第13回大会報告

書評パネル 串田純一『ハイデガーと生き物の問題』

報告:乙幡亮

日時:2018年7月8日(日)16:30-18:30
場所:人文学研究科B棟(B132)

植原亮(関西大学)
長坂真澄(群馬県立女子大学)
串田純一(早稲田大学)
司会:千葉雅也(立命館大学)


本パネルは、昨年刊行された串田純一『ハイデガーと生き物の問題』(法政大学出版局、2017年)(以下、『生き物の問題』)の書評パネルとして企画されたものである。ハイデガーにおける生物の問題、あるいは彼の人間中心主義をめぐる問題は、デリダの議論を始めとして人口に膾炙することになった。本書ではそのような文脈を引き受けたうえで、1920年代後半から30年代の著作を中心とした精緻な読解を通じて、ハイデガーの動物論・生命論を同時期の彼の思想全体のうちに位置づけることで、これまでのハイデガー解釈に一石が投じられている。また、現存在としての人間をも生命一般の一つの可能的な存在として理解するという枠組みも本書の特徴と言えるだろう。今回のパネルでは、まず著者である串田純一氏による発表があり、その後、長坂真澄氏と植原亮氏によるコメント、登壇者による討議と続き、最後にフロアを交えた討議が行われた。本報告では、各発表について振り返りつつ、本パネルで最も大きな争点となった「超越論哲学」と「自然主義」という図式についても触れていきたい。

一人目の串田氏の発表では、著作全体についての概略が各章ごとに説明された。本書の前提となっているのは、1929/30年の講義『形而上学の根本諸概念』においてハイデガーが示したよく知られるテーゼ「動物は世界が貧しい」(筆者はこれを「貧しさテーゼ」と呼んでいる)が、『存在と時間』(1927)において批判されていたはずの伝統的な人間中心主義を再導入しているのではないかという問いである。串田氏はここに「現存在の超越」という自身の立場に対するハイデガーの不徹底を見てとりつつ、このテーゼを超越論的な問題設定から読み解くべきだと述べる。つまり、あたかも動物それ自体の本質について語っているように見える「貧しさテーゼ」は、「動物や有機体に対して現存在としての人間がいかなる存在理解を企投しているか」を問うたものだと見なすべきであり、その限りでハイデガーの人間中心主義は通常の意味での人間中心主義とは袂を分かっているのだ。こうした見通しのもとに本書では、この時期のハイデガーの「形而上学」を、現存在を蝶番とした基礎存在論–メタ存在論として明確化するとともに、この二重性をはらんだ形而上学を「超越論的な生き物の哲学」として再構成することが試みられている。

そこで取り出されるのが、あらゆる段階の生命現象にハイデガーが見てとる「脱抑止(Enthemmung)」という概念である。串田氏によれば、、生物が何らかの振る舞いをすることができるという事態には、その振る舞いを「為す必要がない」限りでそれをなさないでいる=抑止するということが含まれており、その可能性が周囲の環境などによって「為さない必要がない」状態になる=脱抑止されることで初めて、その振る舞いが発現する。生き物にとっていわば述語以前的な仕方で現れてくるこの脱抑止の構造が明らかとなるのは、人間がこうした全体的連関に対して実験などの行為によって介入し、その諸要素を分離することによってであるのだが、「貧しさテーゼ」の内実もまたこの点に根ざしている。すなわち、さしあたりたいてい人間は自分自身の立場を──つまり「主語−述語構造」ないし「として構造」を──「移し置く」という仕方で、言いかえれば世界を「貸し与える」という仕方で他の生物を理解しているのだが、生物学のような自然科学的探求によって、貸し与えていた世界を奪い返すことで「動物は世界が貧しい」という仮象が生じるのである。ここで浮かび上がってくるのは、生物における何らかの欠如どころか、そのような形でしか存在を理解しえないところの人間的現存在の有限性である。串田氏は、以上のような「貧しさテーゼ」の解釈によって基礎存在論を捉え直しつつ、人間もまた脱抑止の構造のもとにあることを指摘することでメタ存在論の問題へ、さらには言語の問題へと議論を進めていった。

二人目の長坂氏の発表では、主に「人間中心主義」と「死、退屈、時間性」という二つの観点から多数の問いが提出された。前者に関して取り上げられたのは、『生き物の問題』で指摘されている、人間とその他の生物の間の「深淵」からのハイデガーの「後退」という論点である。串田氏は、「捉われ(Benommenheit)」と「繋縛(Gebanntheit)」の差異について述べられた箇所にハイデガーにおける人間と他の生物の接近を見ているのだが、長坂氏によればむしろそこは両者の微妙な差異について記述された部分であるという。そこから引き出されたのは次の二つの問いである。一つは、ハイデガーの後退にもかかわらずこの両者の接続が図られなければならないとすれば、それはなぜなのかということ。そして、なぜ『生き物の問題』ではここでのハイデガー自身の「後退」が、ハイデガーがカントのうちに見出した超越論的構想力を前にした「後退」が重ね合わせられているのかということである。

二つ目の「死、退屈、時間性」という論点に関しては、まず『形而上学の根本諸概念』で登場する「退屈」をめぐる分析は、『存在と時間』における「死」についての議論と連続性をもつのか否かという疑問が提示されたうえで、両者がともに「時間性」と関わることを指摘された。さらに長坂氏は『生き物の問題』を、時間性から生命へ、生命から言語へという方向転換のうちで捉えつつ、この構造についても問いを投げかけた。すなわち、時間性の問題は言語の問題と切り離されないのではないかということである。最後に、ハイデガーが自らの方法論としてしばしば用いた「形式的告示(formale Anzeige)」と詩や歌の差異について言及され、串田氏はこの両者が表裏をなすものと見なしているのが、詩や歌もまた形式的告示のように読者による遂行という面を含むのではないかという問題提起がなされた。

三人目の植原氏の発表では、最初に自身の立場である自然主義の大まかな発想や哲学に対する見方などが紹介された後、『生き物の問題』では何が達成されているかという点が明晰な仕方で整理された。続いて植原氏は自然主義の見地からいくつかの論点を提示した。

まず一つ目の論点は、生物に対する日常的な関わりと科学的な企投の関係ついてであった。すでに触れたように『生き物の問題』では、生物に対する人間の日常的な関わりと科学的理解との齟齬が表出する局面に人間の有限性が見出されていたが、植原氏はむしろそこが出発点であるという。すなわち、自然主義においては日常的な世界観を科学的な世界観へと収斂することが目指されるのである。二つ目の論点は、超越論哲学という発想そのものをめぐるものである。植原氏によれば、超越論哲学に定位し続ける限り、ハイデガーが撤退したと言われる深淵に突き当たるのは不可避であり、「超越」自体を「自然化」すべきであるという。つまり、超越をあくまで仮象=経験的人間に見られるある種の認知現象と見なし、むしろ超越論哲学それ自体の自然的な由来を探るような研究へと舵を切る必要があるということである。情態性の役割について言及した三つ目の論点もこの二つ目のものと関連したものであった。ハイデガーにとって、形而上学を開始するためには必要条件として「深い退屈」のような根本気分が要請されるが、この点についても自然主義的な解釈を施すことができる。つまり、形而上学を営むという課題を実行するためには、人間の認知システムとして何が備わっていなければならないかという問いへと変換することができるのである。植原氏は、以上の方向性がすでに『生き物の問題』にも見て取れるということを明らかにしつつ、いわば「哲学の科学」というべき探求の可能性を提示することで発表を終えた。

その後なされた登壇者の討議では、まず串田氏が、いくつかの論点をピックアップする形で評者二人に応答した。超越論的構想力に関する長坂氏の問いに対しては、アリストテレスが『魂について』において「パンタシアー」を人間と動物に共通する能力としていたことを想起され、想像力=構想力の問題が人間と動物の連続性を引き出す。また、死と退屈の関係については、『存在と時間』の時期には現存在の方に置かれていた超越の可能性が、『形而上学の根本諸概念』では「もの」の方へと開かれるようになっていたこと、それがいわゆるハイデガーの「転回(Kehre)」とも関わっていることが指摘された。植原氏の発表に対しては、自然主義が想定する自然(nature)においては「可能性」というものが存在しないのではないかと問いかけたうえで、哲学には、そのような自然とは異なった「ピュシス」としての自然と呼ぶべきものを扱う余地があるのではないかと述べられた。司会の千葉雅也氏が整理していたように、この対は、「エネルゲイア」と「デュナミス」の差異という観点からも理解することができるだろう。

長坂氏は、「超越の自然化」という植原氏が示した見立てが興味深いものであることを認めたうえで、自然主義の試みは背理なのではないかと問うた。つまり、自然主義が言うところの自然が知識の基礎づけとはなりえないということこそが、超越論哲学の出発点となっているのである。これに対して植原氏は、必ずしもあらかじめ確実な知識の基礎づけを持っていないとしても、哲学的な探求は始めることができるし、現に私たちはそれを行っているのではないかと答えた。

最後に行われたフロアとの討議で話題が集中したのは、やはり「超越論哲学」対「自然主義」という対立軸であった。そこでの議論を逐一確認していくことは控えるが、フロアかの意見に総じて見受けられたのは、自然主義が持つホーリスティックな自然観やある種の還元主義に対する抵抗感のようなものであったように思われる(それは、表象文化論というディシプリンがどちらかといえば大陸哲学の伝統のもとで形成されてきたことと無関係ではないだろう)。とはいえそこでも述べられていたように、大陸哲学にとって、自然科学の成果や自然主義的な哲学観はもはや到底無視しうるものではないことは確かであり、近年一つの潮流となっている新しい実在論なども視野に入れていく必要があるだろう。付け加えおけば、このような対立図式に関する大陸哲学の側からの応答の一つとして、先ごろ邦訳が刊行されたカトリーヌ・マラブー『明日の前に』(平野徹訳、人文書院、2018年)が挙げられるだろう。本書でマラブーは、素朴な還元主義とは異なった水準で哲学と自然科学を接続する可能性を検討しつつ、あらためて「超越論的なものを放棄することができるのか」を問い直している。

以上見てきたように、ここでは最終的に「超越論哲学」と「自然主義」の緊張関係というきわめて巨大な問題へと議論が及んだ。三者の発表や討議を経て見えてきたのは、ともすれば平行線で終わってしまうこの関係を考えるにあたって、「可能性」や「能力」、そして「自由」の問題が鍵を握るのではないかということである。言うまでもなく、これは『生き物の問題』ですでに示唆されていたことではある。とはいえ、本パネルを通じて『生き物の問題』が持つ単なるハイデガーの一解釈にとどまらない意義と射程が一層明確になったことで、「超越論哲学」と「自然主義」の間に実りある対話を築いていくための方向性が開かれたことは間違いないだろう。

乙幡亮(東京大学)



【パネル概要】

「動物は世界が貧しい」──ハイデガーが講義『形而上学の根本諸問題』で述べたこのテーゼは、現代思想において多数の反応を引き起こしてきた。串田純一の『ハイデガーと生き物の問題』は、このテーゼを導きとして、ハイデガー哲学における「生きているということ」を根本から問い直すものである。本パネルでは、串田の論理を追いながら、生き物の能力や行為について様々な観点から検討を加える。

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、増田展大、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年10月16日 発行