第15回研究発表集会報告

研究発表1

報告:岸健斗

日時:2021年12月4日(土)9:00-11:30

  • 精神分析理論への同性愛の可能な包摂のための前提的問題について──J・ラカンの議論を手がかりに/原和之(東京大学)
  • ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ概念の起こり──現象学からジェンダー・パロディへ/青本柚紀(東京大学)
  • レーヴィットを読み、乗り越えようとするクロソウスキー──《神トイウ悪循環》なる演技空間の原理とその実現/山﨑雅広(京都大学)
  • 重力の詩学──古井由吉とシモーヌ・ヴェイユ/今村純子(立教大学)

司会:佐藤嘉幸(筑波大学)

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本研究発表では、ジャック・ラカン、ジュディス・バトラー、ピエール・クロソウスキー、シモーヌ・ヴェイユが、原和之氏、青本柚紀氏、山﨑雅弘氏、今村純子氏によっておもに扱われた。非常に個性豊かなラインナップであり統一的にまとめるのが難しいが、乱暴にまとめるならば、これまでとはちがうやり方で「何か」について語ろうとしている思想家(ラカンも含め)たちが集ったと言えるだろう。そのなかでも司会の佐藤嘉幸氏から指摘があったように、前半の二つはクィア理論を、後半の二つは神との関係を論じたものとして整理できるだろう。クィア理論の現代的な重要性は日に日に高まっており、また、神との関係という伝統的なテーマは、伝統的であるがゆえに今日的な次元での語り直しがたえず求められていると考えれば、その必要性はけっして無視できないと思われる。そのような観点から上記すべての発表は、非常に刺激的なものであったと言えるだろう。

原氏は、男性的であるとの批判もある精神分析理論の前提をラカンの理論に沿って問いに付し、そのなかに精神分析においては病理とされていた過去を持つ同性愛をどう位置づけるのかという問題に迫った。そのためにまず、ラカンの「欲望の弁証法」においては「愛」が複数の在り方を内包している点に着目する。そしてそこから原氏は、さまざまな愛の要求におけるさいの〈他者〉には必ずしも性差は含まれていないのではないかと指摘した。こうして、ラカンの「欲望の弁証法」において父母のちがいは想定されているとはいえ、男女という性差は必ずしも規定されていないのではないか、と問題提起をおこなった。対象としての〈他者〉概念の再構築から、精神分析理論における同性愛の新たな位置づけという大きな問いを発するというかたちで、原氏の発表は閉じられた。

青本氏の発表は、バトラーにおいて「ジェンダー・パロディ」の議論がどのように呼び出されたのかを考察するものだった。まず、モーリス・メルロ=ポンティの現象学からのバトラーへの影響が指摘される。次に、青本氏はそこで行為に先立つ主体の前提などに留意を促し、議論をバトラーとフーコーとの対話へと接続する。ここで着目されるのは、フーコーの「記銘モデル」では前-歴史的な身体が前提とされているために逆説的に所与の身体が強化されているのではないか、というバトラーの批判である。こうして、ジェンダー・アイデンティティの新たな系譜学を語るバトラーという像が提示される。つまり、これまでバトラーが苦心してきた、起源を設定せずにジェンダー・アイデンティティを語るという試みがフーコーの読解を通してより徹底的におこなわれるようになったと言えるだろう。そしてそのことが、メルロ=ポンティからの影響も受けたと思われる、ジェンダー・パロディという議論に結実するのだと指摘された。

山﨑氏の発表は、フリードリヒ・ニーチェの「永劫回帰」について、ニーチェ、カール・レーヴィット、クロソウスキーと年代順に辿ることで、クロソウスキーによるニーチェ解釈の方法上の特徴を提示することを目的としてなされた。まず、体験/教説のギャップ、すなわちその体験の伝達不可能性という永劫回帰の問題点が指摘された。次に、それを深刻に受け止めたのがレーヴィットであると言われ、彼によってニーチェとディオニュソス神との演じ演じられの関係が重要であると論じられていることが明らかにされた。しかしレーヴィットは、ニーチェの演技について役者/役という関係をあまりに截然と分けているのではないか、という批判的な読解がクロソウスキーからなされていることが示され、議論はクロソウスキーによるニーチェ解釈へと移る。ここで鍵となってくるのが「擬態(シミュラークル)」という概念である。山﨑氏は、クロソウスキーが見せた「私、ニーチェが語ります」という語りに注目する。その発言においては、クロソウスキーの擬態がどこまで完全で絶対的であるのかは判断できない。そしてそこにこそニーチェの伝達不可能性を超える契機があるのだと指摘される。こうして、その擬態がクロソウスキーの方法だったと論じられた。

今村氏は、ヴェイユが提起した端的には「語りえない」さまざまなモチーフが古井由吉作品のなかでどのように結実しているのかを論じた。キーワードは、「反復」と「詩性」ということになるだろうか。言語は何よりもまず反復されるものである。反復されなければ伝達は可能ではないからである。しかし他方で、そのような言語において詩のような芸術が生まれるとき、そこでおこなわれているのは反復と呼んでいいものなのだろうか。今村氏はヴェイユの力強い言葉を導きとしながら、古井のどこか茫洋としたテクストにおける詩性の内実を論じていく。そうして今村氏は、古井のテクストにおける音楽性を指摘する。そこには伝達の意図は感じられず、ただそのテクストに耳をすましているだけであると論じられた。

四者による発表が終えられたのちに質疑応答へと移った。そこでは発表者間の意見交換がとりわけ活発だった。本報告の冒頭で四者の発表を乱暴にまとめてしまったが、その意見交換でも指摘されていたように、各々の発表の細部が前者二つ、後者二つという枠組みを超えてそれぞれに響き合うところを持っているように感じられた。ラカンの理論における〈他者〉概念の再構築、バトラーのパロディ、クロソウスキーの演技、そしてヴェイユの反復。やはり四者とも真偽という判断基準には回収されないような方法で「何か」について新たに語り直そうとしているように思われた。もちろんそれは非常に難しいことであり、語れないということを通して語るほかないのかもしれない。だがそれでも語ろうとしなければ何も始まらないだろう。四者にはそのような姿勢が感じられ、どれもたいへん魅力的な発表だった。

(岸健斗)


精神分析理論への同性愛の可能な包摂のための前提的問題について──J・ラカンの議論を手がかりに/原和之(東京大学)
精神分析は、長年にわたって性対象選択・性同一性に関わる議論を積み重ねてきたことから、現代におけるセクシュアリティとジェンダーに関わる議論でも主要な参照先の一つとなっているが、同時にその理論と実践における偏りがしばしば批判されてきた。大きく「男性中心主義」と「異性愛主義」という二つの言葉で要約されるこうした批判は、フェミニズムやゲイ解放運動などを背景としたジェンダー平等と性的多様性の包摂へと向かう社会的な変化の中、精神分析の内部でも徐々に正面から受け止められるようになり、これを承けて制度的な改革が進む一方で、分野における態度変更を決定的にするはずの新しい理論の登場が未だ待ち望まれているという状況がある。そうした状況のなかJ・ラカンの精神分析理論は、言語的な関係とそこで成立する享楽という観点から性を再定義する仕方を提示するものとして、そうした理論構築の起点となりうるポテンシャルを持っているように思われる。本発表では、そもそも精神分析において「理論」は何をするのかという基本的な問いから出発しつつ、ラカンの性差をめぐる議論に向けられた批判でしばしば前提とされている、ファルスを「持つこと」とファルスで「あること」を軸としたその整理とは異なった議論のレイヤーがあることを示した上で、そこから性的多様性の理論を構築しようとする際の戦略的地点として、不在と欠如の接合、および父母の役割と性差の重ね合わせの二点を指摘し、最後に理論的課題として〈他者〉概念の共同-再構築を提唱する。

ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ概念の起こり──現象学からジェンダー・パロディへ/青本柚紀(東京大学)
『ジェンダー・トラブル』におけるバトラーのジェンダーの概念の脱構築でもっとも重要な役割を果たしたのがパフォーマティヴィティ概念である。そのパフォーマティヴィティ概念がデリダとオースティンの影響下に形成されたことはたびたび指摘されているが、その反面、そこに至るまでに明示的に参照されているのはメルロ=ポンティなどの現象学や、フーコーの系譜学である。
本発表では、バトラーが初めてパフォーマティヴという言葉を用いた1988年の論文の「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成──現象学とフェミニズム理論」と、1989年の論文「性的イデオロギーと現象学的前提」・「フーコーと身体的書き込みのパラドックス」を取り扱う。そこでバトラーが主な参照項として挙げているボーヴォワールやメルロ=ポンティの現象学や、身体に関するフーコーの系譜学を、バトラーがいかにして評価し、援用し、そしてそれらに対する評価を変えていったのかを分析し、『ジェンダー・トラブル』に至るまでのバトラーの思想の変遷や、『ジェンダー・トラブル』におけるパフォーマティヴィティ概念の源泉あるいはその背景を辿る。
以上を通じて、『ジェンダー・トラブル』以前と以後のパフォーマティヴィティ概念の間にある隔たりを見ることで、『ジェンダー・トラブル』におけるジェンダー・パロディの議論──規範的なジェンダーも起源的なジェンダーも必ず失敗するコピーであるとして、異性愛的主体のジェンダー化の実践に構造的な失敗が含まれるのだとする──がいかにして呼び出されたのかを明らかにするのが本発表の目的である。

レーヴィットを読み、乗り越えようとするクロソウスキー──《神トイウ悪循環》なる演技空間の原理とその実現/山﨑雅広(京都大学)
『アセファル』誌第2号(1937)に載ったレーヴィット『ニーチェ、同じものの永劫回帰の哲学』の書評において、クロソウスキーは、《永劫回帰》の教義が、「ニーチェとディオニュソスの同一性の度合い」に従う形でしか価値をもたないということを、レーヴィットの主張としてまとめている。この書評の段階では、クロソウスキーはこうしたことをレーヴィットの意見として紹介しているにすぎないが、50・60年代の彼の諸テクスト(『かくも不吉な欲望』・『ニーチェと悪循環』)をみると、その後彼はレーヴィットのいう《永劫回帰》の伝達不可能性を、その体験と教説の間にあるギャップ・・・・・・・・・・・・・・として受け継ぎ、しかし重要なことだが、57年の論文においては、このギャップを超えることができなかったというレーヴィットの診断には、擬態シミュラークルなる語を用いて批判を加える。それでは、擬態シミュラークルとはなにか。本発表ではそこで、『善悪の彼岸』においてニーチェが書き込み、そしてクロソウスキーがこだわる謎めいた概念《神トイウ悪循環》に注目する。そこでニーチェは、演ずる者と演じられる者の区別が失効した演技空間を描出しており、この《悪循環》なる場においてはレーヴィット的な伝達不可能性はもはや問題にされていないようにみえる。それゆえクロソウスキーは、『ディアーナの水浴』や『歓待の掟』といった作品群で、このニーチェ的《悪循環》の原理を書き込み、小説という形式をも利用しながら、読み手をフィクション上の登場人物と同一平面に置くことで、我々を《悪循環》へと巻き込まんとする。『歓待の掟』「あとがき」については、クロソウスキー自身のニーチェ論と全く同様の表現がみられることは既にTremblay 2012, 大森 2014が指摘するとおりであるが、ただしこれらの論者は、そもそもなぜ・・、自らの小説作品においてニーチェの《永劫回帰》をめぐる思惟と同じものを記入する必要があったのかについて、立ち入った考察をしていない。本発表は、37年書評から、戦後の小説作品をも通り、69年『ニーチェと悪循環』にまでいたる道行きを、レーヴィットの受容とそれとの対決との観点から辿ることで、この点にひとつの解決を与えたい

重力の詩学──古井由吉とシモーヌ・ヴェイユ/今村純子(立教大学)
ドイツ文学の研究者として出発した古井由吉のロベルト・ムージル論で異彩を放つのは、ムージルへの古井の憑依が見られる箇所である。やがて古井は作家となる。他方でシモーヌ・ヴェイユは、必要な栄養を摂るように「食べるようにして読む」と述べている。だが、ヴェイユが生前残した詩と戯曲は、創作として完成しているとは言えない。
研究から創作へと古井がハンドルを切った最初の作品が、芥川賞受賞作『杳子』(1971)である。本作品は、表現の種子を内に宿した予感だけをもちつつ、「魂の闇夜」と言える暗中模索のなかで結実した表現である。作品冒頭、水が重力に従って激しく落ちる滝の音に存在をかき消されるような眩暈の直中で、直線的で均質な時間と空間の揺らぎが見られる。
いっぽうヴェイユの思想では、「重力に同意して従順であること」のうちに美の閃光が見られる。この美の光は同時に、「社会的威信の剥奪」をも意味している。
社会から隔絶された場所で、重力に身をもって同意してゆく登山の場面を皮切りにした『杳子』では、精神の病を抱える人、その人を愛する人の双方が、自身もまた社会の偏見を内包していることを見逃さず、狂気と正気、あちら側とこちら側の境界に佇む垂直軸への方向性が見られる。
本発表では、ヴェイユが提起した様々なモチーフが、古井のテクストではどのようにあらわれており、またそれがわたしたちの日常にどう舞い降りうるのかを、円熟期の作品『槿あさがお』(1983)を遠景に置きつつ、『杳子』に焦点を当てて論じてみたい

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年3月3日 発行