『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』公開書評会・報告
京都大学人文科学研究所の共同研究「フーコー研究」のメンバーによる、『フーコー研究』(小泉義之・立木康介編、岩波書店、2021年)に次ぐ第二の成果論集『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』(佐藤嘉幸・立木康介編、水声社、2021年。執筆者と目次はサイトを参照。)の公開書評会が、2021年9月25日にオンラインで開催された。これは、2021年3月に終了した共同研究を引き継ぐ「フーコー研究フォーラム」の第1回イベントでもある。
当日はまず、共同研究の班長を務めた小泉義之から、長文のコメントが読み上げられた。その論点は大きく二つにまとめることができる。第一の論点は、フーコーとマルクス主義の関係についてである(佐藤嘉幸、相澤伸依、箱田徹、サンドロ・メッザードラ論文との関係で)。フーコーは1971-73年の二つの講義『刑罰の理論と制度』、『処罰社会』において、マルクス主義に最も接近している。これら二つの講義において、フーコーはマルクス主義的な「移行」(封建制から資本主義への移行)の問題を扱っている、というのが小泉の指摘である。フーコーはこれらの講義において、諸個人の身体、生活を生産力に統合することで労働力へと変容する過程を分析しており、それを「寄託監禁」、「規律権力」と呼んでいる。この問題は、マルクス主義の概念を用いれば、労働力の形式的包摂から実質的包摂への移行と言い換えることができる。しかしながら、1975年に出版された『監獄の誕生』では、問題はマルクス主義的な「移行」ではなく管理社会批判になり、「寄託監禁」という概念も消えている。そのとき、1)フーコーにおけるこの視点の変化をどう考えるべきか、2)資本主義に対する抵抗の戦略をどのように規定すべきか(ルンペンプロレタリアートや狂人が抵抗の主体になるのか、あるいは、メッザードラの言うように、「敵対性」概念に依拠するのか)、というのが小泉の問いである。
それに対して、佐藤と相澤から、以下のような応答がなされた。1)小泉は『処罰社会』から『監獄の誕生』へと書かれた時代順に読んでいるが、むしろその順序を逆転させて『監獄の誕生』から『処罰社会』へと遡行すれば、『監獄の誕生』が単に福祉国家批判ではなく、規律権力を資本主義構成の原理として考察した論考であることがわかる。つまり、『監獄の誕生』が提起する規律権力概念(「寄託監禁」はここでは監獄への「収監」に置き換えられている)の背後には、下層階級の規律化によっていかにプロレタリア階級が形成され(労働力と生産力の形成)、資本主義が構成されたか、という問いがある。2)フーコーは『処罰社会』や『監獄の誕生』で権力のテクノロジーを問題にしており、抵抗戦略を明示していない。その練り上げが始まるのは、『知への意志』以後の時代である。フーコーは、私たちが資本による実質的包摂の時代にいるからこそ、資本主義という経済体制のみを変革しても(もちろんフーコーにとっても、監獄権力が維持するような階級関係の変革は重要だった)、資本への服従原理である「より深遠な権力システム」としての規律権力が温存されていては意味がないと考えた。だからこそ、『安全・領土・人口』で提起された「反司牧革命」、すなわち「いかなる仕方でも統治されることのない」自己統治のシステムを作り出すことが重要だと考えたのではないか。フーコーの抵抗戦略は結局、資本による実質的包摂に対応する抵抗戦略として、労働者−主体の服従化の構造を主体に内的な仕方で変革する、という戦略ではないか。
また箱田からは、以下の指摘がなされた。フーコーを統治性論、すなわち現代思想の社会学化から「解毒」するのが、メッザードラ、バリバール(=ウォーラーステイン)の戦略であり、そこから例えば、海外の植民地化と国内の植民地化(プロレタリア化)の間に並行関係を見て、移民、労働を分析するという視点が導入される。フーコーにそのようなマクロ的視点を再導入するという試みが、近年ますます重要になっているのではないか。
小泉の第二の論点は、フーコーのパレーシア概念を、「主体の分裂」(フーコーが近代の人間学の本質的特徴と規定した「経験的−超越論的二重性」)を乗り越える「主体の同一性」(言表と行為の一致)獲得の試みと解釈するとき、まさしく精神分析そのものが乗り越えの対象となっているのではないか、というものである。(立木康介、坂本尚志、武田宙也、藤田公二郎、久保田泰考論文との関係で。なお、同様の論点が、第二の書評者である慎改康之からも提起された)。この指摘に対して久保田からは、経験的−超越論的二重性は認識(あるいは精神分析)の条件であり、それは言表と行為の一致としての「主体の同一性」と両立可能なのではないか、その上で、人間主義的な認識論的枠組みをどのように超えるかという問題を提示すべきではないか、という反論が提出されるなど、白熱した議論が展開された。ただ、この論点をめぐる議論については、体調不良のため立木が欠席であったことと、残念ながら紙幅が尽きてしまったため、詳細を紹介することはできない。以下に書評会全体の動画が公開されているので、ぜひアクセスして、書評者と執筆者間の濃密な議論を直接ご覧いただきたい。
第二の書評者、慎改康之からは、本論集に掲載されたすべての論文に対してコメント、質問がなされ、執筆者との間で濃密な議論が展開された。その中でとりわけ興味深かったのは、サボ論文に関する次の指摘である。同論文では、「統治性」の研究によって「権力」から「真理」への「移行」が促された、とされているが、フーコーにおいてはそもそも、権力(刑罰制度や性の言説化をめぐる権力)の問題そのものが、とりわけ主体性と真理の結びつきをめぐる「知」(「非行性」や「セクシュアリティ」)の問題との関連でもたらされたものであるように思われる。そして、主体と真理との結びつきの一つのやり方としての「人間学的思考」が、1960年代の「考古学的探究」にとっての主要な標的となっていたことを思い出すなら(そしてフーコー自身が、1980年代の回顧的発言のなかで語っていたことを真剣に受け止めるなら)、むしろ逆に、主体と真理の関係をめぐる問いこそが、「権力」や「統治性」などの一連の問いを導いたのだと考えるべきではないか。この問いに対する応答は、サボ論文の翻訳者である清水雄大よりなされた。慎改の指摘が可能になるのは、フーコーの真理概念そのものが二重であるからではないか、つまり、真理とは一方で、権力が構成する「真理の体制」であり、他方で、主体を触発する「他なるもの」としての真理なのではないか。それゆえ、サボの指摘と慎改の指摘は両立可能なのではないか。
これ以外にも多くの活発なやりとりが書評者と執筆者の間で交わされたが、紙幅の関係上、ここで詳細を報告することはできない。フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』の豊穣さを浮き彫りにした、4時間にもわたる書評会の全貌を、ぜひ動画でご堪能いただければ幸いである。
(佐藤嘉幸)