単著

清水知子

ディズニーと動物 王国の魔法をとく

筑摩書房
2021年2月

疎外される「動物」、仮面としての「動物」

本書は、ディズニー映画における「動物」の描き方や扱いの変遷を追いながら、「動物」とその写し鏡のような存在である人間の表象がどのような意味づけをなされてきたのかについて、初期のミッキー・マウスから『ズートピア』までの多くの事例を通じて解き明かした意欲的な書籍である。文化史的視点からディズニーのアニメーションの意義を明らかにする書籍やディズニーランドとアメリカ文化の関係性を論じる書籍は今までも上梓されてきたが、本書『ディズニーと「動物」』ではディズニーのアニメーションとパークの双方において多様な役割を付与されている「動物」に焦点を当てている点が白眉である。

本書において私が興味を惹かれた点は二点ある。一点目は、ディズニーは現代において文化帝国主義の最先鋒と見なされることも多いが、初期の段階では「疎外をめぐる問い」と関わっていたという著者の見立てである。私の理解とは正反対の状況からディズニーの表現が始まったとという見解に、なぜそのような状況になったのだろうかと強く関心を引かれた。

具体的には、フランシス・ベーコンとウォルト・ディズニーの提示する社会の疎外状態に共通点を見出した美術史家、ジョン・バージャーの指摘を受け、著者は「ディズニーの世界は、わたしたちの社会における疎外をめぐる問いと深く関わっているのだ」(15頁)との見解を示す。加えて「初期のウォルト・ディズニーのアニメーションでは、少女、子ども、動物、非生物、機械という、「人間」を規定してきた西欧の進化をめぐる歴史の物語において周縁的/攪乱的位置を占めてきたものたち、いわば、理性的で合理的な文明社会の陰画としての死の世界に追いやられたものたちの存在が重要なカギを握っている。(…)人工物と自然の境界を越え、あるいは逆に生物がモノ化する、自然と技術との可塑的で遊戯的なビジョンが呈示されていた」(15-16頁)と指摘する。モノの生物化―生物のモノ化のような、生物と人工物の融合あるいは越境の表象は、第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて、ダダやシュルレアリスムでも多く見られる。戦争や社会への意識を強く持って制作した作家の多いダダやシュルレアリスムに対し、ウォルト・ディズニーや初期に彼を支えた周囲のアニメーターは、どちらかといえば個人的経験を制作に活かしているという理解だったため、ディズニーの表象について疎外、とりわけ西欧中心主義や合理主義から取りこぼされていった何物かへの視点の存在を知れたことで、20世紀前半における文化表象をめぐる考えを更新できた。渡米後のサルバドール・ダリがウォルト・ディズニーと親交を深め、『ディスティノ』というアニメーションを共同制作していたことも、疎外に関して何かしらの思惑を共有する部分があったのかもしれないと想起した(『ディスティノ』は両者の生前には完成しなかったが)。また、初期のアニメーションが西洋中心主義の価値観を変化させる可能性を秘めながらそうはなりきらなかった点が、現実的な問題に相対しながら変化せざるをえなかったビジネス的困難を感じさせる点でもあり、ウォルトという個人の手を離れ大企業へと成長したディズニーという会社の道程を感じさせる。特に、著者も示すように、ボブ・アイガーが主導権を握る1990年代以降のディズニーは世界企業としての人種・性別などへのポリティカル・コレクトネスへの目配せがされており、現代の多文化主義を忠実に表象し、教条的ですらある。そして、本書の最後に取り上げられる『ズートピア』ではまさに、一見全ての種族が包摂され社会生活が営まれているように見えるが、その内部には深い差別が根付いているという、現代社会の状況を示唆する辛辣な視線が組み込まれている。ディズニーが築いてきたアニメーションの歴史をひとつの文脈とし、盛大にその流れ(鑑賞者の先入観)をひっくり返して自己反省的な目線を投げかける『ズートピア』は、「動物」を扱うアニメーションのひとつの到達点であろう。そして、初期の段階から疎外という裏テーマを保持していたと考えれば、ディズニーのアニメーションだからこそここまでラディカルな表現が可能だったのだと納得した。

二点目は、日本では論じられることの少ない、ディズニーのアニメーションとプロパガンダとの関わりについて論じている箇所である。本書では、第6章「ネズミは踊り、ドイツは笑う──戦争とプロパガンダ」において中心的に議論されている。この章ではディズニーアニメーションのプロパガンダについて、ナチスと南米友好の事例が取り上げられている。前者に関しては、『総統の顔』(1943)という短編アニメーションにおいて、ナチス(人間)に雇われ労働させられるドナルド・ダックのイメージに言及している(184-187頁)。このアニメーションでは、ドナルドはナチランドなる架空の国(言うまでもなくドイツの比喩である)での労働で疲弊するが、それが実は悪夢で、起きると自由の女神像に気づきアメリカの象徴とも言えるその像を抱きしめる。この作品におけるナチランドとアメリカの描写について著者は「注目すべきは、ここで表現される一つ一つの光景が、ナチランドとの対比によって逆説的に「自由」に満ちた民主主義国としてのアメリカを際立たせるつくりになっていることである」(186頁)と指摘する。すなわち、このアニメーションにおけるプロパガンダとしての内実は、「ナチスに対するたんなる嘲笑と風刺」(186頁)といった反ナチスの態度と、アメリカの自由への賛美という自国を賞賛する態度の二面があるということだ。一つのアニメーション作品において、こうした二つのプロパガンダを忍び込ませるのは大変強力で効果的な手法だったに違いない。

後者の南米友好のプロパガンダとして挙げられる作品は、前者同様ドナルド・ダックを主役とする『三人の騎士』を含む三作のアニメーションである。しかしこれらの例は、前者のナチスの例よりも少し恐ろしい。というのも、こちらは「ルーズベルト大統領がとった対ラテンアメリカ友好制作と知られる「善隣政策」の一環として、対外的に「デモクラシーと友好」のメッセージを伝える」(188頁)目的で、言い換えれば表面上はポジティブな意図で制作されたものだからだ。だが、著者が示すように「これらの作品では、ラテンアメリカは、音楽や習俗を通じた典型的なラテン文化を素材にして「真正」でエキゾチックなスペクタクルとしてパッケージ化されている」(189頁)。このエキゾチックな視点は、女性化されたラテンアメリカというステレオタイプな表象にも現出しており、結果としてラテンアメリカ文化の記号化を後押ししているように見える。興味深いのは、これらの作品でドナルドがラテンアメリカの他者性をうまく回避し友好的姿勢を見せているにもかかわらず、同時期にディズニーが米大陸間問題調整局のために制作した18本の衛生教育映画ではラテンアメリカの人々の身体が感染症の原因とみなされ、「管理と規制」(191頁)の対象と位置付けられていることだ。ラテンアメリカに対する1940年代アメリカの態度の二重性がディズニー映画によって示されていることは大変興味深く、また同時期アメリカのプロパガンダにおけるディズニー映画の有効性もうかがえる。プロパガンダにおいてドナルドというキャラクターが利用されたのは、ドナルドが彼の背後にいる人間の思惑をうまく覆い隠すことのできる動物だからなのだろうと思わずにはいられない。

以上のように本書は、ディズニーのアニメーションにおける「動物」が、人間に疎外されたものの表象だけでなく、人間の腹心を隠す仮面としての存在をも仮託されてきた経緯を詳らかにし、結果として人間に都合よく利用される「動物」の姿を映しだしている。本書の読了後は、ディズニーのキャラクターを見る視点が変わるに違いない。

利根川由奈

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年6月30日 発行