研究ノート 白井 史人

思考のアルヒーフ/アルヒーフの思考
――アルノルト・シェーンベルク・センター、ゲルトルート・コレクション調査報告
白井 史人

ヴィーン市内、オットー・ヴァーグナー(1841-1918)設計のカールスプラッツ駅からリング通り沿いに徒歩10分ほどのシュヴァルツェンベルク広場、その一角にアルノルト・シェーンベルク・センターが立っている(図1)。作曲家アルノルト・シェーンベルク(1874~1951年)は、ヴィーンに生まれ、ベルリンとの間を往復しながら、後期ロマン派の様式、無調、十二音技法へと伝統的なヨーロッパの音楽語法を革新していった。ユダヤ人であり、ナチス台頭後はアメリカへ亡命、再渡欧することなく亡命先のロサンゼルスで生涯を閉じた。遺稿はロサンゼルスのシェーンベルク研究所(Arnold Schoenberg Institute)に長らく保管されていたが、1998年、故郷・ヴィーンの当センターへと移された。その後、自筆譜や書簡にのみならず、写真、絵画作品、日曜大工の記録などの一次資料の収集・整理が行われ、当センターはシェーンベルクの思考の航跡を包括的に辿ることができる貴重な場として発展し続けている(http://www.schoenberg.at/)。

シェーンベルクと映画との関連を創作/受容の両面から扱う博士論文を執筆中の筆者は、2011年の3月6日~26日にかけて当センターで資料調査を行った。当センターの特別コレクションである、第二の妻・ゲルトルート・シェーンベルク(1898-1967)関連資料(以下、ゲルトルート・コレクション)を閲覧するのが主たる目的であった。

ゲルトルートは、一幕オペラ《今日から明日へ》(1928/29)の台本執筆者としてシェーンベルクの創作史にひっそりと名をとどめている。華やかな男性遍歴もなく、饒舌な日記も残しておらず、画家ゲルストルと浮名を流してヴィーンの芸術界を騒がせた最初の妻・マティルデ(1877-1923)の影に隠れてきた。そこで、まずゲルトルートの略歴を簡単に紹介しておこう。

1898年、カールスバートの名家に生まれた彼女の本名は、ゲルトルート・コーリッシュ。ヴィーン大学で化学を学び、ラインハルトの演劇学校へも通うなど芸術への関心も高かった。父はカールスバートとヴィーンで医業を営み、シェーンベルクの娘・ヌーリアの回想によればフロイトとも親交があったと言う ※1 。シェーンベルクの弟子であり、彼の作品の初演も多く手掛けたヴァイオリン奏者ルドルフ・コーリッシュを兄に持つ。シェーンベルクが組織した「私的演奏協会」などを通して知り合ったと見られ、1924年、先妻の死後一年を満たぬうちに再婚した。

突然の再婚に眉をひそめる周囲をよそに、夫婦仲は睦まじかったようだ。テニスを共通の趣味とし、ヴィーンからベルリンへの転居、ヨーロッパ各地の療養滞在、アメリカへの亡命と各地を転々とする生活のなかで、ヌーリア、ロナルド、ローレンスの3人の子をもうけた。夫の死後は自筆譜の散逸を回避し、シェーンベルク研究所の設立や全集の編纂に力を尽くした。《モーゼとアロン》の初演でのリハーサルへの参加や、ダルムシュタットでの講演への参加などの記録も残り、夫の音楽の“正統な”受容に余生を捧げたと言える。映画へのシェーンベルク作品の安易な転用を拒否する書簡も残る一方で、研究者に広く門戸を開くことには協力を惜しまなかったようだ。現在のセンターの厳格かつオープンな理念には、こうした夫人の遺志が脈々と受け継がれている。

筆者のゲルトルートへの関心が高まったのは、当センターのゲルトルートの執筆による未発表シナリオを目にしたのがきっかけである。

シェーンベルクと映画との関係を示唆するエピソードは、先行研究の範囲では断片的なものにとどまっていた。1913年の《幸福な手》の映画を用いた上演計画や、ヴェーベルンに書き送ったチャップリン『黄金狂時代』の絶賛、27年のトーキー映画導入期にその将来性を「トーキー映画は新しい自律的な表現手段である」とまで称えたテクスト、《映画の一場面のための伴奏音楽》(1930)、ハリウッドでの映画『大地』の音楽作曲計画(1935)など、何らかの形で映画との関わりは継続している。しかし、作曲家自身の日記類はなく、断片的な関心を説明してくれる一次資料は少なかった。

そうしたなか、当センターのアイケ・フェス氏が紹介してくれたのが、妻・ゲルトルートが執筆した映画とも演劇とも判断しがたい台本だった。手書きやタイプ打ちによる台本には、夫による書き込みも散見される。20年代にシェーンベルクの映画への関心が再燃したことは既に分かっていたが、その要因としてはそれまではトーキー映画の登場という技術的条件がもっぱら考慮されていた。しかし、ふと、この時期に再婚した若き妻ゲルトルートの存在は、シェーンベルクの創作に何らかの影響を与えなかっただろうか、また夫人は20年代のベルリンの生活に関する何らかの記録を残さなかっただろうか、という疑問が頭をかすめたのである。そこで、台本、カレンダー帳、走り書きのメモも含むコレクションのなかから、シェーンベルクの20年代以降の生活と映画との関わりを示す手掛かりを調査することになった。

特に興味深かったものの一つが、夫人が結婚前から書き続けていたカレンダー帳である(図2 ※2 )。1912年(夫人は14歳)にさかのぼる最初の書き込み「かわいい日記! 一年間の生活を後から簡単に振り返るために、あなたにいろいろと書き込むことにしました。下らない書き込みを、誰も読まないと良いな」には、その口調にあどけなさが残る。夫が死ぬ1951年まで40年近く続けられたこの手帳の一冊ごとの記述量さほど多くはないが、旅行や来客の記録、家計簿など生活の一端を伝えている。結婚後は、夫のスケジュールが中心であり、シェーンベルク自身の筆跡による書き込みもある。

ベルリンへ転居したばかりの1926年には、映画観賞や、同じベルリンで教鞭を執っていた作曲家フランツ・シュレーカー(1878-1934)との交友関係を裏付ける記述も多く見られる。1926年2月7月にはシュレーカーと映画館に訪れたようだ。また、《今日から明日へ》が初演された1930年のカレンダー帳には、リハーサルの際のものと思われる舞台スケッチも見られる(図3)。台本執筆者として公演に積極的に関わったことが分かる。

こうした情報的価値に加え、毎年、表紙の裏に書きつけられた夫からのメッセージは、両者の関係を良く示している。例えば夫が71歳を迎えた1945年のものは以下の通り。

愛する妻よ! 21回目の新年だね――いつも新鮮だ――初めての時のように。 夫・アルノルト(1945年)

しかし、翌年は―

我が妻よ、今年はちょっと言い方を変えなければならそうだ。君のためにこそ、僕の身体が良くなることを祈るよ。それが君を一番楽にするだろうから。 夫・アルノルト(1946年)

亡命後は、闘病に関するメモが大部分を占める。しかし、看病と並行して、夫人はラジオ番組企画案や映画・演劇のシナリオも執筆していた。

シナリオには自伝的な内容が多いが、ラジオ番組企画案のなかには映画との関連を示す「映画を作ろう!」と題されたタイプ打ち原稿も含まれている ※3 。専門家による解説と、視聴者の投稿によって映画シナリオを製作していく単純な内容だが、演劇を学んだ経験を生かした啓蒙活動は、当時のシェーンベルクの教育実践とも重なる。シェーンベルク自身も、映画製作を見据えた音響技師の育成プログラム案を残した(「音響技師のための学校」)。これらの計画は必ずしも実現したわけではないが、自らの作品への無理解や、弟子の音楽的能力の乏しさに苦悩した孤独な晩年、というイメージとは異なるアメリカでの積極的な活動の一端を垣間見せてくれる ※4

上記のような資料は、作品分析を重視する立場からは瑣末なものに感じられるかもしれない。個人史や技術史とは独立した“音楽”というシステムの自律的な進歩を信じ、墨守したのが当のシェーンベルクだったのではないか、という批判も想定される。

しかし、そのシェーンベルクでさえも、ラジオや映画らの同時代メディアの影響を無視できず、後続世代の活動とは距離をとりながら、自身でも何らかの形で応答することを模索し続けていた。その葛藤をたどり、離散する点と点にとどまっていたシェーンベルクと映画との関連を、複数の線の交差点として配置し直すことが筆者の研究の目的である。そのためには、彼の活動の背景にあるモノとヒトのネットワークを明らかにすることが必要となる。ゲルトルート・コレクションに含まれる様々な資料は、夫人を含めた20年代以降の映画関係者との関わりが、映画との関連を示す断片的な創作・執筆の背景にあることを示唆している。また、拡大しつづける当センター所蔵資料には、いまだ多くの調査の余地がある。アルヒーフの雑多な資料の奥に埋もれた思考、いやアルヒーフ自身の思考に虚心坦懐に耳を傾けること――そんな素朴な作業が、筆者の研究の最初の課題である。

白井 史人(東京大学)

[脚注]

※1 Nuria Schoenberg Nono. 2002. "Gertrud Bertha Kolish Schoenberg." In Schoenberg & Nono: A Birthday Offering to Nuria on May 7, 2002. Firenze: Leo.S.Olschki.

※2 一連の日記の所蔵情報はGertrud Collection, Diary, 47.8。また、カレンダー帳の解読にあたっては、ヌーリア・シェーンベルク・ノーノによる手帳の写しが大きな助けとなった。写真は全て筆者撮影。

※3 所蔵情報 Gertrud Collection, Text Manuscripts, 47.47, Radio Show Proposal,GS XA25。

※4 2011年、シェーンベルクの亡命期の活動のイメージを一新する以下の著書も上梓された。Feisst, Sabine. 2011. Schoenberg's New World: The American Years. New York: Oxford UP.

図1

図2

図3