研究ノート

ランシエールの自由間接話法、そしてドゥルーズ

鈴木亘

現代フランスの哲学者ジャック・ランシエールの文体的特徴として、自由間接話法(discours indirect libre, style indirect libre. 描出話法とも)の頻繁な使用が挙げられる。自由間接話法とは、引用句を用いて他者の言葉を伝える直接話法と、接続詞(フランス語なら例えばque)を用いて他者の言葉を話者の言葉で伝える間接話法の中間に位置づけられる話法ないし文体である。表記法にはいくつかのパターンがあるが、典型的なものとしては、que節を略して独立節として発話内容を記しつつ、人称や時制、叙法は間接話法と同じものを用いる方法がある。自由間接話法は人物の発言や思念をシームレスに地の文に紛れ込ませ、生き生きとした感情を付与させつつ、同時にその人物の存在感を地の文にくらませるような文体的効果を有する。ランシエールのテクストから実例を引いておこう。自由間接話法の部分をイタリック(日本語訳部分は下線)で示した。

De là l’étrange méthode par laquelle le Fondateur, entre autres folies, fait apprendre le dessin et la peinture. Il demande d’abord à l’élève de parler de ce qu’il va représenter. Soit un dessin à copier. Il sera dangereux de donner à lenfant des explications sur les mesures quil doit prendre avant de commencer son ouvrage. On en sait la raison: le risque que lenfant sente par là son incapacité. On se fiera donc à la volonté qua lenfant dimiter.

そういうわけで、始祖〔ジョゼフ・ジャコト〕は奇妙な学習・教育法による他の数々の気違いじみた行いの一環として、デッサンと絵画を学ばせた。彼はまず描こうとしているものについて話すよう生徒に要求する。仮に模写すべきデッサンだとしよう。取るべき処置について、作品を描き始める前に子供に説明を与えるのは危険である。理由は分かっている。そのせいで子供が自分の無力さを感じてしまう恐れがあるからだ。だから子供の模写しようという意志に任せることにしよう*1

*1 Jacques Rancière, Le maître ignorant, Fayard, 1987 (rééd. 10/18, 2004), p. 111.〔梶田裕・堀容子訳『無知な教師』法政大学出版局、2011年、98頁〕

ランシエールによる自由間接話法の多用については二次文献でたびたび指摘されてきた*2が、その使用に関しては彼自身も自覚的である。インタビューの書籍化『平等の方法』*3において、ランシエールはこの文体的戦略の意図について何度も言及しているのだ。本稿では以下、それを取り上げ、ランシエールが自由間接話法によって何を達成しようとしているのかを明確化する。

*2 James Swenson, “Style indirect libre”, Gabriel Rockhill and Philip Watts (eds.), Jacques Rancière: History, Politics, Aesthetics, Duke University Press, 2009, pp. 259-272; David Panagia, “Rancière’s Style”, Novel: A Forum on Fiction, Vol.47, No.2, 2014, pp. 284-300.
*3 Jacques Rancière, La méthode de légalité. Entretien avec Laurent Jeanpierre et Dork Zabunyan, Bayard, 2012.〔市田良彦・上尾真道・信友建志・箱田徹訳『平等の方法』航思社、2014.年〕以下、断りのない引用はこの文献からのもの。

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まずランシエールは、七月王政期の労働運動史を当時の労働者による書簡やパンフレットの資料から論じた『プロレタリアの夜』(1981)に言及する。自ら語る能力を持たないとみなされてきた労働者がその実主体的に語り、それによって被支配層という身分から解放されようとしていることを示すこの著作を書くにあたり、

私はヒエラルキー的関係を徹底的に避け、基本的に並列と位置ずらしで本を構成するようにしました。つまり、テクストを引用し、それをパラフレーズする注釈をつける、という風に。その注釈は元のテクストの位置をずらし、別の場面へと移動させ始めるものです。また注釈では名詞句を多く用いましたが、それは一種の自由間接話法であって、それにより——やりすぎないようにしましたが——フローベール風に段落の「ねじを外し」、次々に滑っていくようにしました。重要なのはもちろん滑らかさという形式的原理ではなく、平等なエクリチュールという原理です。つまり、説明する言説と説明される言説とのヒエラルキーを廃棄することであり、経験〔の記述〕と経験についての省察〔の記述〕とに同じテクスチャーを感じさせることです。経験と省察が、諸学問の境界や諸言説のヒエラルキーを横断するようにするのです。(61-62; 70-71)

ランシエールが目指したのは「平等なエクリチュール」である。そのためは、引用対象に裁断を下すのではなくあくまで「パラフレーズ」し、かつ別の文脈へといわば解放する引用方法であり、また文法上の主語を持たない「名詞句」の多用によって、それを語る主体の区別(ここでは労働者とランシエールの区別)を曖昧化させなければならない——つまり一種の「自由間接話法」である。それによって、引用され説明される労働者の言説とそれを説明する(大学人である)自らの文章とのヒエラルキー的関係は回避されるだろう。労働者は受動的に語られる存在に過ぎないのではなく、むしろ主体的・知性的に「省察」できる人間であることを明かす『プロレタリアの夜』のプロジェクトが、テクストのレベルでも実践されているのだ。

同様の実践は、19世紀前半の教育者ジョゼフ・ジャコトの思想を論じた『無知な教師』のエクリチュールにおいてもなされている。ジャコトのテクストをもとに、教師と生徒の知識の不平等を前提とする既存の教育モデルを批判し、むしろ知的能力の平等を前提とした「解放する教育」を論じたこの著作——それゆえ『プロレタリアの夜』と同型の問題意識に基づく——は、先に引いたように、ジャコトの思想を地の文にとけこませる自由間接話法に満ちている。語っているのが引用されるジャコトなのか、引用しているランシエールなのか曖昧な仕方で書くことによって、複数の声がひとつの文中で混ぜ合わされる。その方法もまた、教師と生徒のヒエラルキー的関係からの生徒の解放を論じる『無知な教師』の趣旨のパフォーマティヴな実践であるだろう。

さらにランシエールは、解放の実践である自由間接話法の手法は、「注釈」と「物語」、「現実」と「フィクション」といった異なる言説領域を錯綜させ衝突させることでもあるとする。『無知な教師』で言えば、ジャコトの現実のテクストを引き、その注釈を行っているのか、それともランシエールの創作したフィクションなのかが区別不可能になるのだ。

複数の声を周到に混ぜ合わせた『無知な教師』のエクリチュールを考えるならば、私のそのテクストの強みであろうと思えるのは、まさしく、物語と注釈を分けることがほとんど不可能だということ、実際の物事についての話として提示されているものと、その現実性についての考察や、完全に私の創作かもしれないフィクションと区別することがほとんど不可能だということです。(126; 139)

このように複数の言説の次元を交差させ衝突させる方法*4が重要なのは、ランシエールにとってそれが、自身の哲学的原則それ自体に関わるものだからである。

*4 『無知な教師』邦訳のあとがきでもすでに、この著作で多用される自由間接話法によって、ランシエールの表現なのかジャコトの表現なのかが「判別不可能」になること、また「物語的言説」と「理論的言説」の境界も無化することが、的確に指摘されている。

私の原則は一般的に言って、他人の言説に入っていくということでした。哲学概念というもの一般は使おうとはしませんでした。使うとすれば、そうした概念がカントの言語、プラトンの言語、ヘーゲルの言語といったものを規定している場合です。それら哲学概念自体も出来事の布置をなしている場合にです。そこから私が可能な限り試みるのは、無差別の平面を構築することです。その平面上で、物語のように見えるものから注釈のように見えるものへ、あるいは哲学者の使う語からあらゆる人が使う語へと、移ることができるのです。哲学者たちが語り手となって彼ら自身が言説の諸形式の間の仲立ちを行うような瞬間を、私は何度となく利用してきました。(146; 160-161)

二段階に分けて敷衍しよう。まずランシエールは特定の哲学者のテクストを離れて存在しうるような哲学概念によって議論するのではなく、全体や一部分、一節が何らかの「出来事の布置」の記述となっているようなテクストに可能性を見ている。つまり概念を提示し、それを論証するものとしてのテクストではなく、哲学的テクストではあるが、それ自体に強度を有し、そこから固有の政治的・思想的意義を引き出すことができるような描写や物語である(ランシエールはそうしたものをしばしば「シーン(場面、舞台)」と呼んでいる)。次に、そのような哲学的テクストの扱い方を前提として、ランシエールは自身の記述においては「他人の言説に入っていく」ことを旨としていたという。つまり自由間接話法を使うことである。それによって、哲学的テクストを「無差別の平面」とすることが目指される。そこで哲学的概念や言説は哲学者の占有物ではなく、むしろ哲学者とは、そうした言説を「物語」の領域へとジャンル越境させたり、あらゆる人間がそうした言説を用いることができるための「仲立ち」にすぎない。そこでは言説形式のヒエラルキー的区別も、哲学者と一般人のヒエラルキー的区別も存在しない。自由間接話法によって哲学的言説を語る特権的主体としての哲学者から哲学的言説を解き放ち、それにより哲学的言説とその他の言説、哲学者とその他の人間との差異を解消させるのだ。

以上をまとめておこう。ランシエールの自由間接話法は、書く主体と書かれる対象、引用主体と引用される対象とのヒエラルキー的区別の解消をもたらすものである。それにより、語る能力や知的能力において劣後するとみなされていた労働者・生徒を、そうした能力の平等を原理に据えることで解放するというランシエールの目論みが、パフォーマティヴに実践される。さらにその実践は、哲学という言説形式や哲学者という存在の特権性をも溶解させるものでもある。ランシエールが属していると建前上はみなされうる立場そのものが、ランシエール自身によって解体されるのだ。自由間接話法が与えるのは総じて、抵抗と革命の政治的可能性なのである。

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哲学的方法にして政治的実践としての自由間接話法。ここでジル・ドゥルーズが想起される。補論的にそれに触れておこう。アラン・バディウが指摘するように、ドゥルーズの哲学的テクストを貫くのは「自由間接話法の恒常的な使用」であり、それは論及されるテクストの主張とドゥルーズ自身のテーゼとの区別を「決定不可能」にする*5。またそれを承けて國分功一郎が解釈するように、ドゥルーズの自由間接話法は彼にとって哲学研究の核心にある。というのも哲学的テクストにはそれを書いた哲学者自身も自覚・明確化していない、しかし同時に本質的な思考や問い、概念が伏在しているのであって、哲学者の意識に分け入ってそれらを切り出し明らかにする方法こそが、自由間接話法だからである*6。さらに忘れてはならないのは、ドゥルーズ自身がその映画論において、ケベックの漁村に取材したピエール・ペローのドキュメンタリー映画を自由間接話法と関係づけている点である。すなわちそこにおいて、支配者や植民者に対する民衆の抵抗、そして来たるべき新たな民衆の創出という政治的実践が、自由間接話法によって可能になるというのだ。

*5 Alain Badiou, Deleuze : La clameur de l’Etre, Hachette, 1997, p. 25.〔鈴木創士訳『ドゥルーズ——存在の喧騒』河出書房新社、1998年、24頁〕
*6 國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』岩波書店、2013年、29頁

〔映画は〕実在の登場人物の生成変化を捉えなければならない。その登場人物は自ら「フィクション化」し始め、「伝説を作る現行犯」へと踏み出し、そうして自らの民衆の創出へと寄与するとき、生成変化する。登場人物は前後に分割することはできず、ある状態から別の状態への移行のうちで一体となっているのである。登場人物は、決してフィクションになることなく作り話をしだすときに、自分自身が他者となる。そして映画作家の方も、作り話=仮構作用fabulationによって自身のフィクションをそっくり置き換える実在の人物たちにこのように「仲介される」とき、他者になるのである。登場人物と映画作家の両者は民衆を創出するということにおいて通じ合う*7

*7 Gilles Deleuze, Cinéma 2. Limage-temps, Minuit, 1985, p. 96-97.〔宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一郎・大原理志・岡村民夫訳『シネマ2——時間イメージ』法政大学出版局、2006年、210-211頁〕

ペローがカメラに収めているのは登場人物の「作り話fabulation」であったり、既に日常的なものとしては失われていた伝統的な漁の再現である。それらは映画のために作られたものという意味では真実ではなく、むしろ嘘、「伝説」であろう。だがドゥルーズは、登場人物である民衆のこうした作り話、伝説化に、支配者による一方的な民衆の「同一性」への還元に対抗する、「他者」への「生成変化」の運動を見て取る。被支配者である民衆は作り話によって、支配層により規定されたものとしてのアイデンティティにとっての他なるものへと変容するのである。そしてそれをカメラに収めるペローはここで、それ自体もまたアイデンティファイされた映画作家の身分に、つまり支配層の代弁者の身分にとどまってはいない。むしろ彼もまた登場人物の「仲介」によって、その立場から他なるものへと生成変化し、新たな自己を見出すのだ。このとき映画作家のカメラが立つのは、外から登場人物を捉える客観的視点でも、登場人物の視点に同一化する主観的視点でもない。映画作家は登場人物と「通じ合い」、登場人物の生成変化を捉えつつ自らもまたその生成変化へと引き入れられ、登場人物の声を介して自身の声を伝えるようになる。それは自由間接話法、「ケベックの自由間接話法」*8の営みにほかならない。

*8 Ibid., p. 97.〔同書、211頁〕

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以上のように、ランシエールとドゥルーズは自由間接話法に政治的可能性を見ている点で結び合う。この結び合いを確認した上で、次なる課題につなげたい。その課題とは、動物や非生物にまで生成変化の範疇が広がるドゥルーズの思想に照らしたとき、あくまで人間の領域に限定して政治を論じるランシエールは人間中心主義的に見えるが、それをいかに肯定的に捉え直すか、というものである。

鈴木亘(東京大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年6月30日 発行