PRE・face

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「思考の同期性」を描き出す
宮﨑裕助

まったく文脈も、関心も、来歴も、資質も異なる者同士が、あらかじめ示し合わせていたかのように、まったく同じことを、同じ瞬間に考えていた、というようなことがある。といっても、相槌を打ちたくなるような意見の一致、というのではなく、いわば、思考自体が一瞬同期するような、いわく言いがたい感触のことである。「思考の同期性」とでも言うべきようなものが、確かに存在する。

人文系の学問の研究は本質的に孤独な営みだ。同じような領域を専門とする者のあいだでも、少し話をするとまったく考え方が違っていたり、全然言いたいことが通じなかったりして、その距たりに落胆させられることも少なくない。問いを突き詰めれば突き詰めるほど、そうしたディスコミュニケーションが生ずることが経験的にわかってくる。誤解を招く言い方かもしれないが、私自身、学会や研究会での対話や討議の場で、なにか根本的に新しい知見が得られるなどという期待をはじめからもっていない。

不遜にもそのように考える者が、にもかかわらず、学会の企画委員という役に就き、シンポジウムやパネルの企画立案を取り仕切っている。はなはだ不適切、とお叱りを受けそうだが、いざ関わってみると回を重ねるごとに実感するのは、学会のなかで討論や対話が繰り広げられるシンポジウムやパネルの場が、実のところ、たんなる意見一致を目指した意思疎通やコンセンサスの形成を主目的としているわけではない、ということだ。

議論が噛み合わないことはこの種の場につきものだが、実際には、思い通りのコミュニケーションができたかどうかがその場の成否をなすわけではない。もちろんコミュニケーションが円滑に行われ、丁々発止の議論で盛り上がればそれはそれで結構なことだ。しかし、そうした場にあってそれ以上に重要なのは、たんなる意思伝達のコミュニケーションを超えた、ディスコミュニケーションの交感と言うべきものが、言葉の端々に、その調子、身ぶり、表情、沈黙にすら含まれるということである。齟齬し合うにみえた複数の要素が同じひとつの場で、ふと、一種の「同期性」と言いたくなるような共振関係に入るのである。

学会の企画では、シンポジウムやパネルのテーマ選び・人選・出演交渉は、いつも悩みの種であり、思惑通りに事が運ばないことも多い。先日行われた研究発表集会、中谷礼仁・畠山直哉両氏をお迎えしたシンポジウムでは準備不足がたたり、直前までプログラムが確定せず、はたしてうまくいくのか、まったく確信がもてなかった。ところが、いざ蓋を開けてみると、会場に収まりきれないほどの聴衆の参加に恵まれ、熱気に満ちた「交感」の場のただなかで、震災後の記憶と記録のあり方をめぐる興味深いお話を伺うことができた。まさにこのお二人に来ていただくこと以外にはありえなかったと確信できる手応えを感じる機会となった。

私自身も司会でかかわった大橋完太郎さんの著書『ディドロの唯物論』をめぐる書評パネルのほうは、事前に深い考えもなくどちらかというと成り行きで決まったもので(失礼!)、年代も関心もあまり違わない者同士、ざっくばらんなやりとりができれば、と気楽に構えていた。このパネル、本書を起点として「新たな啓蒙」というテーマでディドロの思想の可能性を探るという趣旨だったのだが、「啓蒙」という古色蒼然たる主題が、今回初めて学会に参加いただいた田口卓臣さん、最近活躍目覚ましい國分功一郎さんの熱い語りのおかげもあって、本書の提唱するディドロ独特の「唯物論」の名のもと、さまざまに変奏されて「新たな啓蒙」の可能性を垣間見ることができた。私自身そのやりとりのなかで生まれた思わぬ「同期性」から、深く考えさせられたのだった(なお、その反響の一端として、佐藤良明さんのブログの記事をぜひ読まれたい)。

本書の主要テーマのひとつは「群れ」であった。この「群れ」から、都会の人混みや、集団をなす烏合の衆のようなイメージを浮かべるとすれば、これは人文学が強いる本質的な孤独からもっとも遠い概念とみえるかもしれない。しかし本書がディドロの思考から問うているのは、たとえば社会学や集団心理学的な意味でいう「群衆(foule)」ではなく、動物たちが一種の生態学的意味で形成するような「群れ(troupeau)」のことである。

動物たちは、そう意図したわけでもないのに、互いに不即不離の関係を維持しつつ、つかの間のパターンを描き出しながら次の瞬間には消え去り、また別の形状へ変容してゆくような編成を示す、そうした「群れ」をしばしば形成する。そこに描き出されるパターンは唯一無二のものでありながら、ある必然性をそなえた迫真さのうちに、私たちの眼を奪ってやむことがない。

おそらくはじめに述べた「思考の同期性」もまた、絶え間ない変容のただ中で一瞬描き出される、そうした動物的群れの形象になぞらえることができるだろう。かつてベンヤミンが『都市の肖像』のなかで記した「鷗たち」の織りなす幻惑的な交錯のように、それぞれに孤立した言葉の営みが、あるとき、ある布置のなかで突如として連携しはじめ、唯一無二のイメージを描き出す。おそらくそれは、当事者にはそれとして明言しえず、ある独特の感触の余韻としてしか見いだされないような盲目の瞬間であるにちがいない。

そもそも人文知が探り当てようとしているのは、時代や地域を超えた一群のアーカイヴを形成しつつ、そうした言葉たちの群れが一種の同期性のなかで共振関係に入る、まさにその瞬間に切り出されるイメージなのではないだろうか。私が学会に期待しているのは、そうしたイメージを集団的な同期性のなかで創出し経験することのできる、ひとつの共振装置という役割だ。人文学者たちは、つまるところ、ひとりひとりは本質的な孤独のうちで作業し続けるほかはない。だが、彼らはまさにそのような作業を通してこそ、たんなるコミュニケーションを超えたディスコミュニケーションの共振のうちに、ある同期性のイメージを日々みずから織りなしつつ、またそれ自身を対象として描き出そうとしているのである。

宮﨑裕助