単著

髙村峰生

接続された身体のメランコリー 〈フェイク〉と〈喪失〉の21世紀英米文化

青土社
2021年3月

書名に掲げられた「接続された身体」とは、さまざまな通信技術によってネットワークへと接続された、われわれの身体の今日的なありようを指している。そこにおいて、連続的であったはずの身体は多くの部分で非連続的な数字へと置き換えられ、また直接的な接触は──一見したところのポジティヴさをもって──少しずつ喪失されてゆく。本書は、「接触」が「接続」へと置換されてゆくこのような21世紀的状況を生きる10の作家・作品を対象とする批評的テクストの集成であり、それと同時に、「接続」の時代における「身体」なるものそれ自体のありようについての鋭利な批評となっている。

取り上げられるのは、クリストファー・ノーラン監督の映画『インセプション』に始まり、デヴィッド・ボウイやルー・リードのロック・ミュージック、そしてカズオ・イシグロやドン・デリーロの文学作品など、ジャンルに囚われることのない作家・作品の数々である。それぞれ異なる機会に異なるテーマで論じられたものであるが、いずれの論考にも筆者の豊かな知的・文化的記憶が光る。『インセプション』における落下の主題を論ずる際には、その導入に『不思議の国のアリス』における落下からマダム・ボヴァリーやレディ・チャタレーにおける「堕落」の主題までが召喚され、メディア的存在として生きたデヴィッド・ボウイに射すメディアの国アメリカの影を論ずるにあたっては、その遺作『★』(2015)に流れるエルヴィス・プレスリーの主演映画『フレーミングスター』(1960)の残影が、「イギリスのエルヴィスになる」ことを決意する少年ボウイの伝記的記憶と重ねながら語られる。はたまたドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』論──本書の印象的なタイトルはこの論考から採られている──においては、「接続された身体」の問題系を論ずる導入として、この作家の他作品における「メディア」の位置づけが周到に語られるとともに、サミュエル・ウェーバーらによるメディアの思考が簡潔に参照され、本題を論ずるための状況整理が必要十分なかたちで(いや、それがいかに困難であることか!)提供される。個別の対象を深く論じつつ、その置かれたパースペクティヴを鮮やかに示す論述の手つきは、この論考のみならず本書全体の美点であると言ってよいだろう。

「接続」の時代における「身体」のありようは、本書の掉尾を飾るデリーロ論、そしてコロナ禍のなか「自宅への流刑」を余儀なくされた私たちの姿をカミュとアルトーを参照しつつ描出する序章において、とりわけ詳細に、そしてクリティカルな視線のもとに論じられる。ZoomやTeamsの画面に並ぶ「話す頭」(37頁)──まさにTalking Heads!──と化しながら「接続」され続ける私たちとは、いったい何者なのか。そこで身体という残滓にはなにが見出されるのか。こうした現在的な問いへの独特の見解をもたらしているという点で、本書は高度な文化批評の実践であると同時に、卓越したメディア=身体論と言うべきものとなっている。個々の作家・作品への関心のみならず、メディアへの理論的関心からも広く読まれるべき一冊だと思う。

(福田貴成)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年10月25日 発行