観客に伝える役割がある──を「コロス」といったが、川崎氏によれば、ウェルズの意図は、『宇宙戦争』のレポーター(カール・フィリップス)の外からの客観的な描写ではなく、登場人物として劇の内部で「私」の感情を露わにした「語り」、いわば「コロスの個人化」にあった。ウェルズは、観客と役者が「共同体の喜び」を作り上げる演劇と、時空間を共有しない映画やラジオ(ウェルズの言葉でいえば観客が「死んでいる」)を明確に区別していた。だからこそ、擬似的な演劇空間を「語り」の手法で立ち上げることによって、ラジオの役者とリスナーとの間に「共同体的な喜び」の生成を目指したのだと川崎氏は結論づけた。

辻佐保子氏は、ブロードウェイ・ミュージカルとラジオの関係を捉えるために、のちにミュージカルの脚本家・作詞家となるベティ・コムデン&アドルフ・グリーンが脚本と作詞で参加した、ラジオのヴァラエティ番組『ファン・ウィズ・ザ・レヴュワーズ』(1940年3月5日〜11月3日) を取り上げた。すなわち、コムデン&グリーンの劇作術をラジオとの連続性のもとで捉え返すことで、彼らの方法論を探究する発表であった。番組は、5人組のグループ「ザ・レヴュワーズ」のメンバーによる掛け合いやオリジナル楽曲、その合間のゲストの歌で構成されていた。当時、人気を博していたラジオ・ヴァラエティ番組は、ヴォードヴィルのように断片化した素材を雑多なまま配列したものだったが、一貫性の見られない出し物同士を繋いで、番組として成立させていたのは司会やアナウンサーによる介入であった。ところが、第1回放送の“Just for Fun”を分析すると、むしろ区切りを入れて番組を成り立たせようとする司会のMCは、出し物の方から邪魔され、その役割が阻害されてしまう。辻氏はこうした作劇の方法論を、慣例的な方法に対する自己言及的なパロディ──「阻害と攪乱による切断」 として分析した。すなわち、ばらばらの出し物を弥縫することで、ひとつの番組として構成していく方法論に対して、むしろ出し物が司会の進行を妨げることで秩序が攪乱されていくのである。第6回以降では、出し物が司会を阻害することなく、「阻害と攪乱による切断」は個別な出し物の中に取り込まれ、出し物自体を構築していく。辻氏はこの変容を、ラジオというメディウムに対する自己言及性の発露と捉えた。こうしたラジオにおける作劇の実験は、初期のミュージカル作品──たとえば『オン・ザ・タウン』であれば、進行を阻害するための楽曲の挿入によって水兵たちの刹那的な時間感覚を描き出す──に引き継がれていく。最終的に、メディアを横断しながらも、ラジオとブロードウェイの間に、コムデン&グリーンによる作劇術の連続性が認められることが提示された。

仁井田千絵氏からは、演劇や映画との関係からラジオを研究対象として取り上げることの意義、またラジオを含めたメディア史を考察するための理論的視座や方法論が提示された。仁井田氏自身、1920〜30年代にかけて、アメリカにおける視覚メディアとしての映画と音響メディアとしてのラジオの混淆を、ヴォードヴィルが主流であった舞台の影響のもとに分析してきた。しかしながら、現代のテレビやインターネット等も含めてメディア史を再考するときに、もうひとつの軸が必要になるのではないか、というのが本発表の問題意識である。そこで今回の発表で導入されたのが、「ライブ性」という概念である。この「ライブ性」とは、パフォーマンス・スタディーズにおけるフィリップ・オースランダーのライブネス論──デジタルによってもたらされる新たなライブネスの考察──を手引きとしている。オースランダーによると、ライブ性は、(1)ライブ対メディアの二項対立ではなく、メディアとの関わりのなかで歴史的に構築されるものであり(つまり演劇における生の直接的経験としてのライブ性のことではない)、(2)テクノロジーと私たちの関係のあり方──観客が「ライブ」だとする感性によって規定されるものである。このふたつを踏まえて、1925年から35年に日本で流行した「映画物語」というラジオ・ドラマが取り上げられた。当時、新聞のラジオ欄には、ラジオ・ドラマの内容が文字媒体として掲載されていたが、これに関して、録音を残さない当時のラジオの「定刻性」や「一回性」を強調していたのではないかと仁井田氏は考察している。また、実況中継が技術的に困難だったことから、アナウンサーがスポーツの試合後に、あたかもいま見ているかのように「実況」することが多かったが、こうしたリスナーの聴取は、聞く側が「ライブ性」を形成する身体作法であったという。結論として、無声映画──映画の上映(複製技術)と弁士における語り(ライブ)の複合的経験──の全盛期、「映画物語」は、活動弁士が体現していた映画上映における「ライブ性」(演劇性)と、時空間を共有していない「スポーツ実況」が混ざり合った身体作法のもとで聴取されていた当時のコンテクストが見出された。

コメンテーター(川島健氏)からも重要な指摘がたくさん提起された。『ファン・ウィズ・ザ・レヴュワーズ』の放送全体に通底する脚本家のトーンはあったのかという発表者(辻氏)に対する質問に、NBCのなかでも彼らがマイナーなネットワーク環境で作っていたことも、作家としての一貫性が立ち上がりやすかったのではないかという応答がなされた。さらに川崎氏に対しては、集団で鑑賞する演劇の「共同体の喜び」と、基本的に家庭で聴取するリスナーの経験は、根本的に異なるものなのではないかという疑問が投げかけられた。これに対して川崎氏は、ウェルズにとって集団/個人は関係なく、観客/リスナーが役者と切り離されていることこそが問題であり、その条件のなかでもなんとか「観客を存在させること」を目指すための「語り」だったのではないかと応答した。この問題に関しては、フロアからも「演劇的なライブネス」とはまた別のもの、すなわち、観客がその場にいないからこそ成立する「ライブ性」が立ち上がっているのはないかというコメントも寄せられた。ほかにもコメンテーターからは、不特定多数のリスナーに向けて「個人的な関係」を作る場合、一人称単数の「私」で語りかけるよりも、どういう二人称を想定して語りかけるかのほうが重要なのではないかとの指摘もあった。最後に、コメンテーターから仁井田氏の発表に対しては、1940年代以降、ラジオ・ドラマは録音技術を試し、発展をうながすものとして展開していくが、そのときにラジオ・ドラマの「ライブ性」はどこに見出されるべきなのかという質問が投げかけられた。仁井田氏は、アメリカにおける大衆に向けた平凡なラジオ・ドラマにおいては、サウンドの実験性や最先端を目指すというより、テレビが大衆化した40〜50年代にあっても、ライブ・オーディエンスを入れたり、オーケストラを入れたりと、「ライブ性」は追求されていたとイギリスとの違いに言及した。その後、フロアも交えて、ラジオの散逸した観客/集中した観客の経験のあり方が、番組の編成にどのような影響を及ぼしたのかなど活発な議論で会場は大いに盛り上がった。

パネルを通して浮かび上がってくるのは、ラジオというメディウム自体が備えていた計り知れない可能性と、ラジオを使って固有の実験をしていた作家の想像力である。当時のコンテクストを踏まえながら、作家による他のメディア実践をとらえようとする本発表のような視座は、ウェルズなら映画、コムデン&グリーンならミュージカルといった具合に、ひとつのメディアにおける作家のあり方を絶対視する既存の作家研究に異なる光をあてることになるだろう。と同時に、諸メディア間で作家がいかなる実験をおこなっていたのかを分析することで、メディウムとしてのラジオそのものの可能性をも掘り起こすことにもつながる。そういう意味で、今後の研究の射程を拡げるようなパネルであった。

北村匡平(東京工業大学)


パネル概要

1930年代から1940年代にかけて、ラジオはブロードキャスティング・メディウムとして多大な影響力を誇っていた。ラジオが身体性や時間、空間の感覚、ローカル/セントラルの区分認識の変容に作用したことは、研究においてすでに指摘されてきた。しかし、ラジオをパフォーマンスのためのメディウムとして捉え、どのようなモードのパフォーマンスと受容が触発されてきたかという観点の研究は発展の余地が残されている。特に、個別の番組やエピソードの精緻な分析を通して、ラジオがいかなる創造/想像をかき立てるメディウムであったかを照らし出す試みは重要と考えられる。

そこで本パネルでは、1930年代から1940年代のラジオ番組を対象に、語りの実践/実験への着目からパフォーミング・メディウムとしてのラジオの諸相を明らかにしていく。川崎は『宇宙戦争』(1938) における語りの技法を、オーソン・ウェルズがラジオに見出した一人称単数の語りのポテンシャルとの関係から論じる。辻は、ベティ・コムデン&アドルフ・グリーンによるヴァラエティ番組 (1940) について、語りと歌の分析からラジオがいかにミュージカルの作劇法の形成に作用しているかを検討する。そして仁井田は、日本における映画作品のラジオ・ドラマ化の事例に触れつつ、パフォーマンスのためのメディウムとしてラジオを研究することの意義と可能性について論じる。


「一人称単数」の語りという実験──オーソン・ウェルズのラジオ・ドラマについて

川﨑佳哉(早稲田大学)

1938年10月30日、日曜日の晩、オーソン・ウェルズ演出によるラジオ・ドラマ『宇宙戦争(The War of the Worlds)』が物語の主軸となる火星人の襲来をラジオのニュース速報という形式で伝えたところ、これを信じた人々が全米中でパニックに陥ったと伝えられている。「ラジオの歴史について完全に何も知らない人々でさえ、このエピソードについては知っている」(Susan Douglas, Listening In, 2014, 165)といわれるように、『宇宙戦争』は今日においても記憶されている現代の神話といえるだろう。

それに対して今日ではほとんど忘れられてしまったように思われるのは、ウェルズがそれ以前からラジオ・ドラマのある「実験」をおこなっていたことだ。それは、登場人物による一人称単数の語りによってドラマを展開させるというものである。ウェルズのラジオ番組『マーキュリー劇場放送(The Mercury Theatre on the Air)』は当初の番組名を『一人称単数(First Person Singular)』としていたが、この奇妙に響く番組名こそ、ウェルズがラジオというメディウムにとって理想的な語りの形態を一人称単数による聴衆への語りかけに見ていたことを証立てている。本発表では、現代の神話として知られている『宇宙戦争』を、この一人称単数の語りという実験との関係から捉え直す。とりわけ、このドラマにおけるニュース速報の使用について、語りという観点から新たな光をあてることを試みる。


ミュージカルの劇作法とラジオの関係──『ファン・ウィズ・ザ・レヴュワーズ』における語りと歌の機能分析
辻佐保子(早稲田大学)

ミュージカル作家ベティ・コムデン&アドルフ・グリーンは、活動初期の1938年から1943年にかけてコメディ・グループ「ザ・レヴュワーズ」の一員だった。「ザ・レヴュワーズ」についてはこれまで、台本分析を通してコムデン&グリーンの政治性が論じられてきた (Carol J. Oja, 2013)。他方、ドラマトゥルギーに着目した研究は試みられてこなかった。しかし、「ザ・レヴュワーズ」の劇作法の検討は、コムデン&グリーンのミュージカル作家としての特徴を詳らかにしていくために必要と考えられる。そこで本発表では、1940年3月5日から11月3日にかけて放送されたラジオ・ヴァラエティ『ファン・ウィズ・ザ・レヴュワーズ』に焦点を絞り、コムデン&グリーンの作劇の方法論を考察する。

ラジオ番組を扱う理由は資料の現存というプラクティカルなものに留まらない。語りや音楽、歌、SEがラジオ番組制作において重大な役割を担うことを踏まえた時、当番組からはコムデン&グリーンのドラマトゥルギーのエッセンスが看取できると考えられる。本発表では番組における音声パフォーマンス、すなわち語りと歌の機能を論じていく。その際、メディウムの技術的・美的特性がいかにラジオにおけるミュージカル表現の形成に作用したかという議論を経由することで、コムデン&グリーンがミュージカルという形式で何を表現しようとしていたか、その一端を明らかにしていきたい。


ラジオ研究の可能性──ライブ性と物語世界の構築をめぐって
仁井田千絵(早稲田大学)

ラジオを演劇や映画といったパフォーミング・メディアとの関係の中で考察する意義とは何か、その際いかなる研究方法や理論的視座を持つことが可能なのか。本発表では、これをライブ性と物語世界の構築という点から、戦前の日本のラジオ・ドラマを事例に考察したい。パフォーマンス・スタディーズのフィリップ・オースランダーをはじめとした研究者は、ライブ性がメディアとの二項対立によって単純に成立するのではなく、歴史的・文化的・社会的に構築されるものであることを論じている。例えば、生演奏・生放送を意味する「ライブ」という用語が、音声のレコーディング自体が可能になった蓄音機の発明からではなく、ラジオが普及する1930年代以降に定着したことは、ライブ性の概念をテクノロジーのみに帰結できないことを示している。ラジオにおけるライブ性の成立において、いかに複数の文化的・社会的慣習が拮抗し、演劇や映画との対比の中で選択・排他されながら現在我々が認識する形を作り上げたのか。さらにラジオ・ドラマという形式において、語りによる物語世界の構築はライブ性とどのように関わっていたのか。本発表ではこれらの点を、1930年代初頭の弁士が出演する映画のラジオ・ドラマ化番組「映画物語」を題材に、同時期のラジオのスポーツ中継や映画のトーキー化を視野に入れて考察する。

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、増田展大、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年10月16日 発行