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東京大学東アジア藝文書院(EAA)座談会「時代の危機と哲学──回帰する亡霊に向き合う」

報告:乗松亨平

東京大学駒場Iキャンパス101号館11号室(Zoomとのハイブリッド)
2022年3月31日(木)15:00~17:00

司会 石井剛
発表 乗松亨平
コメント 星野太、王欽、鶴見太郎
応答 國分功一郎


ロシアのウクライナ侵攻開始から、本報告の執筆時点で半年以上が経った。戦争の行方はいまだまったく見えないが、当初、国際社会を覆った混乱や情動的高まりは沈静化してきている。この間、戦争にいたるウクライナ・ロシア関係について多くの情報が提供され、事態の見通しがよくなったのはたしかである。たとえば、このような何の得にもならない戦争をプーチンがなぜ開始したのか、報告者ははじめどうしても理解できなかったが、これはプーチンが損得を無視したというよりも、ウクライナの抵抗について致命的な見込み違いを犯し、単純に損得勘定を誤ったのだろうと、いまでは考えている。

とはいえ、こうした整合的な理解によって、当初の理解しがたさが孕んでいた問いのすべてが解決されたわけではない。計算高さを称えられていたプーチンがなぜ破滅的な計算間違いをしたのか、納得のいく答えは示されていない。状況の見通しを得たことで、そうしたより根本的な理解しがたさを忘却してはならないだろう。ロシアのウクライナ侵攻開始から1月ほどのちに開かれた本座談会は、状況理解とは一線を画し、この戦争に含まれるより根本的な問いと向き合おうとしたものである。

座談会の冒頭では、司会の石井剛から、ロシアのウクライナ侵攻を孤立した事象としてではなく、時代が孕むさまざまな危機の連環のなかで考えたい、という趣旨が説明された。とりわけ、EAAの理念でもある「文」=言葉がこの戦争にいかに関わるのか、関われるのかというのが、事前に提起されていた問いであった。

乗松亨平による発表は、この提起を受け、「言葉と暴力について」というタイトルでウクライナ侵攻とイデオロギーの関係を検討した。スラヴォイ・ジジェクはかつて、イデオロギーとは根源的トラウマ=現実界を覆い隠し、社会秩序=象徴界を与えるものだと定義した。しかし現代ロシアでは、ソ連崩壊というトラウマ的出来事への復讐がイデオロギー化されており、イデオロギーは象徴界と現実界を分離するのではなく接合している。そのことが、言語と暴力、イデオロギーと戦争が直結する事態を招いたのではないか、という見立てが示された。

星野太は、イデオロギーや言葉に対する象徴的距離が失われるそうした事態は、現代世界においてロシアに限らないのではないかと応じた。それは言葉が弱体化したということではかならずしもない。ゼレンスキーの各国での演説に明らかなように、言葉はむしろ現実のなかで直接的な力をもつようになっている。20世紀の文学や哲学が焦点としたような、言葉そのもののもつアレゴリー的な厚みが失われ、言葉が現実と直結するのである。

続いて王欽は、シュミットやデリダを参照しつつ、主権概念の含む二つの意味をとおしてロシアのウクライナ侵攻を考察した。諸国家の平等な自立性を保証するものである主権は、同時に、他者からの制限を受けない至上の権利という側面をもつ。キリスト教の伝統にもとづくヨーロッパ公法が機能しなくなるとともに、主権の後者の側面があらわになり、各国がみずからの権利を無制限に追及するようになる。こうしたリアリズム政治の跋扈を制限する新たな言葉や政治形式が、キリスト教の外部から見出されなければならない。

鶴見太郎は、ソ連崩壊後のロシアにおけるリアリズム政治の跋扈を、社会主義イデオロギーによる国家統合が破綻した結果、政権の求心力が唯一の統合原理となったことによるものと分析した。強い求心力の維持が理念的に自己目的化し(イデオロギー化したともいえるかもしれない)、ウクライナの離反はそれを傷つけるがゆえに許容されえなかったのである。

ここまでの議論を受けて國分功一郎は、ロシアでは、イデオロギーとリアルポリティクスのあいだに本来あるべき分離が失われ、両者とも機能不全に陥ったのではないかと意見を述べた。その結果、不合理で予測不能なトラウマの噴出が政治を左右するようになる。このような状況はロシアに限らず、インターネットを通じて現代世界全体に広がっており、言葉に現実と距離をもった象徴的機能を回復させることは、きわめて困難な状況にある。

その後の討議で石井は、言葉と現実の距離を取り戻すひとつの可能性として、言葉を書くことにともなう身体性の次元を挙げた。星野もそれを受けて、言葉にアレゴリー的な厚みを見出す発想は、現状では陰謀論的な言説に吸収されてしまっており、言葉じたいの厚みというよりは、言葉の身体性を模索すべきではないかと述べた。また王は、トラウマを合理化し治癒する象徴的言語を与えようとするより、トラウマが生み出す言語を分析することが人文学のやるべきことではないかと表明した。

ロシアのウクライナ侵攻以来、報告者は研究者として強い無力感に苛まれてきた。専門的知見によって前後の状況を明らかにしても、この戦争を理解した気にはなれない。この戦争の孕むより深く絶望的な問い──ポスト近代世界のたいへん暗い予示──に向き合うための出発点を、本座談会は与えてくれた。参加者のみなさんにお礼申し上げる。

(乗松亨平)

広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年10月23日 発行