第16回大会報告

パネル2 大正期の映画/映画館のテクストとコンテクスト ──映画宣伝資料を参照して

報告:紙屋牧子

日時:2022年7月2日(土)10:00-12:00

  • 東京における映画興行地図の変容──サイレント時代の映画配給構造/柴田康太郎(日本学術振興会)
  • 「メロドラマ」としての映画『五郎正宗孝子伝』(1915年)に関する考察──〈継子いじめ〉の系譜から/紙屋牧子(玉川大学)
  • 「表現」性の翻訳──ドイツ映画の内外における流通と聴覚的要素/白井史人(名古屋外国語大学)

【コメンテイター】上田学(神戸学院大学)
【司会】紙屋牧子(玉川大学)


本パネルが焦点をあてたのは大正期から昭和初期までの東京都市部から近郊までの劇場が発行したチラシ等を中心とする早稲田大学演劇博物館館所蔵の映画宣伝資料である。これらを読み解くことによって拓かれる映画史の可能性を検討した。

最初に登壇した柴田康太郎氏の「東京における映画興行地図の変容──サイレント時代の映画配給構造」では、関東大震災後の東京で映画の同時封切が外国映画と日本映画と異なる仕方で定着・展開していたことが、映画宣伝資料の検証により具体的に明らかにされた。外国映画については、震災直後の1923~24年に1本のプリントで興行された作品の事例と、5本程度のプリントで興行された1926年の事例が比較され、浅草中心の映画配給構造が変化して浅草・東京市内の同時封切が増加したこと、また同時封切の増加によって上映館が様々な差別化の戦略を採っていたことが指摘された。日本映画については、古参の日活作品と関西を拠点とする新進のマキノ作品の封切・配給が比較され、両者とも大作映画では数本で封切りを行いながら2週目以後には20本ほども大きくプリント数を増加させる戦略が採られていたこと、また1926年頃から関東関西同時が増加していたことが指摘されると同時に、マキノ作品では日活よりも積極的に同時封切が推進されていたことも明らかにされた。これらの検証は、従来の日本映画史では捉えられてこなかった池袋や小石川などの中小規模の映画館が、震災以後次第に東京での映画封切・配給構造のなかで地位を向上させていたことも示し、都市のなかでの映画興行の実像をも浮かび上がらせた。

次に、紙屋牧子が「「メロドラマ」としての映画『五郎正宗孝子伝』(1915年)に関する考察──〈継子いじめ〉の系譜から」というテーマで、柴田氏より提示された「市内館」における興行の実態を池袋平和館の事例にフォーカスして検討した。同館の1枚のチラシから浮かび上がるコンテクストを手がかりに、『五郎正宗孝子伝』(天活、吉野二郞監督)のテクスト分析をおこなった。チラシは映画興行の実態を知り得る様々な文字情報を持つ媒体である一方、殆どのものは「年月」の記載が無いという弱点を持つ。それゆえ新聞広告など関連する文献の調査も必須となる。分析の対象とした池袋平和館のチラシもその例に漏れなかったが、関連文献の調査によって「1923年2月18日〜22日」の興行であること、つまり封切から8年隔てたリバイバル上映であり、さらに「藪入り興行」(主家から暇をもらった丁稚の奉公人がターゲット)の目玉として『五郎正宗孝子伝』上映が浪花節出語りで興行されたことを指摘した。そのうえで、同作が旧来の価値観に沿った道徳心の涵養や武士道鼓舞を建前としつつも、実は「継子いじめ」の場面が見せ場となっており、そしてそのことによる継母への「制裁」が密やかにある種の快楽として享受されていた可能性を、同時代の批評・芝居・絵画等の事例を間テクスト的に示しながら提起した。

続いて、白井史人氏の「「表現」性の翻訳──ドイツ映画の内外における流通と聴覚的要素」ではドイツ映画に軸を移し、同時代の日本でその芸術性が高く評価されていたドイツ映画が日本で流通していく際の過程を特に音楽の側面から考察した。とりわけ日本での評価が高かった『カリガリ博士』(1920年ドイツ公開、ロベルト・ヴィーネ監督)など「表現主義」「表現派」として括られていた作品の特徴である独得な映画美術や怪奇的な題材が日本映画に与えた影響はつとに指摘されているが、白井氏は『カリガリ博士』がニューヨークで上映された際の、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、シェーンベルクらの音楽を導入した伴奏音楽の革新性に注目し、日本での場合と比較検討した。そのためにまずドイツにおける伴奏音楽が統一的なものを求めていく流れとなっていくことを確認したうえで、そのような傾向が日本に与えた影響について、『最期の人』(1924年ドイツ公開、F・W・ムルナウ監督)などの映画説明や伴奏音楽といった聴覚的要素の事例を通して検討された。さらに日本におけるドイツ映画の受容を考えるうえでの興味深いものとして、『ニーベルンゲン』(第1部「ジークフリートの死」、第2部「クリムヒルトの復讐」、1922-24年ドイツ公開、フリッツ・ラング監督)の事例が示された。白井氏はアメリカで『ニーベルンゲン』がシリーズ物として普及されるのは1928年以降と先行研究で指摘されていること、一方で日本は新聞広告によれば、それに先行する1926年に「ニーベルンゲン物語大会」としてシネマパレス(横浜)でリバイバル興行されていることを示したうえで、直前に同劇場で『カリガリ博士』の映画説明を担当した当代の花形弁士・徳川夢声の存在(同一人物による聴覚的要素)が日本における「ドイツ映画」の文脈を形成することに貢献している可能性を指摘した。

以上の発表を受け、コメンテーターの上田学氏からは、本パネルが射程にしている資料群に関して、演劇博物館に勤務していた立場からのより具体的な解説がまず加えられた。続いて、個別の議論として『五郎正宗孝子伝』に対する女性観客の視点の問題、フィルム輸入の経路の多様性などが提示された。フロアからは「継子いじめ」物の参照項としての「からくり人形」についてのコメントや、映画会社が作製する作品ごとのプリント数に関する質問、トーキー転換期のレコード文化に関する質問など、的確かつ有意義な議論が提示され、それらに対する発表者からの応答が為された後、パネルを終えた。


パネル概要

当パネルは、早稲田大学演劇博物館所蔵の映画館チラシを中心とする映画宣伝資料の分析を起点として、大正期の東京および近隣の都市において、どのような無声映画がどのように興行され、それをどのように観客が受容していたのかを多角的に討議するものである。現在、映画宣伝資料を活用した映画史の読み直しを進めている、柴田康太郎、紙屋牧子、白井史人の3人が発表をおこない、無声期の日本映画に関する多数の著作を持つ上田学がコメンテーターを務める。

柴田は1920年代の東京における配給・興行の変遷に焦点をあてる。映画興行の中心地だった浅草六区とそれ以外の「市内館」の興行の関係に注目し、1920年代の東京における映画の興行・配給の地政学的・時政学的な変容のあり方を明らかにする。

紙屋は『五郎正宗孝子伝』(天活、1915年、吉野二郞)に焦点をあてる。1923年にリバイバル上映された同作の興行スタイルを検証しつつ、実は〈継子いじめ〉譚に位置付けられる同作の「メロドラマ」的要素とそれに対する観客の欲望を検討する。

白井は1920年代の日本でとりわけ芸術性を高く評価されていたドイツ映画に焦点をあてる。楽譜資料にも眼を向けつつ、伴奏音楽などの聴覚的要素が興行や作品のスタイルに与えた影響を検討する。

以上の3つの視点から、1920年代日本の映画/映画館のテクストとコンテクストの再検討を試みる

東京における映画興行地図の変容──サイレント時代の映画配給構造/柴田康太郎(日本学術振興会)

東京における無声映画の上映空間といえば、まず想起されるのは浅草六区の映画興行街である。だが1920年代には東京市内だけでも約100館もの映画館が存在していた。こうした膨大な映画館を支えたのは当然その上映プリントの配給網だが、そのあり方は1920年代だけでも大きな変容を遂げている。日本における映画配給の変容をめぐっては既に、近藤和都(2020)が、封切館が浅草一館だった1920年代初頭から複数館での同時封切が始まる震災前後への変容を指摘し、映画体験を支えた地政学的/時政学的条件のあり方を考察している。とはいえ、これほど多くの映画館で日々膨大な映画が上映され、受容されていた当時の東京の映画興行空間の実態は未だ僅かなことしか分かっていない。一口に「同時封切」といっても2館同時から20館同時まで一様ではないし、浅草とともに同時封切される映画館やその土地、そして封切以後の映画配給の経路は映画会社によっても異なっていた。本発表は現存する映画館チラシや映画館プログラムの考察を端緒として、1920年代の東京における映画封切や映画配給の変化の過程を考察する。特に池袋の平和館や小石川の傳通館など、従来の日本映画史で取り上げられることのなかった地域や映画館に注目することによって、当初は周縁的な存在であった地域や映画館の位置づけが重要な位置をなすようになる過程とのその条件を明らかにする。

「メロドラマ」としての映画『五郎正宗孝子伝』(1915年)に関する考察──〈継子いじめ〉の系譜から/紙屋牧子(玉川大学)

本発表は、『五郎正宗孝子伝』(1915年、製作:天活、監督:吉野二郞)の興行の実態及び観客によるその受容について明らかにし、そのテクストとコンテクストを分析する。

欧米に比べて無声期の映画の現存状況が極めて厳しい日本のフィルムアーカイブ事情を考えるなら、封切当時の長さに近い状態で現存する『五郎正宗孝子伝』は、1910年代の日本映画の演出スタイルを検証するうえで極めて重要な作品と言えるが、同作に関する先行研究は未だ、Hiroshi Komatsu(1995)、紙屋牧子(2009年)に凡そ限られる。本発表ではこれらの先行研究をふまえつつ、テクストとコンテクストの両面から更なる検討を加える。演劇博物館所蔵の映画館チラシを中心とした宣伝資料を活用し、『五郎正宗孝子伝』を例に、無声期における映画興行のスタイルやリバイバル上映の様相、観客の受容のありようを、より正確かつ詳細に歴史化することを試みる。そのうえで、国立映画アーカイブに所蔵されているフィルムおよび説明台本を手がかりにして、『五郎正宗孝子伝』のテクストを伝統的な〈継子いじめ〉譚の系譜の中に位置付け再検討したうえで、その「メロドラマ」的要素を考察する。

「表現」性の翻訳──ドイツ映画の内外における流通と聴覚的要素/白井史人(名古屋外国語大学)

欧米で製作された輸入された映画は、大正期の映画館を構成する重要な要素であった。そのなかでも『カリガリ博士』(1920)に代表される1920年代のドイツ映画は、「表現主義」や「表現派」といった形容と結びつき、邦画や、同時代のアメリカ映画に対して差異化され受容されていった。早稲田大学演劇博物館所蔵の大正・昭和初期映画館チラシにおいても、『カリガリ博士』や『化石騎士』(1923)などの日本上映時の惹句として「表現派」という語が用いられているほか、その「芸術」性を強調した宣伝が目に付く。輸入されたフィルムという「テクスト」と、映画館や観客というコンテクストを媒介するライブの聴覚的要素(伴奏音楽や弁士による語り)は、ドイツ映画の内外における流通と特徴の構成にいかなる機能を果たしたのだろうか。

日本国内におけるドイツ映画の公開を検討した山本(2020)は、広範な文献資料分析によって、必ずしも「表現主義」的特徴のみにとどまらないドイツ映画の受容の厚みを明らかにしている。本発表はこうした先行研究を踏まえ、チラシ資料の分析を出発点に、1920年代のドイツ国内における言説や伴奏譜と日本における宣伝資料を主な分析の対象とする。アメリカでのドイツ映画の公開状況も補助線として、ドイツ映画の特徴に対する認識が「表現」性などの一定の概念と結びつく一方、ローカライズされた上映形態の多様化が、その流通や興業を支えたことを明らかにする。

広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年10月23日 発行