第6回研究発表集会報告 企画パネル

企画パネル:来たるべき啓蒙のヴィジョン
──大橋完太郎『ディドロの唯物論』を読む
報告:大橋完太郎

2011年11月12日(土) 13:30―15:30
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1

企画パネル:来たるべき啓蒙のヴィジョン──大橋完太郎『ディドロの唯物論』を読む

大橋完太郎(神戸女学院大学)
田口卓臣(宇都宮大学)
國分功一郎(高崎経済大学)
【司会】宮﨑裕助(新潟大学)

今回の表象文化論学会研究発表集会では、先年度(2011年)2月に法政大学出版局から出版した自著『ディドロの唯物論――群れと変容の哲学』を題材にした書評セッションが開催された。貴重な場を提案してくださった表象文化論学会の企画委員の方々、とりわけ先頭に立ってこのパネル企画を推進し、当日の司会も務めてくださった宮﨑裕助氏(新潟大学)に、真っ先に心からの御礼を申し上げたい。

明けて2012年となった今年はジャン=ジャック・ルソー生誕300年の節目であり、翌2013年には今回の対象となったディドロの生誕300年を迎える。新たなる「啓蒙」の可能性を考えるきっかけとしてはゆえなきことでもないということで、自著を対象にしたセッションを開催していただいたことに対する自分の負い目のようなものは幾分かでも軽減されるであろうか。もっとも、そのような一個人の心情は実際のところどうでもよいのかもしれない。学問的イベントにおいてとにかく重要なのは、その場において何が問題になっていたか、ということであるのだから。これに関しては、今回コメンテーターを務めてくださった田口卓臣氏(宇都宮大学)と國分功一郎氏(高崎経済大学)両名が提出した素晴らしいコメントが、単なる書評セッションでの発言内容を超えて、聴衆を「新しい啓蒙」へと差し向けたに違いない。ご多忙のなか参加を快諾していただいたお二人にも大いなる感謝をお伝えしたい(ちなみに、「来たるべき啓蒙のヴィジョン」というタイトルを提案したのは小生だが、これには前回の表象文化論学会大会でおこなわれたデリダの『ならずものたち』についてのセッションが念頭にあった。デリダがそこで可能性として述べていた「来たるべき啓蒙」について、『ならず者たち』では具体的な言及がほとんどなされていなかったため、それを別の角度から考えてみたかったからだ)。

大橋がおこなった著作の概要紹介と展望に関しては、発表に際して使用したPowerpointのファイルを添付しておくので、興味のある方はご参照いただきたい。ここでは田口氏、國分氏からいただいたコメントを概括しておこう。

田口氏からのコメントは大橋著作の議論を総体的に捉えたものであったが、多岐にわたる指摘をすべて取り上げることは控えて、もっとも印象に残ったものをいくつかあげさせていただく。まず、ディドロ、およびディドロが親しんでいたモンテスキューが「すでに革命が起こってしまった」地点に立って思考していたという卓抜した指摘について。この指摘は、ディドロが『ラモーの甥』を通じておこなおうとしていた「転倒」の意義を明確にし、晩年に起草されるディドロの政治哲学を解析するために大きな見通しを与える。さらに言えば、ディドロのこの考えは、革命とは果たされるべきものであり、来たるべきものであり、あるいは成就すべきものであるという(あるいはその裏返しとして、つねにある思い入れをもって想起され、解析され、参照されるべきものであるという)わたしたちの思考が陥りがちなステレオタイプを厳しく批判するものではなかったか。「出来事の前後」ではなく、「出来事のただ中」に存在しているというこの考えが惹起するアクチュアリティは、フランス革命とその受容、ひいてはそれをモデルに考えられた数々の「革命」を考える際に大きな重要性をもつものだ。ほかにもう一点あげるならば、田口氏がまさにディドロが語るように語ることを通じて指摘した、大橋著作における「セックスについての語らなさ」となるだろうか。田口氏はコメントのなかで――深い理解と共感、そして大いなる愛をもって――ほとんどセックス中毒者といわんばかりのディドロの肖像や、群れと変容を促進するもっとも手近な方法としてのセックスの重要性を強調していた。この発言は堂に入ったパフォーマンスを通じておこなわれ、登壇者や聴衆を大いにわき上がらせた。けれども重要なのはそのことだけではない。田口氏のこの指摘は、唯物論というものがどのようなスケールで実践され、自覚され、あるいは結果として引き起こされるかということに関して重要な示唆を含んでいる。端的に言えば、「わたしはひとつのモノである」ということと「わたしは一個体としての人間である」「わたしは性的存在である」ということの等価性と異質性とを考えることなしに、個体間の「群れと変容」を具体的に考えることは困難なのではないか、ということだ。この指摘は、ディドロ的な唯物論の実践を考えるときに、決して避けることのできない「現実存在」の規定と、それに関わる態度の探求を要求する。その意味では唯物論とはセックスについて直接的に語ることにほかならないものであり、その観点は本書にまったく欠けていたものであった。自分自身がある種のアカデミズム的「潔癖」主義に陥っていたのではないかと大いに恥じ入る次第だ。今後わたしはセックスについて語ることを余儀なくされた。

國分氏からのコメントは、田口氏のものとはある意味対照的で、クリティカルな点を鋭く射抜く明快なものであった。氏のコメントの冒頭にはマルクス『資本論』からの引用が置かれ、自然の発展段階と社会・経済の発展段階の――ほとんどアプリオリとも言ってよいような――懸隔をどのように考えるのかという点が、マルクス以降の唯物論にとっても問題であり続けたことを示唆してくれている。この問題系に即した仕方で、自身も自然性とそこから離れてしまった人間性との関係について思考を続けている國分氏のコメントは、両者を結ぶ紐帯として本書が差し出した「唯物論」という概念の位相をえぐるものであった。すなわち、いかなる視点をもって唯物論的な立場が規定されるのか、それは単なる「身体論」とは異なるものなのか、そこで想定されている「物質性」自体が、ある種のフィクション的なものではないのかなど、十八世紀の唯物論に対する根本的な問いかけが形を変えてなされた。当日おこなわれた大橋からの返答を併せて考えるならば、そこにはスピノザ主義の限界と可能性とがともに現れているように思われる。十八世紀の唯物論者にライプニッツやスピノザの哲学が影響を与えたのは有名な事実だが、それがどのような影響のもとでどのように転用されたかということについて、科学史を含めた学説史的な検討はあるとはいえ、その概念構成やその変移に関する吟味はそれほど進んでいないように思われる。スピノザにおける心身並行論としての唯物論が十八世紀の科学的な発見を通じてどのように読解されていくのかということを詳細に考察することを通じて、この時代の唯物論の独自性や哲学的な意義が明らかになるように思われる。國分氏からの指摘としてもう一点ここであげておくべきものとして、フランス現代思想とディドロ哲学との関係に関する有意義な指摘がある。それはフーコーによる解釈、すなわち『ラモーの甥』の持つ反デカルト的な側面と、それに関する評価に関係している。『狂気の歴史』のなかでは、『ラモーの甥』の主人公甥ラモーが見せる狂気は独自かつ不確定なものとして考えられており、古典主義時代の狂気と比べて、その明確な規定は施されていない。少し大胆にまとめるならば、フーコーにおける「古典主義」の定義をほころびさせるものがあるならば、それはこの『ラモーの甥』の様態のなかにあるのであって、そこには近代的な主体の構造では処理できない狂気との共生関係があるのではないか、ということになる。國分氏によるこの指摘は、ディドロの思考が今日なお有しているアクチュアリティを示して余りあるものであり、自分の今後の考えを大きく方向付けるものとなった。

最後にもうひとつ追記するなら、司会の宮﨑氏からも、ディドロの感覚論とカントの反省的判断力との違いをめぐる指摘を受けた。主体成立以前、すなわちカント美学以前の感覚論をどのように扱うかという問題は、カント主義をどう捉えるかという現代思想の問題と絡み合って、今日でも大きな問いを投げかけている。主体や統覚の位相、あるいはそうした概念なしでの主体化の契機を考慮せざるを得ないこの問いが、まさにカント以前とカント以後の感覚論を峻別している。その違いが生じさせる帰結は、たとえばリオタールなどの議論を見てもわかるように、現代の美学・感覚論の文脈にとっても刺激的なものとなり得るであろう。ディドロの感覚論の独自性を踏まえつつ、この大きな課題に関してもさらに考察を進めていきたい。

上に述べたことでは収まらない様々なコメントや、それに続く討議を通じて、本書が示そうとした問題は様々な角度から刷新され、多くの問題に関して開かれることとなった。概括するならば、本セッションで焦点となったのは、結局のところ唯物論とは何なのか、という端的な問いだったのではないか。それは科学的な物質構成とその理論による存在規定を信じることなのか、「この身体」の存在を信じることなのか、それとも、一切の「信」もなければ結果としての「知」も存しないような領域のなかで、「全体の中の部分」として運命を享受するべく思考を導いていくべきなのか。現時点で言えるのは、人間はまだそれほど、唯物論的になっていないということだ。それは言い換えるならば、唯物論的な立場から提起された「人間」の可能性がまだいささかも汲み尽くされてはいない、ということではないだろうか。

とにかく、一冊の書物を上梓し、それを精読していただくという機会は滅多にあるものではない。今一度、宮﨑氏、田口氏、國分氏をはじめとする関係者各位と、当日ご来場いただいたすべての人びとに大いに感謝することで、今回の報告を終わることにする。みなさまどうもありがとうございました。

大橋完太郎(神戸女学院大学)

【パネル概要】

ドゥニ・ディドロは、18世紀フランスを代表する啓蒙思想家として知られている。しかしディドロとは、実のところ百科全書的な体系知の完成者であるどころか、神の恩寵も弁証法的宥和もなき物質世界のうちに、不定形で「怪物的な」自然の秩序を抉り出したラディカルな唯物論者にほかならなかった──このようなディドロ像は、たんなるディドロの定型的解釈を覆すのみならず、まさに、われわれの時代がいまだ根づいている〈啓蒙〉の理念そのものの再検討を迫っているのではないか。本パネルは、このような問題設定のもとに、今年二月に刊行された大橋完太郎氏の力作『ディドロの唯物論』(法政大学出版局)を取り上げ、著者本人、そしてフランス文学・思想を研究する二人の気鋭の論者との討論を通じて、「来たるべき啓蒙のヴィジョン」を透視する。

大橋完太郎

田口卓臣

國分功一郎

宮﨑裕助