リュミエール兄弟の『赤ん坊の食事』(1895年)を嚆矢として、食べる/食べさせる行為は時代やジャンルに関わらず常に映画に描かれてきた。映画と食べる/食べさせる行為をめぐる学術研究は遅くとも1990年代に始まり、身体イメージ(Counihan, 1999; Plotz, 2020)、ジャンル映画(Bower et al., 2004; Hertweck et al., 2015)、食卓の政治性(Baron et al., 2014)など、濃厚な視点が提示されてきた。食と映画に関する研究は、1980年代以降の新自由主義とサクセスフル・エイジング言説の発展と並行しながら、いかにジェンダー、セクシュアリティ、年齢、人種、身体の健常さが特定の社会において食事とその文化表象を通じて規範化されてきたかを明らかにしてきた。

これらの先行研究を建設的に継承する本パネルでは、映画が描く食べる行為/食べさせる行為をめぐる快楽/欲望(とその不在)を考えるために、以下の視点をメニューへ加えたい。口を介した食欲と性欲の充足という日常的行為にはいかなるクィアな欲望が潜んでいるか(ストキンジェル)。栄養摂取を目的とせずに人肉を貪るゾンビ的身体は、いかに食べる行為に付与されてきた意味そのものを問い直させるか(福田)。食べる行為/食べさせる行為はいかに身体を規範的なサイズ以上に膨張させ、その膨張を通じて性的欲望と快楽を満たしながらも、膨張とは相反して孤独な感情を残すのか(久保)。これらの問いを通じて、本パネルは食べる/食べさせる行為の映画的表象の意義と役割を検証する。

ゲイたちが口にするモノ──今泉監督作品にみる「食べ物・食事」、「オーラル/セックス」の表現とポリティクス/ストキンジェル・アルノー(神戸大学)

本発表は、今泉浩一監督作品における「食事」シーンと「オーラル/セックス」シーンの役割と政治性を明らかにするものである。1999年にインディペンデント映画作家としてデビューした今泉は、ゲイであることを公言し、現代日本社会におけるゲイ男性の経験を中心に映画で描いてきた。今泉作品における「食べ物・食事」と「オーラル/セックス」を分析することで、日本におけるゲイ男性の日常生活をめぐる政治とジレンマを垣間見られる。

今泉作品では、食事が物語のほとんどを占めていなくても、食事場面は登場人物の家族や帰属意識への期待を表現する役割を担っている。『NAUGHTY BOYS』(2002年)と『初戀』(2007年)では、そのような期待は比較的規範的なものである。一方、『家族コンプリート』(2010年)では、食事場面がヘテロ規範的な家族の定義から逸脱しようと徐々に変化していく。同時に、2010年以降の作品においては、クィアな欲望の肉体的な側面が強化されていくことも分かる。

近年の映画研究から分かるように、クィアな欲望の表出は、身体的・肉体的な領域から、日常的行為の領域へ移行し考察されている(Probyn, 1999; Wilson, 2019)。では一体、食事とセックスの描写は互いにどのような関係にあり、ゲイ男性の経験といかに関わっているのか。本発表では今泉作品における食事とセックスの比較分析を通じて、クィアな欲望の身体的表現と日常的行為の表現が共存している特徴とその政治性を明らかにしたい。

なぜ「人」でなければいけないのか──ゾンビ映画における「食べる」こと/福田安佐子(国際ファッション専門職大学)

本発表では、ゾンビ映画における「食べる」行為に着目する。ゾンビと呼ばれるモンスターにおいては、「食べる」という行為は重要であると同時に無意味なものである。というのも、ゾンビが「人肉を喰う」ことは、その不死性や身体の腐敗にならぶ、主要な特徴となっているが、しかし、その行為は、身体の維持や生存の為になされているのではない。またその行為を、唾液が体内へと直接的に侵入することで引き起こされる感染とそれによる増殖の為になされている、と見做したとしても、対象となった肉体が多くの場合、食べ尽くされてしまっていることで矛盾が生じている。一方で、消化を目的としない食事は、排泄ではなく嘔吐という形でその行為が完結するという描写もある。

このように、ゾンビにおける食人行為について言及する作品では、その行為に様々な注釈が与えられている。例えば、ジョージ・A・ロメロの一連のゾンビ作品は、食人行為とその怪物性の関係を問い続けているのであり、2009年の『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(Survival of the Dead)においては、ゾンビに人間以外の肉の味を覚えさせることで、人間との「共生」を仄めかしている。以上のように、ゾンビにおいては「食事」という行為が無意味であるが故に、逆に「食べる」行為における様々な意味や形態が露呈させられるのであり、これらの描写を通して「食べる」という行為に付されてきた多くの意味を問い直すことが本発表の目的である。

膨張する身体──性的欲望と孤独を食べる/食べさせるクィアな親密性/久保豊(金沢大学)

本発表では、食べる/食べさせる行為を通じて膨張する身体を媒介に性と身体をめぐる規範を揺るがす映画表象の可能性を探る。2010年代以降、視覚文化を通じて理想化されてきた身体イメージの問い直しが行われ、ボディポジティブ運動は、身体のサイズ・肌の色・形能力に関係なく、ありのままの身体を愛する重要性を訴えた。例えばアメリカ文化において、「肥満」の身体を改善できない人々は「失敗」と嘲笑され、「肥満」の身体に特徴的な柔らかさや丸みは女性的な特徴としてジェンダー化されてきたなかで、この運動が果たした社会文化的意義は見過ごせない。一方で、LGBTQコミュニティにおいては、理想化された身体イメージは特に若い世代において根強く残っている。

本発表では、映画・クィア・ファット(fat)に関わる近年の研究(Lindernfeld et al., 2017; Plotz, 2020)を援用し、クィア映画が描く食べる/食べさせる行為を取り上げ、食事を通じて膨張した身体の表象に着目する。同性婚の可否や性的マイノリティへの福祉の有無は、クィア映画で描かれる食事や健康的な身体の描写にどのような影響を与えるのか。また、膨張した身体はどのように性的欲望を満たし、また孤独に苛まれる可能性に晒されるのか。本発表では、フレデリック・モフェットのドキュメンタリー映画Hard Fat(2002年)を軸に、他のクィア映画も参照しつつ、膨張した身体を媒介とした異性愛規範的な空間に対するクィアな親密性の侵食の可能性を導きたい。