第6回研究発表集会報告 全体パネル

シンポジウム報告|全体パネル「災厄(カタストロフ)の記録と表象──3・11をめぐって|報告:林田新」

2011年11月12日(土) 16:00―18:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1

中谷礼仁(早稲田大学)
畠山直哉(写真家)
【司会】佐藤守弘(京都精華大学)

2011年3月11日に起こった東日本大震災以降、私たちは災厄に関する様々な表象の洪水にさらされている。本シンポジウム「災厄(カタストロフ)の記録と表象──3・11をめぐって」では、佐藤守弘氏(京都精華大学)を司会に、独特な形で災厄の記録や表象と関わってきた中谷礼仁氏(早稲田大学)と畠山直哉氏(写真家)を向かえ、災厄のイメージをめぐる議論が行われた。

「今日は愛の話をします」という一言から始まった中谷氏の発表は、ボーパール――1984年12月2日から3日未明に起きた化学工場事故によって有毒ガスがまき散らされ、その結果多くの人命が失われた都市――や東日本大震災によって甚大なる被害を被った東北で自身が行ってきた一年間の活動経験を報告するという形で行われた。そこで主題となっていたのが、「わかり合えないことをいかにわかり合うか」という問題、すなわち、自身がその土地や出来事に対して当事者ではない場合に、そこに関わることの客観性をいかにして担保するのか、という問いであった。この問いに取り組むにあたり、まず中谷氏が言及したのが、広島の悲惨さを記録する映画を撮影するためにやってきたフランス人女性と、広島出身の日本人男性の情事を描いた『Hiroshima, mon amour』(邦題:『24時間の情事』、監督:アラン・レネ監督、脚本:マルグリット・デュラス)であった。

冒頭で男と女が情事の最中に交わし合う会話――「すべてを見た」と言う女、「きみはなにも見なかった」と言う男――が印象的な本作について、中谷氏はとりわけ、「あなたの名前は広島?」「そう、君の名前はヌベール」という、ラスト・シーンにおいてフランス人女性と日本人男性が交わす謎めいた会話に注目する。彼女は第二次大戦中に、ドイツ占領下のヌベールの地において敵兵であるドイツ人と激しい恋に落ち、迫害を受けた癒し難い過去を抱いていた。中谷氏はこのラスト・シーンについて、フランス人女性の身体を媒介にしてヌベールと広島という異なった時空が断続的に繋がり(それを中谷氏は「共同的身体の発動」と呼ぶ)、それを契機として両者は悲劇の傷が共有不能であることを相互に認識するに至り、そこに安堵の空間が出現していると解釈する。いわば、このラスト・シーンでは、冒頭で提示される「わかり合えない」という否定が、その共有不能性を互いに認め合うことによって肯定に転じているのである。こうした考えを導き手として、ボーパールや東北において、土地そのものを歴史が積時的に刻み込まれたアーカイブとみなし、それを介してその土地と繋がろうとする中谷氏の試みが報告された。

続く畠山氏の発表は、東京都写真美術館で開催された個展「Natural Stories:ナチュラル・ストーリーズ」(会期:2011年10月1日~12月4日)に出展した写真、とりわけ、畠山氏の出生の地であり、今回の地震とそれに伴う大津波によって多大な被害を被った陸前高田を撮影した写真をスクリーンに投影し、それについて論じるという形で進められた。とはいえ、災厄の写真を前にして紡がれる畠山氏の言葉は、多くのアーティスト・トークのような、コンセプトや構造を説明することで自作の理解を促すといったものではなく、かといって、多くのジャーナリズムのような、写真を通して被災地の様子を知らせ、そこでどのような出来事が生じたのかについて知らしめるといったものとも異なっていた。

まず提示されたのが、畠山氏が、震災によって破壊され瓦礫と化した陸前高田で撮影した60枚の写真であった。これらの写真をスクリーンに投影しながら畠山氏は言葉を紡いでいく。「この車は中学生の時の英語の先生が大切に乗っていた車です」、「ここでパチンコをしたことがある」、「これは80年代に陸前高田がリゾート開発を行った際に作った水門です」、「ここが有名な高田松原です。どこに海岸線があったのかもわからないくらい、砂浜ごとなくなってしまった」、「ここに建物が建っていたことを思い出すのは困難だ」、「ここは僕の家の畑に通じる道です」といったように。その後に提示されたのが、2002年から2010年にかけて畠山氏が、陸前高田に帰るたびに何気なく撮影していた60枚の写真だった。「これはうちの前で撮った写真です」、「これはさっき見た(震災後の写真に写っていた)杉ですね」、「喧嘩七夕、お祭りの写真です」、「奥に写っている緑のバンド(帯)が高田松原で、横に水門があります」、「さっき同じ構図の写真がありました。かつてはこのように家が沢山建っていました」、「これがうちの畑の様子です」、「この人のお父さんは亡くなりました」。

私たちが目にした一枚一枚の写真は、ともすれば、被災地を写した多くのジャーナリスティックな写真と形式的には変わらないのかもしれない。事実、展覧会に出展されたこれらの写真に関して、そうした議論が生じていたという。しかし、震災後と震災前という、異なった時間に撮影された二つ写真群を連続して目の当たりにすることによって、かつてあった日常が現在においてもはや決定的に失われてしまったこと、それがもはや写真の中にしか存在しないということがまざまざと見せつけられるとともに、畠山氏から発せられる経験に裏打ちされた生々しい肉声がそこに添えられることで、写真は新たな意味合いを獲得し始める。しかし、その一方で、新たな意味合いというものが、あくまでも撮影者の個人的な経験に根ざしたものであるがゆえに、撮影者と私たちの間における経験の共有不能性が際立たされていたこともまた事実なのではないだろうか。写真に対してどれだけ言葉が添えられようとも、それが個人的な経験に根ざしたものである以上、私たちはそれを共有し理解することから根本的な意味で遠ざかって行く。事実、畠山氏は話の冒頭で、現場に身を置き撮影を行う写真家と、写真を客観的・分析的に語ることを常とする研究者(=聴衆)との違いを強調していた。その意味で畠山氏は、自身と私たち観衆、あるいは震災と当事者ではない多くの人々との間に横たわる溝を、意図的に前景化しようとしていたのかもしれない。こうした溝は、これまでの畠山氏の作品の中に陸前高田の写真を位置付けそこに一貫したコンセプトや姿勢を説明し理解したところで埋まることはないだろう。そこでは、「わかり合えないことをいかにわかり合うか」という中谷氏が提起した問題こそが私たちに突きつけられていたのではないだろうか。

林田新(同志社大学)

【パネル概要】

「記録」は常に未来からの視点を前提としている。そこに見える光景は過去で
あっても、写真自体は延々と未来に運ばれる舟のようなものだ。(畠山直哉)

多くの事件や災害と同じように、あるいはそれらとは比べものにならないほどに、東日本大震災は、膨大なイメージが生み出される現場ともなった。そしてそれらのイメージは、速報性や迫真性が重視される報道写真やテレビのニュース映像などばかりではないということも、徐々に明らかになってきている。表象文化論学会・第六回研究発表集会の全体パネルでは、まったく異なる立場から、しかしいずれもジャーナリスティックな姿勢とは無縁の方法論により、被災地の記録を実践するお二方を迎え、問題を提起していただく。陸前高田出身の写真家・畠山直哉氏は、震災直後にオートバイで現地に入り、瓦礫の荒野を撮影する。東京都写真美術館で開催中の個展『ナチュラル・ストーリーズ』にも出品されているそれらの写真を、畠山氏は、「誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて」撮影するのだと語る。また建築史家の中谷礼仁氏は、2011年初頭、インドのボーパールに赴き、重大な公害事故を起こした工場跡地での、GPS内蔵のデジタルカメラを駆使した記録の試みを行なった。この経験を踏まえて震災後の東北に入り、かねてからの「古凡村」調査を新たに展開させる中谷氏は、環境そのものを人間のアーカイヴとしてみる見方を提案する。両氏の議論は、必ずしも当事者とは限らない私たちが、災厄のイメージを前にして、いかなる態度をとるべきなのかを問いかけることになるだろう。